<諭吉と「蘭学事始」>
杉田玄白著「蘭学事始」という書物の運命について、書誌的に興味ある事実が福沢諭吉によって明治半ばに明らかにされました。(以下、岩波文庫改訂版の解説で紹介されている諭吉の言による) 「蘭学事始」という書物は、杉国家に―冊だけ残されていたが、それも安政の大地震で焼失し、もう世に一冊もないとみなは嘆き、あきらめていた。ところが幕末の末年、たまたま神田孝平 (のちに諭吉らと同じ「明六社」同人の洋学者)が本郷通りを散歩途中、湯島聖堂裏の露天の古本屋で古びた写本を目にした。手にとってよく見ると、紛れもなく「蘭学事始」であり、しかも玄白が大槻玄沢 (玄白と良沢から一字ずつもらった)に寄贈したものであった。諭吉は死んだ友人が生き返ったような気分であったと、例の巧みな比喩でその時の感激を生き生きと述べています。
諭吉は同じ文章の中でその内容にも触れています。
「書中の記事は字々皆幸苦、なかんずく明和八年三月五日蘭化先生 (良沢)の宅に始めてターフル・アナ トミアの書に打ち向かい、熔舵 (ろかじ)なき船の大海に乗り出せしが如く茫洋として寄る可きなく唯あきれにあきれていたる迄なり云々。以下の一段に至りては、我々は之を読む毎に、先人の苦心を察 し、その剛勇に驚き、その誠意誠心に感じ、感極まりて泣かざるはなし…」
オランダ語訳の 「解剖図譜」を目の前にして、良沢、玄白、中川淳庵らはまったく理解できず呆然としているところから始まって(良沢のみがわずかのオランダ語の単語を解するのみであった由)、 わずか二年弱で大方の翻訳をやり終えた。その艱難辛苦、刻苦精励を思って同じように近代草創期の苦労をしている諭吉らは、読むたびにその箇所へ来ると感極まって涙が溢れてとまらなかったと言っているのです。あまりに周知のことかもしれませんが、翻訳苦労の有名なエピソードをひとつだけ紹介しておきましょう。
――三日に一度くらいのペースで翻訳作業をやったが、初めの頃はわけが分からず一日お互いににらみ合って、一行も進まない日もあった。ある日、鼻のところにフルヘッヘンド しているものと書かれていたが、どうにも解釈がつかない。それで良沢が長崎から持ち帰った小さな辞書をみると、フルヘッヘンドの注釈 として,本の枝を切れば、その痕がフルヘッヘンドしているとか、庭掃除をすれば、そのちりやゴミが集まってフルヘッヘンドしているとある。いろいろ考えあぐねた末、玄白は鼻も本株もちりもみな盛り上がっていると着想 、みなもそうだそうだ ということになり、堆という訳語をあたえたが、このとき嬉しさはたとえようもなかったとしています。
加えて良沢と諭吉のつながりは、もっと因縁めいています。じつは「解体新書」の翻訳に着手した良沢邸のある中津藩邸は、その約九十年後、こんどは諭吉が蘭学塾 (のちの慶應義塾)を開くことになるところなのです。このことを思うたび、私は近世から近代への科学文化の歴史的なバトン・リレーを感じて、胸が熱くなる思いに駆られます。私事になりますが、私がミャンマーに移住する直前、たまたま築地にある聖路加病院の敷地を散歩しているとき、偶然「慶應義塾発祥の地」の記念碑があるのを発見して、感動したものでした。
さらにもうひとつ。この偶然の「解体新書」の写本発見を無にしてはならないと、幕末維新の世情騒然、砲弾銃弾行き交う動乱のさなか、諭吉は私財をはたいて出版にこぎつけるのです。これは自伝で語られた他 の事実、つまり 1868年 5月 15日 上野の山で幕府彰義隊と大村益次郎率いる官軍との決戦が行なわれ、砲弾の音がとどろき、上野広小路界隈の住民が大八車に家財道具を載せて右往左往しているとき、諭吉は義塾でいつものように平然とウェーランド経済書の英語原典購読の授業を行なっていたという故事。両方 の事実を合わせて考えると、(大砲というより)進んだ諸科学の有無こそが国の盛衰を決めるのだという堅い信念が感じ取られます。いいかえれば、進んで西欧の文化を吸収し、目先のことにとらわれず広い視野 と展望で物事をみることを諭吉はなにより重くみていたのでしょう。
諭吉は同じ文章のなかで「解体新書」の出版の意義について、こう述べています。 「(この書の出版は)蘭学事始の万歳にして、ただに先人の功労を日本国中に発揚するのみならず、東洋の一国たる大日本の百数十年前、学者社会にはすでに西洋文明の胚胎するものあり、今日の進歩偶然にあらずとの事実を、世界万国の人に示すに足るべし」
さきに三浦梅園のところでみように、まさに江戸時代 、蘭学者たちが身の危険を冒して西欧の科学知識 にアクセスし、たんに技術的な小手先の改良ではな く、世界の見方の根本的な転換にまで肉迫するところまで到達したこと。その文化的な到達と前提があったればこそ、明治になっての近代化が急速に進んだのだと諭吉はみているのです。これは 「一身にして二生」 (「文明論の概略」)を生きた諭吉ならではの卓見です。
じつはこれと似たような見解を、「蘭学事始」で玄白は述べています。「実は漢学にて人の智見開けし後に出でたることゆゑ、速かなりしか 。…」 つまり江戸期の儒学における思考訓練が、すみやかな洋学摂取 に役立ったとする見方ですが、これはこんにち大方の研究者が認めていることです。ただ諭吉の言ったことの厳密な意味は、江戸期に儒学から出発した知識人たちが苦労して洋学を学んだこと、そのことがのち の近代化への布石になったということでしょう。
私はどこかで日本近世史において (少なくとも知識人社会において)仏教的世界観から儒教的世界観への転換があったればこそ、維新以後の西欧近代の文化文明の吸収がスムーズにいったのではないかと述べたことがあります。その際私の念頭にあったのは、当地ミャンマー‐における強すぎる仏教の精神的影響力であり、 とかく生活の合理化の障碍になりがちなその作用でした。つまり政治的経済的社会的な問題を、 どこまでもこの世の問題としてとらえ解決を図るのではなく、どこか途中であの世の問題へとすり替えてしまい、あきらめと自己満足で思考が閉じられてしまう強い傾向のことです。ただし、ミャンマーにおける仏教は、植民地支配と軍政支配による民族的屈辱の体験をやわらげて、ナショナルな精神的誇りの拠り所 になっているという側面もあり、複雑な役割を果たしています。
※思春期の故郷である北海道釧路に 2009年夏帰省した折、市内の古書店で見つけて買ったものです。こ のとき広瀬淡窓の 「淡窓詩話、約言或問」(岩波文庫版)も 見つけました。ただこれは現代語訳も注釈 もなしの、漢文の読み下し文だけのものでした。ともかくこの古書店、いまはいわゆるシャッター商店街と化したかっての繁華街の一角に比較的新しくできたものです。ミャンマ一に来てから、帰省のたびにここでわたしは神田の古書街ですら探しても みつからない古典を何冊も見出しました。ルナンの「イエス伝」、哲学者フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」、津田左右吉の「文学に現れたるわが国民思想の研究」、三枝博音編 「三浦梅園集」等々、おそらくのべ数十冊は購買したように思います。店主にたずねると、釧路市民のために意識して岩波文庫版の古典を収集しているとの話。そのときは ちょうど店の三階でジャズコンサー トが催されている最中で、経営の困難が予想される田舎町の古書店が、地方で文化を下支えする地味ながら地の塩のような役割を果たしておられることにいたく感動したことを覚えています。1980年代からのあの文化には不向きな市場万能の荒々しい時代、北海道地方の経済衰退の困難な時期をよくぞ生き抜いてこられた、と尊敬と感謝の念を覚えました。
以下、緒方富雄氏の校註と解説も参考にして「蘭学事始」の簡単なおさらいを。まず目に付くのは、著者名が杉田玄白・中川淳庵・石川玄常、桂川甫周の連名になっていて、前野良沢の名がないことです。実際この蘭学社中(翻訳サークル)の主導者は、一番の年長で蘭語の知識がいくらかあった前野良沢でした。しかし良沢は一風変わった潔癖な人で、この翻訳事業をみだりに有名になる手段にはしないとして名前を出すことを拒絶、また「事始」の序文を書くことすら断ったといいます。良沢の変人ぶりを玄白は、かなり詳 しく書いております。良沢はよくいえば完全な学者肌のひとで、青木昆陽に入門して始めた蘭語習得と蘭語書物を解読することに集中して一日中家に閉じこもり、ほとんど世間的な交際はしなかったそうです。ある人が藩主奥平昌鹿に蘭語ばかりやっていて藩医として職務怠慢ではないかと意見すると、あくまで昌鹿は良沢をかばって、良沢のやっている仕事はきっと後世のために役に立つだろうから、放っておく方がいいと、とりあわなかったといいます。その昌鹿、半分冗談に良沢を「蘭化(らんか)」、つまリオランダ語のモンスターと呼んだといいます。吉宗や上杉鷹山 (ようざん)などと同様、西欧のことばではこうした開けた殿様のことを啓蒙専制君主といいます。幕末になると、島津斉彬、伊達宗城、松平春獄など続々と登場してきますが、江戸中期ではまだまだ珍しかったのです。しかし公共精神においては、玄白も勝るとも劣りません。翻訳の困難や出版の危険性を乗り越えさせたのも、医道を改良して少しでも人々の命を救うために役立ちたいという強い気持ちがあったからでした。小塚原での腑分けに立ち会うと決まったとき、自分だけではもったいない、同業の人々にも立ち会ってもらって成果を分かち合おうと、よくは知らない前野良沢や中川淳庵にも声をかけたのでした。いま風にいうと、学問の公開性、公共性を地でいっているとい ことでしょうか。玄白は年とって学問の第一線 に立てなくなると、こんどは 洋学書籍を多く収集して後進のために利用できるようにしたのです。「解体新書」の翻訳作業には、入れ替わり立ち替わ いろい ろな人が参加したようです。三浦梅園とも接触のあったベテランの長崎通詞吉雄耕牛なども、語学面で翻訳事業を助けたといわれています。まさにこの事業、多くの人々の学問的な無私の精神 、公共的な気高い協力の精神に支えられて完成したことが分かります。
余談ですが、前回の拙文で私は江戸中期に蘭学を志した人々のほとんどが医者だったといい、その理由についても推測を述べました。「蘭学事始」にもそれらしきことが載っております。「それ医家のことはその教えすべて実に就くを以て先とする」、つまり医者はもともと患者の実際の身心を対象として病気を治療する処置をとる。今日風 にいいかえれば、医者は職業柄もともと実証的であるように仕向けられている。だから実際経験、つまり観察や検査をもとに症状と原因との因果関係を分析解明し、治療を施こす西洋医学の仕組みについては、他の職業のひとより呑み込みが早かった、というのでしょう。玄白が平賀源内か らいろいろ西欧の文物の説明を聞いて、「和蘭実測窮理 (オランダの物理科学のこと)のことどもは驚き入 りしことばかりなり」としているのも、実証的にモノに即して理屈・因果関係を究明する、その方法や考え方に驚いているのです。※
※蛇足めきますが、蘭学導入以前にも理気二元論をとる朱子学に批判的な観点から、伊藤仁斎 (1627~ 1705)らは、身体の病は身体そのものに原因があるとする「一元気説」を唱え、西洋医学の考え方に近いところまでいっておりました。それにしても西洋医学は、はるか古代ギリシアのヒポクラテスに端を発します。臨床的経験の重視や栄養と生活法の重視、自己免疫力の強化のための自然療法など、こんにちなお有効な医学思想の元になっています。
だから入手した ドイツ語原本のオランダ語訳本「解剖図譜」を、小塚原 (骨ヶ原)での腑分けの実際と照ら合わせてみようという動機づけも生まれてきます。そのとき腑分けだけでなく、野ざらしの自骨を調べてみて、オランダ書のイラス トレーシヨンとまったく違がわないことも驚きであり、カルチャーショックでした。 自分たちは医業を通じて主君に仕えているのに、恥ずかしいことにその基本となる人体の実際の構造も知らなかった。知った上で治療を行なえば、きっと大きな利益があるにちがいない。そのためにこの書をいっしょに翻訳しようと、玄白は良沢らにその場で提案し快諾をえます。
加藤周一はその名著 「日本文学史序説」でこの場面の決定的な歴史的意義をたくみに表現しています。 「それこそはまさに歴史的瞬間であった。日本史上そのときはじめて、日本人は野ざらしの人骨を拾い上げたときに、人生の無常をではなく、人体の構造を考えた」、と。 仏教的世界観から近代的な科学的世界観への転換という歴史的瞬問。つまり医学史のみらず、日本史全体にやがて影響を及ぼすようになるであろうものの観方、考え方の転換が、小さな小さな翻訳サークルに神の啓示のように訪れたというのです。
もう一点、玄白の言から分かることは、主君への忠誠心が盲目的な服従心 (恭順)というより、公共の利益へ奉仕する精神と相即不離だということです。この時代、「天下はひとりの天下にあらず、すなわち天下の天下なり」という天下万民共有論の考え方――天下は君主の独占物ではなくて、万民が共有するものである――が、進んだ知識人の間では強くなっています。その結果、主君への勤めとは、イコール、世の安定と万民の幸福という公益に奉仕することになるのです。もともとは主君という人格への個人的忠誠だったものが、広い社会一般の公益に身を捧げるというように高度化普遍化して変わっていくのです。
梅園にも「民衆を安んずるより大いなる道はなく、民衆を利するよりすぐれたる功はありません」 とあります (多賀墨卿君にこたふる書」)。それはただちに近代思想とはいえないにしても、西欧科学の輸入に付随するものとしての近代市民社会思想の影響は認められるでしょう。さらにもうひとつの側面として、武士道精神論からのスポット・ライト。武士としてあるべき忠誠心は、身分制度にあぐらをかく驕慢さと背中合わせの服従心――上の者に弱く、下の者には強い――ではなく、フランスのことわざにあるノブレス・オブリージユ (高貴な徳義義務)にあたる徳性です。つまり身分の高いものほど、より厳しい道徳的な振る舞いをなければならないという貴族的道徳感情です。あるいは端的には、新渡戸稲造が英文著書「Bushido」で理想化して表現した武士道精神――「弱きを助け、強きを挫く」――の発露、すなわち民に対する慈愛心と一体のものといつてもいいでしょう。 たしかにこうした道徳性は封建制度が育んだものですが、やがて訪れる近代市民社会における公共精神に引き継がれていく可能性をもっています。近代市民社会は、一方で個人の利己心や企業家的な利潤追求を社会発展の動力として是認しつつ、他方でアダム・スミの「見えざる手」の如き予定調和的でないにしても、動力のブレーキ役として連帯意識を育み社会統合につながるものなのです。
ところが多くのアジア社会においては、ヨー ロッパ的意味での封建制を経過せず市民社会も成立しなかったため、公共精神の道徳的伝統が弱く、そのために公職にある者がすぐに私利私欲に走る悪習、つまり賄賂や不正蓄財という現象が後を絶たないのです。科挙の伝統にみられるように、一族の出世頭がそれまでに受けた支援の見返りに利権供与するのは当たり前という風潮が根強く残っています。またそれだけでなく、制度とその運用に法の支配――議会で制定された法に基づき、為政者の権力行使をコントロールす る統治のあり方――が貫徹されないため、政治が権力者の都合のいいようになされる傾向が強いのです。たとえば、軍が国民軍というより特定の支配者の私兵と化し、国民の要求をお つぶす役割すら果たす場合 があるのです。
最後に漢学による思考訓練が、のちのちの西欧化に役立ったことについてもう一言。 日本はまれにみる翻訳大国といわれていますが、確かに明治以降の日本の近代化に翻訳が果 たした役割は大変大きかった。そのことの礎を築いたのも、「解体新書」翻訳事業でした。翻訳に際してオ ンダ語に適切に対応する熟語 をつくりだすことにどれほど苦労したかを玄白は語っていますが、その際漢学の知識がどれほど役に立ったことか。明治になって新しい用語――たとえば権利、天賦人権、演説、哲学、社交等々―をつくった西周、中江兆民、福沢諭吉らは、みなヨー ロッパ語だけでなく漢籍への造詣の深かった人たちです。その意味で さかのぼって古代、王仁 (わに)が百済から漢字をも たらしてくれたことにほんとうに感謝しなければな りません。造語能力の高い漢字をもたず大和言葉だけしかなかったら、日本は中国や西欧の進んだ文明文化をこれほどまでに自分のものにできず、 したがっていまのような国にはなっていなかったでしょうか ら。もっともそれはわが国についてだけの話。つい一昔の こと、儒教文化圏 (中 国・日本・韓国・台湾・香港・シンガポール)における近代化の成功がひところ話題になりました。たしかに日本の例でも分かるよ うに、漢字を有することの有利さに疑間の余地はありません。しかしその後アセアン諸国の近代化への一定の離陸成功をみるとき、儒教や漢字の存在が絶対的条件ではないことも明らかになりました。ミャンマーにいて分かったことですが、漢字がなければそのまま英語で通用させればよい、それで異国文化を吸収 しつつなお国民文化のアイデンティティを保持するとい 点で少なからず問題があるにせよ、さしあたり (商品経済化や 技術的ノウハウ導入)の目的のためには十分であることも事実です。いや IT大 国インドの成功例にあるように、世界語たる英語ができる方がむしろグローバリゼーションに対応するのに有利であるという時代になってきています。まさに禍福はあざなえる縄の如し、自国の文化経験を絶対視することはますます通用しなくなりつつあります。
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