近代の夜明けー大分県人(賢人)の事績に触れて(5)

<福沢諭吉の「学問のすゝめ」>
 福沢諭吉は、大分県人というより近代日本の代表的人物といえます。つまり啓蒙思想家として天賦人権論を紹介したという意味でも、また日本国の独立と国民一人ひとりの独立自尊を促したという意味でも、県人という枠には到底収まりきらない国民的思想家、教育家、経綸家といえます。つまり三百諸侯によってバラバラに支配されていた封建日本から、統一的国家の自覚のある国民という存在の形成に力を尽くした――どの程度成功したかどうかは別にして――思想家でありました
 いま大分県の過去を考えたとき残念なのは、幕末の西南雄藩主導の維新革命に、小藩に分裂していた豊前豊後の諸藩は完全に置いてけぼりをくってしまったことです。たしかにこれはこれでその原因について究明する必要があるでしょう。しかし維新革命のバスに乗り遅れたがため革命の果実としての権力に預からなかったものの、洋学のメッカとしての過去の伝統が諭吉において継承されて花開き、明治日本の形成に小さくない役割を果たしたと考えることはできるかもしれません。その意味でなら大分県は諭吉を生んだことで、出遅れの償いは果たしたといえるのかも知れません。
――明治 3年に諭吉が中津へ帰った折、藩の行く末について煩悶している藩の重役たちは、諭吉の話をききたいとして集まりをもったことがあった。その際諭吉が話したことは、どうせ今の武器は政府軍が調えば不要になるだろうから、いっそ藩は武器を捨て丸腰になって学校をこしらえて、文明開化の何物たるかを藩中の少年子弟に知らせるのが一番の方針だと述べたといいます。
 明治4年の廃藩置県の前でしたから先見の明ありですが、まさにこの点に「学問のすゝめ」のねらいが、明瞭にみてとれます。これからは文明開化の時代になるだろうから、次世代に早く西欧流の教育をほどこし、有為の人材を育てることが一番だというのです。そのための精神的準備として、旧い考え方の弊害を説いて人心の一大転換を図り、新しい考え方になじませること、これを趣意として諭吉は「学問のすゝめ」を書いたのです。

桑港、写真屋の娘と、諭吉自慢の一枚(1860年)

凛々しい侍姿。パリにて (1862年)
 さて、諭吉自身の言によれば、「学問のすゝめ」の初編 (明治五年) から最後の十七編 (明治九年) までの総発行部数は三百四十万部、当時の日本の人口は三千五百万人ですから、実に十人に一人はなんらかの形でこの書を手にしたということになります。まさに空前絶罐のベス ・セラー、スーパー・ミリオン・セラーであります。幕末に出された「西洋事情」から「文明論之概略」にいたるまで次々とヒットを飛ばす諭吉は文字通リベストセラー著作家で、花鳥風月を愛でる非哲学的国民であり、思想モノは売れないはずの文化風土においては、それ自体事件でありました。それでは突然日本人がドイツ人のような哲学的国民に変身したかというとおそらくそうではなく、時代の激動期にバスに乗り遅れるなとばかりに生来の好奇心、新しもの好きが昂じて、あの人が読むなら私もと数字が積み上がっていった結果でしょう。おかげで、幕府外国方翻訳御用所勤めを最後に官職につかず在野で生きようと決めていた諭吉にとって、著書の成功により生活のしっかりした見通しも立ち、(他人に気兼ねせず) 独立思想家として生きていく自信もできたとしています。(言論の自由は欠けていても、江戸末期に印税制度がすでに確立していたのも驚きです)。 ともかく中味に問題はあるにせよ、これだけの国民が西欧の先端思想に先を争って接触しようとしたこと、これは江戸時代以来培ってきた文化風土や民度の一定の成熟を表していることには間違いありません。日本の近代化がたんに欧米列強による外圧の結果のみでなかったことを証立てするものです。


 初編の冒頭を飾るのは、普通教育を受けた日本人なら誰一人知らぬものはない、格調高い一句です。 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」西欧であれば神というところを東洋風に天としていますが、まぎれもなく生まれながらの人間の権利としての平等を謳ったものです。アメリカの独立宣言――「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、創造主によって一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求が含まれることを信ずる」というほど具体的ではありませんが、ついいままで士農工商の身分制社会にどっぷりつかっていた人々に、この一句はおそらくは強烈なインパクトを与えたであろうことはまちがいありません。ペリー東洋艦隊の威容と砲声が、封建世のまどろみから人々を肉体的に目覚めさせたとすれば、諭吉のこの一句は人々を精神的に覚醒させ る効果があったに違いありません。
 しかし諭吉の場合、そこから世の現実の不平等を糾弾し、それを是正すべく人々に訴えるという回路 ―――明治十年代に自由民権運動とちがって―――はとりません。「門閥制度は、親の仇でござる」というほどですか ら、不平等をよしとしているわけではありません。しかし封建世の身分差別はなくなっても、社会からあらゆる差別がなくなるわけではない。つまり人間は確かに権利としては平等であるが、しかし実際の世の中には賢愚、貧富、貴賎、地位の上下等の差別が厳然としてある。そしてその差別がどこから生まれるかといえば、諸個人が学問を身につけているかどうかによるというのです。 諭吉の 「独立自尊」は、在野精神の旺盛さはあるものの、いわゆる反体制的な精神とは縁遠いのです。つまり「独立自尊」は、明治の官尊民卑の風潮への批判であり、いわば民活のすすめなのです。
 「人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人と なり、無学なる人は貧人となり下人となるなり」 貧困が学問をする平等の権利を奪うのだから、貧困問題の解決が先ではないのか、というのはもっと後の話です。ここでは諭吉は、新しい社会をつくるために必要な主体的な条件に的を絞って述べているのです。四民平等という条件があたえられたならば、あとは個人の「才徳」の勝負だ。そして徳のあるなしは、個人が学問を意識して身に着けるかどうかで決まるとしているのです。権利としての平等を理念としておさえつつ、リアルなまなざしで現実を直視する、そしてその理念と現実の橋渡しをするのが学問なのです。ことばとして明示されてはいませんが、自由競争の原理が働くようになった社会においては、知識の有無こそが明暗を分ける。まさにいまでいうデジタル・ディバイドです。だから学問が鍵をにぎる。ただ学問といっても過去の賢人の言説をなぞるだけの儒教的スコラ学では役に立たない。いわゆる「実学」が必要なんだといいます。岩波・国語辞典には、実学を「理論より、実用に重きを置く学問」としていますが、諭吉の実学はもう少し広くベーコン的意味での実際的学問――「知は力なり」――で、理と利 (理論と応用) 両方を含みます。しかしのちのち慶応義塾の歴史において、実学が理財の学、つまり経済学に還元されてしまう根強い傾向が出てきます。そこから主に財界に人材を送り込むことを使命とする「塾風」も生まれてきたのです。
 さらに学問の修得の意義は、個人一身の立つ立たないのことに限りません。諭吉は欧米列強による植民 地化の差し迫る危険性を念頭において、学問は一身の独立を助けるだけでなく、一国の独立の確保にもつながると強調します。なぜなら物事の理をわきまえた独立力行のひとは、一身の自由、一国の自由のため には相手が外国であれ政府であれ、恐れず闘うであろうから、というのです。
――「理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り (かれらに道理がある場合には、アフリカの黒人にも敬 意を払い一N)、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては 日本国中人民 一人残らず命を棄てて国の威光を落とさぎるこそ、一国自由独立と申すべきなり」
――「かりそめにも政府に対し不平を抱くことあらば、これを包み隠して暗に上を怨むことなく、その路を求めその筋に由り、静かにこれを訴えて遠慮なく議論すべし。天理人情にさえ叶う事ならば、一命も抛 (なげうっ) て争うべきなり」
 そこで諭吉が理想とする独立立行のひとの反対にあるのが、知恵もなく金銭欲だけで子孫にものの道理 を教えることもないような人々、知徳に欠ける人々です。諭吉は「愚民の上に苛政あり」という西洋のこ とわざを引いて、愚かな国民は無慈悲な政府しか持てないし、反対に良民であればよい政府が持てるのだ としております。別な言い方をすれば、国民はその民度に応じた政府しか持てない――この民にしてこの 政府あり――だから、よい政府を持ちたかったら民度を上げるよう努力せよというわけです。民度を上げるとは、「先ず一身の行いを正し、厚く学に志し博くことを知り、銘銘の身分 (身分制の身分でなく、社会的職分という位の意味―N) に相応すべきほどの知徳を備え」ること、というほどのことでしょう。だから自分でなすべきこともなさず、批判ばかりしている政府へのたんなる不満分子では、 民度を上げることはできないわけです。要は政府自身がある意味では国民の知徳の状態を映し出す鏡なわけです。いずれの国にあっても、政府という鏡を通して国民は自分自身を見ている、(すべてではないにせよ) そういう側面があるのです。

▼第二編では、いまいった政府と人民との関係のあり方について、今一度纏々 (るる) 自説を展開します。 具体的にある国の状態をイメージしながら読むと、思わずひざを叩きたくなります。相当長いですが、諭 吉のものの捉え方や表現の仕方を知るうえでの参考にもなりますので、ぜひ我慢してお終いまで読んでく ださい。
「しかるに、無学文盲、理非の理の字も知らず、身に覚えたる芸は飲食と寝ると起きるとのみ、その無学のくせに欲は深く、日の前に人を欺きて巧みに政府の法を遁れ、国法の何物たるを知らず、己が職分の何物たるを知らず、子をばよく生めどもその子教うるの道を知らず、いわゆる恥も法も知らぎる馬鹿者にて、その子繁昌すれば一国の益は為さずして却って害をなす者なきに非ず。かかる馬鹿者を取り扱うには、とても道理をもってすべからず、不本意ながら力をもって威 (おど)し 、一時の害を鎮 (しず) むるより外に方便あることなし。これ即ち世に暴政府のある所以 (ゆえん) なり、独り我一日幕府のみならず、アジヤ諸国古来然 (しか)り 。
 されば一国の暴政は、必ずしも暴君暴吏の所為のみに非ず、その実は人民の無知をもって自ら招く禍 (わ ざわい)なり。・・ ・人民もし暴政を避けんと欲せば、速やかに学問に志し自ら才徳を高くして、政府相対し同位同等の地位に登らざるべからず。これ即ち余輩の勧むる学問の趣意なり」
 確かに専制は「民はこれに由 (よ)らしむべし、これを知らしむべからず」で、人民を無知蒙味にしてお くこと、いわゆる愚民政策を統治の基本としております。その意味では人民は被害者なわけですが、ではいつも一方的な被害者がというと、そうではない。諭吉は、人民の無知蒙味が暴政府の圧政に対応しているという裏面の関係に着眼して、これを国民の側が主体的に捉え返し、自分を賢くすることによってこのあり方を克服するという能動的な見地に立っているのです。政治支配は、強制と同意のふたつの契機から成り立つとされています。どんな政府も強制一本やりでは長くは政権を維持できない、かならず支配の正統性(正当性)をうちだして人民の同意を勝ち取ろうとします。たとえば、ふがいない政府であるくせに、西側の新植民地主義的内政干渉に対して、国の主権と国民の利益を守るためにいかにも奮闘していると内に向かっては大言壮語するどこかの政府。しかしそういう政府の様を馬鹿馬鹿しいと思って沈黙すれば、それもまた同意の一種とみなされ利用される。そういう意味では、人々の無知と無気力が暴政府をつくっているともいえるのです。脱封建の新社会において、諭吉がイメージしている独立の気概をもつ人民というのは、欧米社会のいわゆる市民 (citizen)に当たるものでしよう。日本一国の独立を守るには、お上に善政を期待するだけの封建世の無力な民から、自己決定能力をもつ市民、国民としての権利と義務を自覚する市民への転換がなにより必要だと諭吉は考えたのです。

▼第三篇では、「一身独立して一国独立する事」として、列強の圧力に抗して国の独立を守り、近代化するために必要な国民像がより具体的に述べられています。まず専制支配に甘んじているような人間は、「客分」意識、つまり政治の主人ならぬお客様意識が抜けないので、一命を賭しても国を守ろうとする気概はもたないという。だから専制支配の国は、みかけは強そうでも実態はそうでないという。 「(今川義元が桶狭間で信長の奇襲攻撃で討ち取られたあと、すぐ領国が滅んだことの理由はというと一N) 駿河の人民は、ただ義元一人に依りすがり、その身は客分の積りにて、駿河の国を我が本国と思うものなく、フランスには報国の士民多くして国の難を銘々の身に引き受け、人の勧めを待たずして自ら本国のために戦う者あるゆえ、かかる相違も出来しことなり。これによって考えうれば、外国へ対して自国を守るに当たり、その国人に独立の気力ある者は国を思うこと深切 (親切に同じ、あつい気持ち一N)にして、独立の気力なき者は不深切なること推して知るべきなり」 同じような例をあげてみましょう。三回にわたる英緬戦争で、とくに最後のマンダレー攻防戦では、ビルマ・コンバウン王朝側はほとんど抵抗らしい抵抗もせずに英国の植民地主義者に屈しました。インドに流刑されるため、イラフジ河まで市中引き回されるティボー王夫妻を見つめる沿道の民衆の目は、冷たかったといいます。すでに人心は王朝から離れていたともいえますが、しかし国が滅亡の危機の瀕しているときにも、その運命に冷淡な人民とはなんでしょうか。王朝なり政府なりと一般民衆との間に越えがたい溝があること、政府も人民も相手がどうなろうと知ったことかと、相手の運命に冷淡であること、この伝統的な根深いアパシー(政治的無関心)こそ、ミャンマーの歴史を貫く大きな病理ではないでしょうか。

 もし唯一の共通項である仏教信仰がなかったならば、この国は手のつけられないほどバラバラに分解していたであろうと思わずにはいられません。が、同時インド文化圏から出た仏教であるがゆえに、儒教にあるような政治道徳 (仁義礼智信にもとづく仁政)が欠けていて、苛政にブレーキがかけられないのではないかとも思います。 いずれにせよ諭吉が常に念頭において議論しているのは、18世紀半ば以降のアジア・アフリカ諸国の植民地化の無残な状態でした。論吉の議論の背景にある切迫した危機感こそ、明治初頭のすべての知識人が共有するものだったことを忘れてはならないでしよう。

▼第四編は、「学者の職分を論ず」と銘打たれていますが、話は学者のことに限りません。国の独立を確保するために必要な、各人各層 (政府、官僚、民間、学者等々) の職業のあり方や条件について論じています。

 明治初めころの時点で日本に欠けているものは、学術、商売、法律の三つだという。それらを備えるベ く政府は努力しているが、その実がなかなか挙がらない。それはなぜか。文明化は政府だけの力ではどう にもならず、人民の協力を必要としているにもかかわらず、「政府は依然たる専制の政府、人民は依然たる無気無力の愚民のみ」だからである。
 そういうなかで、いろいろな政策提言がなされるという。ひとつは、人民は先進の文物、制度を受け入れるには早すぎる。当面は適当に人民をあしらっておいてもっと知徳が進んでから、導入した方がよいという意見。似たような見解は、ご当地 ミャンマーで日ごろわれわれのよく耳にするところです。曰く、民主主義はこの国には早すぎる、もっと経済が進んで国が安定してから民主化するのがよい、と。これに対 して諭吉はそんな意見はもっともらしいが、小手先のごまかしでは難局は乗り切れないとみています。なぜなら文明化の障碍になっているのは、ひとつに政府の専制抑圧の気風、ひとつに人民の卑屈不信の気風であり、とくに専制抑圧に対応する卑屈不信の気風は歴史的に深く人々の精神に染み込んだ病理であり、それだけに治療が困難だからです。
 「我全国の人民数千年専制の政治に害 (くるし)められ、人々その心に思うところを発露すること能わず、 欺 (あざむ)きて安全を楡 (ぬす) み詐 (いつわ) りて罪を遁 (のが) れ、欺詐術策は人生必需の具となり、不誠不実は日常の習慣となり、恥ずる者もなく怪しむ者もなく、一身の廉恥 (れんち) すでに地を払って尽きたり、豈 (あに) 国を思う遑 (いとま) あらんや」 (わが国の人民は数千年にわたって専制政治に苦しめられ、人々は自分の本当に思っていることを口に出すことができず、お上には態度を偽って身の安全をはかり、嘘偽りをして罪を逃れるなど、だましのテクニックは生きていく上で無くてならないものになっている。不誠実は日常の習慣になり、そうしてもだれもそれを恥ずかしいことともけしからぬこととも思わず、廉恥 (心清く欲がなく、不正不義をはじる心) という大切な道徳はどこにも見当たらなくなっている。こんなことでどうして国を思うなどということがあるだろうか。
 専制国家における民の有様は、こうまでもよく似るものかと驚くばかりです。専制国家においては、 直さ、率直さ、誠実さが影を潜め、面従腹背の二心的態度が蔓延するという諭吉の診断は、まさにそのとおりでしよう。こういう文化風土では、なかなか真の友人というものができにくいうらみがあります。
  M・ウェーバーという学者は、ユダヤ民族の賎民性は、その二重道徳性 (ダブル・スタンダード) にあるとしました。ユダヤ民族内部で通用する道徳と外部での行動基準――シャイロックのような、さもしいユダヤ的商法――に断絶があるというのです。二重道徳性はいわば弱者の道徳性です。ユダヤ人はヨー ロッパ社会内のゲットーで隔離されて自己防衛的に生きざるをえませんでした。ミャンマー人の場合も、家族 (ミタズー) が無条件に道徳性、相互扶助の倫理性が通用する範囲ですが、その中心から同心円で拡大するにしたがつて道徳性が希薄になる傾向がみられます。公衆道徳の不在は、先進の国から来た新参者にはすぐ気づかれることです。私はあるとき、事務所の周りが汚れているので、みなで掃除しようと提案したところ、そんなのはYCDC(ヤンゴン市委員会=ヤンゴン市役所)の仕事で、自分たちは関係ないと一蹴されてしまいました。専制的な統治にあっては、民は無権利状態に置かれるがゆえに、公共的な関心は摘み取られ、ごくごく狭い私的な些事にしか関心が向かわない。その狭い範囲内で他人の噂は大好きで、嫉妬深く狭量であるとした「文明論之概略」の諭吉の分析は、当地においてもそっくりそのまま当てはまることに膝を叩いたことを憶えています。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
〔opinion14040:250109〕