<福沢諭吉の「学問のすゝめ」>
日本の文明化の障碍になっているものについて、諭吉はなお突っ込んで論じます。これは諭吉独特の見解といっていいのですが、諭吉によれば「官」の優勢な気風―官尊民卑―が、逆にいうと民間の力の弱さ が最大の障害物だというのです。
「学校も官許なり、説教も官許なり、牧牛も官許、養蚕も官許、凡そ民間の事業、十に七、人は官の関せざるものなし」
政府を異常に尊崇し、民である自分をさげすむこと、このまったく「独立自尊」に反する態度こそ、文明化を妨げ国の独立を危うくする元凶だとみています。
「未だ世間に民権を首唱する実例なきをもって、ただかの卑屈の気風に制せられその気風に雷同して、国民の本色を見(あら)わし得ざるなり。これを概すれば、日本にはただ政府有りて未だ国民あらずと言うも可なり」
後発の資本主義国では国民意識というものは、確かに近代になってナショナリズムの高揚とともに成熟していきます。日本やドイツの場合、とくに外に対する国威の発揚というかたちで強い国家意識とほとん ど一体化して形成されました。しかし諭吉のいわんとする国民意識は、そういう国家依存の外発的なものでなく、民間にあって進取の気風に富んだ自力立行の人々から生まれる気風、気概 (スピリッツ) なのです。
「人間の事業は独り政府の任にあらず、学者は学者にて私に事を行なうべし、町人は町人にて私に事をなすべし、政府も日本の政府なり、人民も日本の人民なり、政府は恐るべからず近づくし、疑うべからず親しむべしとの趣きを知らしめなば、人民漸 (ようやく)く向かうところを明らかにし、上下固有の気風も次第に消滅して、始めて真の国民を生じ・・・国民の力 と政府の力と互いに相平均し、もって全国の独立を維持すべきなり」
諭吉特有の着眼点というか、バランス感覚というか、官のみ肥大化して民の力を圧伏させるようとしての力は発揮できない、少なくとも官と民が対等な関係で協力し合ってこそ国力は上がるとしているのです。諭吉がこう述べたときからすでに50年ほどがたちましたが官と民の力関係に変化はあったでしょうか。相変わらず政党政治の弱さ――とりわけ政策立案能力において――に比べれば、官僚制は依然として磐石であるようにみえますし、不景気といえばすぐ大規模な財政出動で公共事業を起こして民間企業を支える等、ひと頃の護送船団方式は影を潜めたとはいえ、まだまだ官の優位は続いているようにみえます。内需拡大や「民間の活力」を社会経済目標に掲げたのはそれほど昔のことではないことを想い出す時、諭吉の先見の明はさすがといわざるをえないでしょう。(諭吉の民間活力と新自由主義の民活――民は巨大私企業でしかありません――とのちがいは、ここでは触れません)
▼第五編は、文明化の精神、「民間の活力」の気概について重ねて考察しております。諭吉がいうには、文明には有形のものと無形のものの二つがあって、どちらが董要かといえば、無形のもの、つまり文明の精神とか人民独立の気力の方である。鉄道電信、学校や工場、軍隊な度と言った有形のものは極端に言うと金さえあれば買えるものであるが、それらを生かす精神の方は借りものではなく、自前のものであるほかないものだといいます。
ところが諭吉のみるところ、文明の外形は日々整いつつあるが、精神の方は逆に衰えつつある。その結果、日本国は政府の独占物になってしまって、人民はただの食客になってしまっている。民の方に積極さが欠けているため、強いものに巻かれろ式の服従はあっても、心からする国への忠誠心はないに等しいものだといいます。
そこで諭吉はイギリスを例にとって、文明の精神の本来の担い手は「ミッヅルカラッス」(ミドル・クラ ス)なのだといいます。そこでは知力と工夫発明があれば、それを応用する企業を設立して便宜を広く人民に生産供給する、こうした商売工業の道はまったく民間のなすところのものである。「この間に当り政府の義務は、ただその事を妨げずして適宜に行なわしめ、人心の向かうところを察してこれを保護するのみ。故に文明の事を行なう者は私立の人民にして、その文明を護する者は政府なり」
近代化の範をイギリスにとって、小さな政府(夜警国家)と中産階級が主役の市民社会という国のかたちを諭吉は思い描いているのでしょう。やや屁理屈めきますが、文明化(civilization)は、同時に市民化(civilization)なのです。その結果、この文明化・市民化した国民が、責任意識旺盛なるがゆえに国民意識担い手の中核になるというわけです。
しかし同じ行論中に「独り我慶応義塾の社中は、僅かにこの災難を免れて. 数年独立の名を失わず、独立の塾に居て独立の気を養い、その期するところは全国の独立を維持するの一事に在り。然(しか)りと雖(いえ)ども、時勢の世を制するや、その力急流の如くまた大風の如し。この勢いに激して屹立するは個(もと)より易きに非ず、非常の勇力あるにあらざれば知らずして流れ識(し)らずして靡(なび)き、動(やや)模すればその脚を失するの怖れあるべし」とあります。日本の実際の近代化の軌道は、どこまで 国家と官主導の「富国強兵、殖産興業」であったがゆえに、後年諭吉が国家主義への妥協を余儀なくされることを暗示するかのような一節であります。
とはいえ、日本近代百年の歴史を考えたとき、明治初年の諭吉による「文明の精神」論や大正デモクラ シーの時代の石橋湛山による「小日本主義」論は、国の近代化にリベラルな、あるいは平和的民主的な軌道がありえたことを示唆するという意味で、なお今日的な意義を失っていない と思います。
戦後自民党内閣の総理となる石橋湛山は、かつては大正リベラリズムにおける気鋭のジャーナリストでありました。中国大陸と朝鮮半島の一切の植民地的権益の放棄と、自由貿易による相互繁栄を唱えた「小日本主義は、侵略と軍事大国化以外の方向に日本の発展の進路があることを示してしておりました。湛山の唱えたオールタナティヴ (もうひとつの道)は、戦後ブレトン・ヴッス体制のもとにおける日本資本主義の平和的な成長路線として一部――日米軍事同盟の軛のもと――実現しました。
石橋湛山(1884~1973)
▼第六、七編では官尊民卑の風潮を批判して、ふたたび国民のあるべき姿を論じております。「学問のす ゝ め」中もっとも世論の批判が集中した論文で、脅迫めいた手紙すら舞い込んできたといいます。諭吉よれば、国民の職分には二種類あるといいます。ひとつは政府を主人としてそれに仕える客分としての勤め。もうひとつは国を会社に見立てれば、商社を興し社の規則を立てて経営する主人 (経営者) としての勤めである。前者からすると、国民は国法を遵守し、政府の方針に従う義務がある。もし万―法に不備がある場合にも、勝手に法を破って私を通すのではなく、穏便に法を改めるよう議論し説得する必要がある。また後者からすると、政府は国民の代理人にすぎないのであつて、その利益実現のために公務として勤めなければならない。このように両者あいまって国の経営はうまくいくのであるが、もし万一政府が暴政を行なった場合には、人民の分としてなしうる行動としては、次の三つのうちのどれかということになる。第一に、節を屈して政府の悪法に従順にしたがうこと。「古来日本にても愚民の上に暴政府ありて、政府虚威を逞(たくま) しうすれば人民はこれに震 (ふる) い恐れ、或いは政府の処置を見て現に無理とは思いながら、事の理非を明らかに述べなば必ずその怒りに触れ、後日に至って暗に役人等に窘 (くるし) めらるることあらんを恐れて言うべきことをも言うものなし」
この卑屈の気風こそ、後世に禍を残すもので断固排除すべきものということになります。―当地(ミャンマー)にて われわれが日々目にする不愉快な光景であります。第二に、徒党を組んで政府に反抗すること。クーデタや暴力革命は、「暴をもって暴に代え、愚をもって愚に代えることなる」だけであるから、法による穏やかな決着とは氷炭相容れないことになります。
第三は、最上策として諭吉が推奨する「マルチルドム」(martyrdom 殉教、殉難)の道。いうなれば、ガンジー的な非暴力抵抗主義の勧めです。「正理を守って身を棄つるとは、天の道理を信じて疑わず、如何なる暴政の下に居て如何なる苛酷の法に窘 (くるし) めらるるも、その苦痛を忍びて我志を挫くことなく、一寸の兵器を携えず片手の力を用いず、ただ正理を唱えて政府に迫ることなり」
天下の正義や信仰のために、迫害をも死をも恐れず身を挺する西欧のマルチルドムの伝統。マルチルドムの観点から、諭吉は死の美学、つまり自分の命を軽々しく扱うことを美徳とする日本の伝統を断固排撃します。そこで (国民的英雄である) 赤穂浪士の義挙すら槍玉にあげるのです。かれらの行為はその成果として人民の権利を増して安全繁栄につながるということもなく、要はただ私怨を晴らしただけにすぎない。それは下男の権助が主人から預かつた一両の金を落としたがため、お詫びに首をくくった話と変わらなぃという。その死が世の文明を益しないという意味で、両方とも私情的行為であり、無駄死犬死なんだというのです。――この言い方は確かに国民感情を逆なでしたことでしょぅ。百五十年にもわたって歌舞伎の演目ベストワンを占め続けてきた「忠臣蔵」でしたから。
結論として諭吉がマルチルドムの例としてあげるのは、将軍家綱に直訴して家族もほぼ全員死罪(自ら は礫 (はりつけ)の刑に処せられた義人佐倉宗五郎です。「余輩の聞くところにて、人民の権義 (権利に同じ―N) を主張し正理 (正義に同じ―N) を唱えて政府に迫りその命を棄てて終わりをよくし、世界中に対 して恥じることなかるべき者は、古来ただ一名の佐倉宗五郎あるのみ」
佐倉宗五郎一人のいのちは値千金、人民の権利の拡張にどれほど役に立ったか分からないというのです。
▼第九編は、いゎば「ひとは何のために生きるか」という観点から、学問の意義を論じたものです。
衣食住を確保するためにだけに汗して生きるというのでは、人間の生活は蟻のそれと変わらないという。 自己の生存を維持するという限りの生活では、いっこうに人間の生活に改善は見られず、「幾百代を経るも一村の有様は旧の一村にして、世上に公の工業を起こす者なく、船も造らず橋をも架せず、一身一家の外は悉皆天然に任せて、その土地に人間生々の痕跡を遺すこと無かるべし」。もちろんこれは封建世の何百年にもわたって停滞した変化に乏しい農村社会を思い浮かべて言っていることです。
では、ほかにどんな生き方を人間はするかといえば、それは「人間交際」によって生きるという。人間交際とは、のちに社会(society) という訳語が当てられることばです。人間交際があればこそ、そのために益をなそうと先人は努力してきたのであり、その努力の結果である有形無形の無償の遺産をわれわれは享受しているのです。そして人々の知恵が向上すれば、ますます交際範囲は広がり、広がれば経済も盛んになって学校や政治社会制度もますます高度になっていくとしています。
つまりわれわれは人間交際の遺産を受け継いで豊かに暮らせるようになっているのだから、同じように 「我輩の職務は、今日この世に居り我輩の生々したる痕跡を遺して、遠くこれを後世子孫に伝うるの一事に在り」というわけです。ひとはひとリバンのみによって生きるにあらず、人間交際の共同義務である文明のバトンリレーに参加して力を尽くせ、といっているのです。
▼第十一編は、人間交際のあり方について (文明化された社会における人間関係のあり方)。
アジアの専制諸国にありがちの、世の中の人間交際を親子関係の間柄に擬して考える傾向を批判します。 それらの国では、君主を民の父母に見立て、民を赤子と名づけたりする。政治を牧民といったりして、いかにも慈悲に満ちているように言うが、実際は民をもの言わぬ牛羊のように取り扱っているに過ぎないとし、社会というものは、成熟した大人と大人の関係、他人と他人の関係で成り立っている。政府と人民の関係も他人同士の関係であり、だからこそ情実でなく規則約束で.成り立なせるべきものというのです。情治や人治ではなく、法治という近代社会の仕組みを説明しているのです。
封建的専制につきものなのは、名分(臣として守るべき義務)に名を借りた欺瞞と不正(蓄財)の跋扈である。家巨はみな忠臣の振りをして、主人の金をくすね、下のものからはわいろをとる。大切なのは表向きの虚飾の名分ではなく、実質的な職分一人々がそれぞれの社会的地位において果たすべき義務―なのだという。
あってはならないことだが、「(職分を忘れて)人民の地位に居て政府の法を破り、政府の命をもって人員の産業に手を出し、兵隊が政(まつりごと)を議して自ら師(いくさ)を起こし、文官が腕の力に負けて武官の差図に任ずる等のことあらば、これこそ国の大乱ならん」
ひょっとして諭吉は天国から当地(ミャンマー)の有様を見て痛罵したのではないかと錯覚するほど、言いえて妙です。諭吉ほど専制政治の弊害、病理について分析の鋭いメスを振るったひとはめずらしい。同じように「法の精神」において世界各国の事例を比較して専制政治の弊害を抉り出した、フランスの啓蒙思想家モンテスキューも顔色なからしむるほどの、絶妙のたとえと生き生きした描写力です。
長くなりました、結論を急ぎましょう。諭吉は スピーチ (演説)が西欧諸国では人の集まるところではどこでも行なわれているとして、その効果について分析しています。口頭の言葉は、詩歌の朗読もふくめ文章語とは違った趣をもっており、そのテクニックを磨くために古代から演説法や修辞学(レトリック)が発達してきた。また学問の発達にとってもそれは大切だという。学問の本質は精神の働きにあり、それを活発にするためには、読書だけではなく観察、推理や知見の発表や交換が必要であり、そのためのスピーチなのである。
考えてみれば、古代ギリシアで弁論術 (レートリケー)が盛んになったのは、その民主制の興隆と切っても切れない関係にあります。法廷で有罪か無罪かを決めるのは一般市民からなる陪審員であり、そのため告発側も弁護側も陪審員を説得して自分の側につかせるために知恵を絞ったのです。また直接民主制の場である民会にせよ評議会にせよ、そこは国政の政策を決定する場ですから、自分の主張する政策を実現するためには多数を獲得しなければなりません。いずれにせよ説得の技術の巧拙、論理的筋道の立つ立たないが、自分に有利な決定をもたらすかどうかの鍵になります。そこで青年たちはい授業料を払っても高名なソフィストに付いて弁論術や雄弁術の技能を向上させることに血道をあげたのです。古代ギリシア人にとつて政治的道徳的そして知的な卓越性 (アレテー=徳)を公共的な場で顕示することが最も望ましい生き方とされていたからです。弁論に限らず、古代ギリシア人を特徴づけるのは、ロゴス (ロジック、論理、理性、理法)への著しい愛着です。かれらはロゴス性こそ、人間の人間たるゆえんと考えていました。それはときに世界を支配する原理を意味したり、ときに人間の正しい思考法や道徳行為を司るものを意味したりしました。このロゴス重視が、科学と哲学とにおける多くの画期的な発見を促したのです。今日でいう形式論理学 (同一矛盾律や排中律) の画期的な原理を発見したのは、アリストテレスでした。またユークリッド幾何学にみられるような、公理や定理を立てて矛盾なく整合的に諸命題を証明していく方法もロゴス的なギリシア人の発明であり、以後西欧だけに成立した合理的科学の核になるものでした。中国科学技術史家ニーダムによれば、たとえば中国にも相当なレベルの科学と技術が存在したのですが、しかし西洋的意味での科学、つまり数理的方法や実証的実験的方法に裏付けられた法則的合理的な科学はついに成立しなかったのです。
現在のわれわれでもなお、人前で話す材料にも技術にも乏しく、まして感銘をあたえるような内容も表現力ももたないことが多いでしょう。すぐ内々の話になって、仲間内しか通じない話題や当たり障りのないスポーツや遊興の話だけになる。同じくミャンマーでも酒席でも祝い事の席でもほとんどスピーチが行なわれません。本心を表すのを怖れているかのようにみな黙して、偉い人の話を羊のようにおとなしく聞くだけのことが多い。そういう意味で、諭吉の指摘はこんにちなお有効性を失っていないというべきでしょう。
たいへん長くなりました。最後に諭吉全集の緒言に記された、啓蒙期の諭吉の思想と行動の核心を表す言葉を以て締めくくりといたします。
「 (諭吉は)世界中に行わるる政治の専制を好まずして、民権を主張する者なり・・・我日本国にも専制の 流弊ありて、人民の気力これが為に退縮し、外国の交際に堪 (た)うべからざるの恐れあるが故に、氏(諭 吉) の素志は勉めてこの弊を糾し、民権を主張して国力の偏重を防ぎ、約束を固くして政府の実威を張り、全国の力を養って外国に抗し、もって我独立を保たんとするにあり」
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14041:250110〕