近代的自我の横超と歴史知研究

 思想家の吉本隆明は、著作『未来の親鸞』(春秋社、1990年)の中で、作家宮沢賢治の宗教観にかんしてこう記述している。「宮沢賢治という人は「あの世」をわりに実体化していましたから、「あの世」にいった妹さんとさかんに交信しようとします。おれの信仰の強さがあるならば交信ができるはずだといって、交信をやろうとおもったりしています。それは宮沢賢治には親鸞とちがって日蓮宗ですから、解体という考え方がなく、構築という考え方だけがあるからです。」(同上、203頁)

 吉本隆明は、宮沢賢治は日蓮宗だからあの世を実体的に捉えたというが、浄土真宗の三木清も、宮沢と似たようなことを考えていた。三木は40歳を過ぎた頃、「死について」を書き、その中で死は怖くなくなったと述懐した。なぜなら最愛の人、尊敬する人の多くがすでに亡くなって死後の世界にいってしまったが、自分も死ねばそこで会えるかもしれないと考えたからである(『人生論ノート』新潮文庫、7~14頁)。

  吉本は、親鸞をさして解体の思想家とみるが、そうであるならば、「悪人」親鸞はむしろマックス・シュティルナーにちかい。シュティルナーは1845年刊の主著『唯一者とその所有』(片岡啓治訳、現代思潮社、1967年)ほかで次のような思想を披露している。人間は、ときに神という本質を捨てるかと思えば、それにかえて今度は人間なるもの、人間性といった本質を掲げる。それではいつまでたっても宗教の世界から脱出できない。個人であろうが集団であろうが、それが本質とか原理とかに抽象されるや、生身の人間や生きた社会はその抽象物のもとに屈服し、個体の自己性を喪失し自己を忘却する。「私(エゴ)」の上には本質であろうが原理であろうが、何もかぶさらない、何もおかれない。また、「私(エゴ)」は決して分割できない。個人とは、普遍と特殊、抽象と具体に分けたうちの後者などではありえない。まるごとの〈唯一なる者〉である。社会はそうした唯一者が自己規定的・直接的に連合して成立するのであって、社会に代表や最高本質といった昇華は生まれえない。人間とは端的に独立の個人=自我(Ich)である。現実に飲み食いする、生きた個人=自我(Ich)である。家族や国家、社会などの諸制度は、自我の観点から見て意味や存在を有しない。

 自分だけは善人であるがゆえに残余の悪人を救済できるという発想は、親鸞の悪人正機ともシュティルナーの自我論とも縁遠い。悪やエゴを身をもって引き受ける、あるがままの実存としての自我、その位相を近代は価値的に否定してきた。近代は、近代=文明・理性という位相でもって、前近代=旧弊(歴史環境)や非近代=未開(空間環境)を善導できると考えてきた。いや、その位相でもって近代そのものをも超克できると自惚れてきた。ところが近代は、その道程の中ほどでファシズムを自ら産み出し、末路で9・11に出遭ったのである。

 20世紀は9・11に収斂し、21世紀は3・11から拡散していくように思える。現代世界史において、9・11と3・11は歴史の転換点として永久に刻印されることだろう。その際、わが歴史知研究は、近代=理性の善導に依存しない、悪やエゴを身をもって引き受ける、あるがままの実存としての自我のあぶりだしに寄与できればと念じるものである。それは同時に、近代的自我の横超となろう。

*参考:石塚正英『歴史知と学問論』社会評論社、2007年

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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