稲垣さんの最後の仕事
風媒社の創業者・稲垣喜代志さんが大動脈解離のため、11月28日に逝去されたことをエヌ・アール事務局から知らされた。ときどき電話をいただき、体調のことなどもお聞きしていたが、こんなに早く亡くなられるとは、思ってもいなかった。
今年のはじめ、風媒社刊行の『マルクスとヒポクラテスの間―鈴村鋼二遺稿集』を、稲垣さんから献本された。オビに「郷里の緑の山野は消えた!住民を大切にする為政者はもういない。一市民としてトヨタ城下町で奮闘する「名医」ここにあり!」と惹句が記されている名著である。改めて同書を手にしてみると、「名医」を「出版人」と置き換えると、それは稲垣さんのことでもあると連想した。
鈴村鋼二は60年安保後、東大法学部を卒業し、名古屋大医学部に入学し産婦人科病院を開業する。鈴村が活動の拠点のひとつにしていた、地域に根差す自立派政治集団・豊田市政研究会は私たちの間でも話題になっていた。
稲垣さんは同書に「私が編集の仕事にたずさわるようになってからもう数十年になるが、このような本造りに関わったのは初めてだ」と、巻頭言「鋼ちゃんの声が聞こえる」に書いている。鈴村鋼二の遺稿を集大成した同書は、日本社会運動史の貴重な文献になるであろう。出版人・稲垣喜代志の最後の貴重な仕事である。
田中英男さんとの出会い
今年の4月、大牟田出身で法政大学文学部卒業され、稲垣さんと交友のあった田中英男さんと出あった。かつて『日本人の思想―農本主義の時代』(三一書房、1961年)の刊行で話題になった「緑衣の人」と言われていた筑波常治の単行本未収録の講演録を基軸に1冊の本にまとめたいと提案された。
筑波常治は稲垣さんが法政大学卒業後、編集者として勤務していた日本読書新聞にときどき執筆していた。1965年ごろ私は法政大学で筑波先生の授業を受けた記憶があった。
田中さんと本の制作過程で何度もお会いし、今ではその面影もない当時の法政大学の自由な雰囲気のことや稲垣さんも入寮していた東京学生会館のことなど話題にした。
10月の中旬、『筑波常治と食物哲学』と題して、田中英男編著で農本主義者・筑波常治との対話集が出来上がった。おりをみて稲垣さんと3人でゆっくりいろいろと話そうと計画していたところ、訃報が届いて残念がっています。
ヌーベルバークとしてのNRのこと
出版団体エヌ・アールは1969年に発足した。新泉社、風媒社、亜紀書房、せりか書房、盛田書店、合同出版、季節社、現代ジャーナリズム出版会で結成した。出版界のオピオンリーダーであった新泉社の小汀良久社長を先頭にヌーベルバークの誕生である。
社会評論社は1976年に協同組合に発展したエヌ・アールに加盟する。経験豊かなメンバーのなかで、経験5年たらずの私はさまざまなことを教えてもらい学んだ。
1999年11月にエヌ・アール創立30周年記念講演で稲垣さんは発言している。
「日本がおかしい。いまや人間社会の『倫理』というものが死語になりつつある。政・官・財の癒着による構造汚職が始まり、バブル崩壊による日本経済の破綻、さらには管理化・画一化による教育の混乱、デジタル技術の発展・普及による文化の変容―と、いま私たちはかつてない空前の事態に遭遇している。」(「出版の原点を問い続けて」NR出版会新刊重版情報2000年1月号)今日の状況を1999年に予言。まさに私たちは出版の原点が問われている。
【NR出版会新刊重版情報2017年12月号より、許可を得て転載】
【追記】稲垣喜代志(1933-2017)12月23日、名古屋のルプラ王山にて、「稲垣喜代志さん お別れの会」が開かれた。数多くの原発関係の本を風媒社から刊行している小出裕章さんをはじめ、交友のあった160人を超える方々が列席されていた。会場で手渡された同人雑誌『遊民Homo Ludens』16号に「怪人・唐九郎伝説ⅩⅠ」を稲垣さんは寄稿している。同誌の表紙裏の「ことばのかけら」に<「生涯一捕手」って、いい言葉だな。ぼくは編集者やめて、ただの「ひと」 志>とあった。(松田)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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