追記と編集に書き直しをし続けて

著者: 藤澤豊 : (ふじさわゆたか):ビジネス傭兵
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気がつかないでいればよかったのに、多少なりとも気がついてしまうと、知らないでいることが怖くなる。そのせいで情報を漁って少しでも知識を得なければと持てる時間と競争するようなことになってしまう。古希も過ぎて、もういい加減にしたらと思うのだが、説明のつかないものを放っておく勇気がない。いつまで経っても、変わらなければ生きてゆけない世界に身をおいていたときについてしまった癖が抜けない。変ることを忘れたかのような話をお聞きするたびに、不思議でならない。何故なのか?半世紀にもわたって考え、反芻を繰り返した末に出してしまった結論に、これでいいのかと、これしかないのかと考え込んでいる。

仕事と日常生活をとおして得た知識の正否を検証しつつ社会認識の骨格をつくらんがために経済学や哲学や思想関係の本を読んできた。ただ、いくら考えても書かれている内容が目の前で起きている社会現象と符合しないことがある。高名な学者や研究者が一生をかけて書き残した、人類の英知とも言える学説や思想の方が社会全般を歴史的かつ多面的に把握しているはずで、自分の社会観に欠陥があるはずだという怖れを拭いきれない。でも実体験をもとに生れた社会観を捨て去る踏ん切りがつかない。さりとて偉大な先達の考えが目の前の社会の実状(自分の社会観)にそぐわないのだと言い切る自信もない。
つまらない人生から得た社会観には見落とした、気が付かなかったことから生じる欠陥があるはずなのに、とんでもない間違いは見つからない。これこれこういう視点が欠落してるんじゃないかというようなご指摘を頂戴できればと、社会観を生み出した職歴を端折った話から始めさせていただく。こんなもの見せられてもと思われるだろが、ご容赦頂きたい。ざっと目を通していただければ、どのような社会観に至ったのかを想像できるのではと思っている。

二十歳から還暦すぎまで、ほぼ三年か四年ごとに仕事が変わってきた。転職すれば変るが、十年以上務めた二社でも業務命令で仕事が変わった。ときには社としての目的を達成するためや将来の展開を考えて、やることもやり方を変えなければならないこともあった。
新卒で就職した会社には十年お世話になったが、左翼思想を問題視されて左遷につぐ左遷でアメリカ支社にまで飛ばされた。一年以上の研修を終えて配属されたのは技術研究所の設計部だった。従来の枠を大きく(斬新すぎる?)超えた新機種の設計で能力の限界を超えていた。寮に帰っては毎晩専門書を読み漁る生活だった。四苦八苦していたある日、所長に呼び出されて輸出業務を担当する子会社に出向になった。技術屋としてチャレンジする機会を失った寂しさはあったが、ほっとした自分もいた。
子会社で二年半ほど海外からのクレーム処理に明け暮れた。小間使いのような仕事ばかりで飼い殺しにされたような状態に置かれた。二年もすぎたころ駐在に出るかもという噂が聞こえてきたが、半年過ぎてもなんの動きもなかった。そもそも技術も英語もあてにならないのがあり得ないだろうと思っていた。七十年代の中頃、アメリカはスタグフレーションで失業率が高かったから、よほどの専門職でもなければ就労ビザが下りなかった。厄介者を島流しにすべく会社が誰のことかと驚く肩書をつけてビザを申請していた。そしてある日唐突に課長に言われた。「明日にでもニューヨークに行ってくれ」ろくに機械に触ったこともないのが据え付けや修理で三年間ミネソタやネブラスカ辺りまで駆けまわった。
新卒研修から設計に合わせて三年、海外関係の雑用係を四年、フィールドサービスを三年で計十年お世話になったが、一歩後ろに下がってみれば、十年一日の如しを地でいく会社で基本的には何も変わらないところだった。後一年もすれば三十というときに考えた。なんの取り柄もないただの便利屋に成り下がってこのままこの会社にいたら、年をとっても何も残らない。失敗覚悟で技術翻訳屋に転身した。

技術屋としての技量はないが、理解するまでの知識はある。そこからアメリカの産業制御機器屋の日本支社に転職した。マーケティングで和文マニュアルの制作が仕事だったのが、炎上した新型CNC(Computerized Numerical Controller)開発プロジェクトの後始末に奔走する羽目に陥った。開発なんかしてはいけない製品だった。開発できても日本では世界の覇者と財閥系が市場を握っていて売れない。マーケティングのラインから外れてしまっていて、開発が終ったらやることがない。CNCも含めてモーションコントロール製品は価格が高すぎて日本では競合できない。入社して四年以上過ぎていたがポジションがない。どうしたものかと考えていたら、インバータを売ってこいという辞令がでた。二万人からの会社だったが、本業は制御機器で次の事業とでも考えたのだろう、遅ればせながらにインバータを開発した。ただ、肝心のモータがない。サンプルとして送られてきたインバータを見て驚いた。大きすぎるし重すぎる。価格はなんでと思うほど高い。八十年代初頭から日本はインバータで世界をリードしていた。制御盤どころか、ソリューションまで提供している財閥系の巨大メーカ数社が市場を占有していた。一年以上市場を開拓すべく走り回ったが、一台も売れなかった。このままいけば来年にはレイオフになる。制御機器は生産ラインで使用する堅牢な作りのコンピュータのようなもので、百馬力や二百馬力のような大きなモータを使用するアプリケーションは別の世界の話しで、営業部隊もその先の代理店もインバータやモータなど扱ったことがない。営業の前線は誰も動こうとしない。営業部隊を後ろから押し上げる立場のマーケティングが、ここなら可能性があるんじゃないか、ここなら話ぐらいは聞いてもらえるかもと出ていった。売れないことを確認するかのような作業にあけくれて考えた。一歩後ろに下がって、産業用制御機器と動力系製品の需要を鳥瞰していったら、答えは簡単にでた。

半導体の進歩が制御機器の価格を引き下げたことで市場が広がった。数年前には五百万円はしたシステムが二百万円に、そしていくらもしないうちに五十万円を切るのが見えていた。市場が拡大して販売台数は増えていたが、売上も利益も右肩下がりで先がない。製品単体を売っていたら会社がもたない。客が求めているのは製品ではなくソリューション、それも海外の主要な市場でのサービス体制の裏付けのあるものだった。国内市場は飽和していて機械装置メーカは海外市場へ出て行かなければ現状維持も難しい。円高の追い風にも助けられた。重厚長大向けのドライブシステムビジネスがあっと言う間に立ち上がって、日本支社の売り上げの三分の一を叩きだすまでになった。マーケティング部隊の統括とシステムビジネスの牽引で六年以上走り続けた。主な市場は製鉄やタイヤに新聞輪転機と上下水道のポンプだった。手にあまる引き合いに堅調な受注で、日本支社がアメリカのドライブシステム事業部を引っ掻きまわすようなことになっていった。
押し寄せるプロジェクトをさばき切れない事業部が、アメリカ国内の客を優先して日本向けの手抜きを始めた。できあがってないシステムの出荷が相次いで、クレーム処理に走り回ることになった。事業部の担当者はしちゃいけないことをしている自覚はあった。何人もから申し訳ないと謝り電話が自宅にかかってきた。予算管理にしか興味のないマネージメントが自分の部隊の問題にしたくなかったからだろう、責任を日本支社に押し付けた。ある日、日本支社長に呼ばれてマーケティング部長職も併せて解任された。

CNC開発プロジェクトが終ったら、草も生えない住民もいない僻地に国替えになった。そこで新田開発を進めるかのように一つの事業を立ち上げたら、また領地から追い出された。やってられるかバカ野郎と思っていたら、八年以上新製品を開発したことのない、なんとか息はしてますという状態の画像処理事業を押し付けられた。画像処理システムの進化は早い。モータの制御システムの進化はゆっくりで、ウサギとカメ以上の違いがある。同業の製品は大きくてもティッシュペーパーの箱より小さいのに、八年前のシステムは食器洗い機程もあって、両手でよいしょっとかけ声をかけて持ち上げるものだった。市場開拓を試みたが新規客などみつかるわけがない。できることに集中するしか手がなかった。既存二社へのカスタム化を進めて、二年で売り上げを二倍以上に引き上げた。事業部の売り上げの十パーセント以上を日本支社が計上していた。事業部に任せておいたら遠からず撤退になる。状況を一気に打開すべく精密加工技術で世界市場を席捲していた日本の会社と次機種の共同開発プロジェクトを立ち上げて、アメリカの事業部とパートナーの間を行き来していた。既存客の一社から押し付けられる無理難題をなんとか凌いでいたら、日本支社の社長が見栄をはって真っ赤な嘘をついて一人悪者にされた。酒でも?まなきゃやってられない。六本木で朝まで呑んで翌日辞職願をだした。
翌日から事業部やアメリカ各地の営業所やカナダやドイツの同僚から引き留めの電話がかかってきた。最下位機種を日本の同業から相手先ブランドでの調達まで進めていたから他人事じゃない。みんなの生活がかかっている。画像処理事業部の体たらくには愛想が尽きていたし、ソリューション提供への考えもない会社の先はあかるくない。パートナーにも迷惑をかけるが、もうオレの知ったこっちゃない。引き留めを断ってはれて自由の身になった。

失業保険をもらって、ちょっとのんびりしていようと思っていたら、知り合いから声がかかった。ブラック企業とはこういうもんだといういい体験をさせてもらって、また失業した。ところが何ヶ月もしないうちに、ヘッドハンターから紹介されてドイツのモーションコントール専業メーカに就職した。アメリカの会社のずさんな仕事に呆れていたこともあって、ドイツの会社ならしっかりしているだろうと思っていた。ところがそこはいまだ徒弟制度が残った上意下達のろくでもないところだった。子供のころから畏敬の念でみていたドイツの工業技術の化けの皮が剥がれるのに時間はかからなかった。新しい技術や生産管理に品質管理……組織形態まですべてにおいて時代遅れの硬直した文化が色濃く残っていた。
いもうすぐ丸二年になろうかというとき、聞いたこともないヘッドハンターから電話がかかってきた。画像処理システムの世界の覇者で、かつて目の仇のように戦いを挑んでいた会社からの依頼だった。アメリカの制御機器メーカの画像処理事業を吸収したことから、かつての同僚が藤澤を呼べと進言したらしい。面接に行ったら、新任社長から「一からやり直すから来い」と言われて、「本当に一から?」と聞きなおした。圧倒的な技術優位にいたことから、営業部隊はヤクザもどきの集団で業界の鼻つまみものだった。「知っての通りの会社だ。このまま行けるわけがない。わかってんだろう」「本当にやり直すんですか」「なんども言わせるな。一日も早くこい。三週間後にはアメリカの本社に信任挨拶も兼ねていくから、一緒にこい。もうフライト予約の手筈は済んでる。パスポートは持ってんだろう?」「そこまでいうならやりましょう。給料は一円たりとも上げなくていいです。三週間ですね」

社長室の前にブースを用意されて走り回った。時代は物凄い勢いで動いていた。八ビットだった時代はソフトウェアエンジニアの神業的能力をもってして最短の実行時間で最大限の精度を保証していた。半導体の進化がコンピュータの処理能力をとんでもない勢いで向上させていた。スパゲッティのようなというと言い過ぎになるが、経験や知識の限られたエンジニアが書いたごちゃごちゃのアプリケーションソフトウェアでも強力な処理能力を誇るコンピュータで力任せに実行できるようになっていった。コンピュータの機能や性能は日に日に上がり価格は下がり続ける。十年もすれば、特殊な要件でもない限り、コスト優先で画像処理システムが選択される時代になりそうな予兆があった。

そんなところに画像処理専用のLED照明メーカのアメリカ社の立て直しの話しが舞い込んできた。画像処理業界の世界の覇者の売上げのほぼ半分を売り上げる日本支社であり余る予算を手に暗躍しているのに、なんで町工場のようなLED照明メーカに転職しなければならないのか。債務超過でどうにもならないアメリカ支社の立て直し、どう考えても受ける話じゃない。海外に出てもし上手くいかなかったら、転職活動もできない。リスクが多すぎる、がやばい話だから面白い。やるだけやってみるかと家族の反対を押し切って……。
赴任して半年以上胃に穴の開く思いで状況をみていった。これしかないという手を思いつくのに一年近くかかった。五年やっても駄目かもしれないと思っていたのに、三年目に入る頃には目途がたってしまった。こうなるとアメリカ支社にいる理由がない。ただ帰国してもいるところがない。
画像処理屋でいっしょだった仕事仲間が転職してから色々相談のメールをもらってはアドバイスをしていた。帰国する予定を伝えたら、腰掛でもいいから助けに来いということで、また転職した。こんどはオランダのX線分析装置屋だった。
そこで二年ほどごちゃごちゃやっていたら、アメリカの巨大コングロマリットの日本支社から一度会いたいからと電話がかかってきた。ビッグサイトで展示会の最終日の金曜日だった。急いでいるから来週の月曜の午後一に来てくれと言われて行ったら、開口一番「いつ来てくれますか」
その後、植物工場に関わった。三年後にはまたかつての同僚から呼ばれて過流探傷システム……。もういいやと今日にいたっている。

転職すれば同じ業界であっても業界内の立場も違えば顧客もパートナーも違う。製品も違えばアプリケーションも違う。同じ会社の中での移動であっても製品も違えば職種も違う。社会や市場や業界も顧客もほとんどのことが日々変わっていく。たとえ自分としては同じであり続けたとしても立っている地面が動いているかのように自分の立ち位置が変わる。直接乗っている地面の下には違う地面があって、それも動いているし、その下の地面も動いている。海外の市場が動いて、ときには為替変動の影響をもろにくらうこともある。

社や組織のそして自分の三年後、五年度のありようを思い浮かべながら、目の前の状況に対応せんがために変わっていかなければならない。最新の情報を求めて、得られた情報を整理して、持っていた知識との融合をはかったり、追記したり編集したり、時には大きく書き直さざるをえないこともある。昨日までの常識が通用しない、前職ではしてはならないと思っていたことをしなければ生き残れないなんてことが当たり前のように起こる。仕事が変わるたびに多かれ少なかれ、かつての自分を否定しなければならない。意識して自分を裏切るかのようなことを何度もしてきた。大袈裟に言えば、常に「日々新たなり」が常識の生活で過去は学んでも、学んだものを今日に活かす術を間違えれば大けがではすまない。
そもそも常識は一つじゃない。同じ風景を見ていてもそこから引き出す景色は人様々。所属する社会も違えば、業界も違う。要求される知識も違えば相手も違う。そのすべてが日々刻々と変わり続けている。
時にはかつての競合に転職なんてことも起きる。仕事仲間のなかには、この裏切り者がと思う人もいただろう。でも、声がかかるうちが華、プロの仕事人なら、己の才を評価してくれて暗躍する場を提供してくれるところがあれば、多少の躊躇があっても移る。また新しい経験ができる、また勉強できると変わっていくことを卑しいことだとは思わない。逆に周りが変わり続けているのに、十年二十年どころか一世紀も前の知識に固執することに、どれほどの意義があるというのか?なんとも説明がつかないでいる。十九世紀のイギリスの社会経済状況を分析して生まれた政治、経済、哲学をそのままに今日の日本を考えることにどれほどの意味があるのか。今に活かしえない情報や知識は教養として学ぶ価値があるだけで、それをそのまま今に活すのはむずかしい。巷の普通の人たちは歴史から学んだにしても、変わり続ける社会で今に生きている。生きていかざるを得ない。

一つ問題がある。さまざまな直接体験をいくら組み合わせたところで、社会全体を鳥瞰する思想体系にはならない。社会や経済に政治に歴史……から社会認識を構築するのに必要な素材を自分の目で見て考えて選りすぐって、必要に応じ手を加えて骨格を作らなければ直接体験はただのデータで終わってしまう。
ところがいくら工夫しても実体としてのデータを生のままでは既存の思想体系に組み込めない。当然の作業としてデータの取捨選択から始まって、正規化もしなければならないし、ときには必要に応じて加工もする。ただいくら手を加えても工夫をしても既存の思想体系の枠にはまらない。思想体系の座標変換までしてみたが上手くいかない。なぜなのかさんざん考えてきた。実体としてのデータは目の前にあるもので、否定しようがない。恐れ多いことだが、先達がつくり上げた思想体系が今の社会の実状にそぐわないと考えるしかないという結論を下すしかないと思うに至った。
高専出のノンキャリアには学校で人文系の知識を習得する機会がなかった。当然の成り行きとして、まず社会での実体験が先にある。そしてそこから生まれた社会認識の妥当性を確認し、経済学や哲学や思想の本を読んで作った骨格に埋め込む作業をしてきた。大学できちんと経済学や哲学や思想を学んだことから社会のありようを説明している、しようとしている方々のお話をお聞きするたびに、出発点の違いが社会認識のありようの違いを生み出しているような気がしてならない。

p.s.
『奴隷の思想を排す』(ちくま文芸文庫江藤淳コレクション3 文学論収録)
六月末に図書館で借りてきた。一九五八年に発行された著作だが、不勉強で江藤淳は名前だけしか知らなかった。半世紀も考え悩んでいたことが、当たり前かのように説明されていた。救われた。二十代で読んでいたら、違った人生になっていんじゃないかという思いがある。
2024/6/12 初稿
2024/7/24 改版
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http:/chikyuza.net/
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