連作・街角のマンタ(第二部)    六月十五日(その4)

 

母や明子に言わせると、登紀子は決して口にしないのであるが、その出来事は、俺の家の者や親族は誰でも知っており、彼女のいないところではけっこう話題にのぼる。しかもそれは、当時幼かった俺の記憶の中にも断片として残っており、その断片がまわりの者の話で一つの映像にまでなっている。俺の内にある映像は<横浜の小父さん、小母さん>だ。しかも白髪で鼻梁の高い男の顔。

横浜の小父さんたちは戦争中に俺の家に疎開していた。登紀子が大学を卒業してすぐ結婚した男が<横浜の小父さん、小母さん>の子で、横浜の港の近くに住んでいたと言うのだったが、米軍の空襲が厳しくなって、登紀子は彼ら一家と供に津沢の実家に戻っていた。

そんなある日だった。横浜の小父さんたちが津沢の町に買い物に出た時、おかしな噂話を聞いたという。その頃小父さんは津沢一といわれる洋服店で背広の仕立をしていたらしい。だから何回か通っていたのだ。そんな店での世間話の中で、自分たちが疎開した嫁の家が、世間から縁組を拒絶される村なのを知ったという。それを耳にした横浜の小父さんは、家に戻って登紀子にその話を確かめたという。そんなことを確かめてどうなるものでもあるまいが、俺もそう思うのだったが、小父さんたちには大きな意味があったらしい。登紀子はいきなり「それがどうしたというんですか」とやり返したという。そしてそれがすべてだった。それを聞いた小母さんがいきり立ち「私たちを騙した」と登紀子の髪を掴んで引き回したという。なんともおかしなシーンであり、小母さんの言葉と発想が古色蒼然としていて時代の落差を感じてしまうのだったが、小母さんたちの間では、古色蒼然としたそうした言葉に大きな価値があったようだ。そしてそうした言葉や価値の背景として<部落問題>と言われるものがある。だからそれがどうした、と俺もまた言いたいが、小父さん小母さんたちは怒り心頭だったらしい。なぜそうなのか、俺にはよくわからないが、ともかくその怒り心頭の小父さんたちは、それでも自分たちの身の安全のため、戦争が終わるまで俺の家にいた。彼らが登紀子を責めて<私たちを騙した>と怒る原因<新平民>の家にだ。

そんな状態を考えただけで<精神の腐った奴ら>と言いたいが、まあ元々奴らの精神は腐っていたと言うべきかも知れない。戦争が終わって横浜に戻った後すぐ登紀子は離縁され、独りになった。それ以来彼女は、部落の事に一切触れない。それはそれで仕方ないと思うが、俺には横浜の小父さん小母さんの態度が疑問だらけで、その精神がなぜ腐っているのか解き難い難問でもあった。だからその疑問を考えようとする俺や、それをテーマにした小説を書こうとする清を近づけない。ついでだが、その小父さんは、まだ若いのに白髪で鼻の高い男だったという。当時三才くらいだった俺ではあるが、その記憶力はたいしたものだと自分では悦にいっている。

 

「進ちゃんには話してなかったけどなぁ。私と徹っちゃんは去年あたりからつきあよったんじゃ。田尾徹治って知っとろう。清ちゃんらの同人誌の表紙の絵を描いた人じゃ。その人が結婚してくれえ言うけん、私も承知して喜びょんじゃけど、向うの親が反対してなぁ。結婚するんなら親子の縁を切る言いだして困りょんじゃ」

御茶の水駅で明子と落ち合った後、近くの喫茶店に入った。額が少し広くて茶目っ気のある顔つきの明子だったが、その白い肌がいつになく輝いている。話の中身はしんどそうだったが、彼女は幸せなんだろうと思った。男が出来て結婚話になると、そんなものなのかも知れない。それにしても、話は登紀子と同じなのか…。そしてまた、今でもどこかで出会う話だというのか…。

「そいでなぁ、津沢におったら徹っちやんの親戚に意地悪されるかも知れんけん、二人で東京へ出よう言うて。伯母ちゃんに相談しい来たんじゃ」

「徹治さんはそれでええんか?。絶縁されても」

「ええ言ようる。そがいな事は関係ない言うて。明ちゃんと一緒におることが一番大切じゃ言うて」

明子が嬉そうにほほ笑む。やはり幸せなんだと思う。

「伯母ちゃんも賛成してくれて、あの家で暮らしゃあええ言うてくれるの。二階を空けるけん徹っちゃんもそこで絵を描きゃええ言うて」

「二階には家政婦がいるだろう」

「私がやる。家政婦でも何でも私がやる。こがいな嬉しいことはないけん。ただなぁ、あの事は絶対口に出さんことって言われた。もちろん私ももう嫌じゃ。二度と話しとうない。徹ちゃんもそうじゃ。親子の縁を切ってスッキリしたい言うて」

あの事とは、彼女たちを東京に追い出し、登紀子を独り者にした例の疑問難問。

「私は二回目じゃけんなぁ。徹ちゃんと一緒にここへ来て暮らすのが一番安心じゃあ。もう二度とこんな目にあいとうない…」

明子が照れ笑いする。二回目とは何なんだ。どうでもいい気がしたが尋ねてみた。

「二回目?」

「聞いてないん?」

「知らんで…」

「新聞配りしょった男の人じゃがな。津沢で同じ学校だったけん私のことを知っとる思うてつき合ょたけどなぁ。急にあんたとはつき合えんようになった言うて…」

「村のことで?」

「親に身分違いじゃ言われたらしい…」

明子が苦笑する。本当に笑うしかない話だった。どこの大学だったか聞いていなかったが、バカバカしくて聞く気も失せる。一体この国はどうなっているのか…。ともあれそれで明子が朝早くから新聞配達店に電話する習慣があったのがわかった。どこの新聞配達店も生活パターンは同じものに違いない。そして昼間会って三時前に分かれる。今日もまた大学生とつき合っていた頃と同じパターンなのだろう。

 

 

明日、四月二十六日はいつもと違ったデモになりそうだ。国民会議と全学連が別行動になる。しかも、どうやら全学連も国民会議側につく者とつかない者で分裂しそうだという。以前から主流派と反主流派の主導権争いが続いているようだったが、それが分裂状態になる原因は昨年十一月二十七日の国会議事堂突入の評価をめぐるものだという。国会突入を評価するのが主流派らしい。俺にはどっちでもいいようにみえるのだったが…。

国民会議も国会突入を強く批判した。全学連主流派がその批判に再反発したというところか。それまでは反目しながら同じ会場に集まった。俺はそれがいいと思う。生活の違いや立場の違いがあれば、それぞれやることも異なってくる。生活の柱にいる者が逮捕覚悟で国会に突入することはやめた方がいいだろう。しかし学生は今のところ何でも出来る。家庭を支えているわけではないのだ。そんな、いろいろな立場の者がそれぞれ考えたことをやれば良いと思うのだったが、どうもそうはいかないらしい。その原因はよく分からないが、ともあれ俺は今、全学連主流派というのに属している。もっとも、俺にとっては、他人が言う所属などどうでもいいことだった。他人がどのように言っても、俺は俺で自分なりに考えて納得いくようにする。

明子と別れた後、一度店に返って夕刊を配り、晩飯を食ってから学校に行った。その頃はそうしたパターンが増えていた。もちろん授業はなかったが、次の日のデモの準備をするためだった。学生に撒くビラ作りやプラカード作りなどいろいろな作業がある。

日米安全保障条約の改定は一九六〇年二月一日に始まった通常国会で審議されていた。しかも、会期が終わる五月後半が大きな山場になるだろうというのが新聞論評などで続いている。そんな状況下で、その改定を阻止しようとする動きとして国会議事堂へ突入するのがどれほど効果的なのか、俺にはほとんど見当のつかないことだった。正直いって突入したからといって、特別効果があるようには思えなかった。とはいえ、自分の国のことを自分で考えるうえでは、一方のアメリカにどうやらかなり有利になりそうなこの条約に反対するのは、これまたあまりにも当然と思うのだ。そしてそうした意味で、過激だからといって全学連を排除するのはおかしい気がする。直接的に誰かに危害を加えないかぎり、いろいろな抗議や抵抗の方法があってよいのではなかろうか。

もっとも、課題はそれだけでないのがそのころ俺にもわかり始めていた。小野田が言う社会主義革命のことだ。どうやら小野田たちは一定の党派を組んで共産党と理論闘争しているらしい。その理論もよくわからないのだったが、少なくとも小野田は国会での安保論議とは別に、その安保闘争が日本革命の前夜という意味づけをしている。だから彼らの論理は安保反対だけではない。小野田は正直に、国民会議による月一回の国会議事堂周辺での安保反対デモを含めて、それを日本革命の歴史的前夜にすると言う。そしてそのために学生を広く扇動し、デモへの参加を呼び掛ける。そうした発想を持っており、それを隠そうともしないのが小野田の小野田たるところだ。しかも俺はいささか驚くのであるが、小野田はその安保反対闘争のために大学を卒業するのをやめて留年していた。俺自身他人の学年や卒業など気にもしていなかったが、小野田は昨年確かに四年生だと言った。その男が、今年になっても大学自治会に出入りするのが不自然だったが、人にはいろいろ事情があるだろうくらいに思っていた。しかしそれが、彼の言う革命運動のためであるなら、そこには彼自身の強い願望があり彼自身が描く未来があるのだ。その革命論に俺はほとんど現実味を感じないが、しかしそれとはまた別に、彼の個人的な思いと行動は無視することの出来ない、真実性や誠意のようなものを感じさせるのだから不思議だった。

実は三日前、授業の後自治会室に寄ってみると、たまたま小野田が一人でガリ切りをしており、二人だけの時間が出来ていた。しばらくはいつもと変わらない空気だったが、いつの間にか小野田が作業を止め、例のおしゃべりが始まっていた。それが例の革命論なのだ。他に学生が居なかったので一層集中し、小野田らしい熱心さで俺に話し掛けたと思う。一学期だけで退学した例の黒井が言ったことからして、半分労働者である俺に小野田はやたら期待していたかも知れない。そして、たまたま二人になった機会を利用して、俺に革命理論を持たせようとしたのかも知れない。いつもなら安保闘争のやり方で自己正当化の話ばかりをし、正当化のための世界革命であったり、前衛的闘いに聞こえるるのだったが、この日ばかりは革命的前衛や世界革命の話が続いていた。共産党を手厳しく批判しながら、世界革命を語り、日本の前衛だとして彼は共産主義者同盟とかブントといった名前を連発する。大学に入って一年、しかも政治的色彩の強い学生自治会にいるのだ、そうした言葉は何回か耳にしていた。しかし俺にはその意味とか背景の理論闘争がほとんどわからなかった。知ろうとする意欲も起こらなかった。彼らが言う革命論は俺にはほとんど蜃気楼に聞こえる。そんなものに付き合っている暇はない。

そんなことを考えてうんざりするのだったが、今ひとつふんぎりがつかないと言うか、小野田のおしゃべりを断ち切ってしまう気にもなれないのは、彼の真摯さや正直さだったかも知れない。何も知らない俺にまともにぶつかってくる。そこには俺への配慮や妥協は一切ない。それが良いのかも知れない。そしてだからこそ、そこに小野田が自分で考えた、彼なりの未来があるのかも知れない。

そんなことを考えながらも、どこで話を打ち切ろうかと思っている時、俺はふと自分のことに気づいた。<俺の未来は何なのか。小野田の蜃気楼に対して俺の現実は一体何なのか>そう思った。そして俺もまた小野田と同じように、自分の現実を正直に言ってやろうと思った。そしてほとんど言葉の組み立てを考えることもなく言った。

「俺はねぇ部落問題をやりたいんだ」

そう言った。そしてそれが本心であるのを示すため「俺は部落民だから」と言い添えた。

一瞬小野田の言葉が止っていた。

「早稲田や慶応に部落研があると言うんで、俺はここにも部落研を作りたいんだ」

続いて小野田の目が光った気がする。目だけではない、顔の艶も光ったかも知れない。その時俺は正直言って<やばい>と思った。もしかして小野田が、これまで以上俺に期待するかも知れない。そんなことがあってはならないのだ。俺は小野田が思うほど立派な人間ではない。

「すごい。是非やろうよ。俺も手伝うよ」

小野田らしい言葉だ。その勢いに俺は少し引いた。

「今すぐじゃないよ。もう少し周りの様子がわかってからだ」

嘘ではなかったが、ともかく小野田の勢いを逸らしたかった。

 

自治会の部屋に入るとタバコの煙がこもり、人がいっぱいだった。最近はいつもこうだ。ビラのガリ切りをする奴。それを印刷する奴。立看を作る奴。奥で何やら議論をしている奴。去年十一月の国会議事堂突入以来、国民会議からは鬼っこあつかいされ、マスコミなどからも批判されて孤立を深めているかのような全学連主流派だったが、学内の雰囲気や自治会室に集まる各学部の学生委員やその協力者の動きを見ておれば、かえってその活動は盛り上がっている。あの突入以来自治会室に集まる学生も増え続けている。それが不思議な感じなのだったが、あるいはそれは不思議でもなんでもない、不思議に思う俺の了見が狭いのかも知れない。ともかく批判され孤立気味になりながら全学連は燃えている。<俺はそうした奴が好きなんだよ…>

「今夜中に立看板を五十本作るから手伝ってよ」

俺と同じ年に学生委員になった経済学部の大崎が声を掛けてきた。

「OK、OK」

しかし奥で小野田が手招きしていた。近づくと体を延ばして耳打ちする。

「明日は絶対国会突入だ」

言って小野田がニヤニヤした。いやに嬉そうだ。と言っても、それを俺に耳打ちするというのは何んだというのだ。耳打ちするようなことではないだろうに。

「皆んなその気でやってんだろう」

小野田がうなづく。やはり嬉しそうだ。この男ははしゃいでいるのだ。国会突入だけならこれまで何回も聞いている。だが昨年十一月以来、その言葉に現実味が加わったのも確かだ。

続けて小野田が「明日はチャペルセンターで独自集会なんだ。いつもの倍くらいの学生を動員したいんだ。それで全学連主流派の勝利を示さなくちゃあ」と言う。

俺には全学連主流派の勝利なんかどうでもよかった。だが、国会議事堂突入のためには一人でも学生が多いのがいいだろう。

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