貪欲から知足へ、孤立から共生へ -連載・やさしい仏教経済学(18)-
私(安原)が構想する仏教経済学の八つのキーワード ― いのちの尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性 ― のうち今回は知足と共生を取り上げる。
知足とは、「足(た)るを知る」という意で、欲望に執着せず、「これでもう十分」とする。一方、現代経済学は、欲望に執着し、もっともっと欲しい、とその貪欲ぶりには際限がない。共生とは人間や動植物などいのちあるものの相互依存関係を指しており、これを軽視すれば、いのちそのものが危機にさらされる。しかしこの共生感覚も現代経済学には無縁で、そこにはいのちの分断と孤立があるだけであり、世界も地球も混乱と破壊が広がっていくほかない。貪欲を捨てて知足へ、孤立を克服して共生へ、が21世紀の合い言葉でありたい。(2010年10月15日掲載)
▽ 釈尊の説法 ― 知足の人は富めり
仏教の開祖、釈尊は知足についてどう説法しているのか。仏教思想の根幹の一つが知足である。釈尊の最期の説法とされる遺教経(ゆいきょうぎょう)の中で知足について次のように説いている。(山田無文著『遺教経講話』春秋社)
もし諸(もろもろ)の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は、すなわちこれ富楽安穏のところなり。(中略)不知足の者は富めりといえどもしかも貧し。知足の人は貧しといえどもしかも富めり。不知足の者は、常に五欲のために牽(ひ)かれて、知足の者の憐憫(れんみん)するところとなる。
<意味>さまざまな生活の苦しみから逃れようと思うならば、足ることを知らなければならない。どんなにモノがなくても、結構ですと感謝することが人生の大事なことである。足ることを知り、感謝して喜んで暮らすことができる人が一番富める人である。(中略)足ることを知らない人は、どんなにお金があっても満足できないので貧しい人である。足ることを知る人は、お金が十分なくても富める人である。足ることを知らない人は、五欲(食欲、財欲、性欲、名誉欲、睡眠欲)という欲望の奴隷で、その欲望にひきずられて、「まだ足りない」と不満をこぼすので、足ることを知っている者から気の毒な人、憐(あわ)れな人だと思われる。
▽ 貧富の格差の下での知足のありようは ?
上述の釈尊の説法は傾聴に値するとしても、言及しておく必要があるのは、今日的な知足とは何を意味するのかである。21世紀の地球環境時代に知足を説くことはどういう意味をもっているのか。果たして富裕国としての先進国も貧しい発展途上国も一様に知足のこころが求められるのかというテーマである。ワールドウオッチ研究所編『地球白書2004-05』(家の光協会)の次の指摘が参考になる。
発展途上国のすべての人々が平均的なアメリカ人、ヨーロッパ人、日本人と同様に自動車、冷蔵庫など消費財を所有することは、地球の負荷を考えれば不可能である、としばしば言われる。しかし世界の公正(global justice)と公平(equality)を期するならば、西側世界の大量消費を維持し、一方貧しい人々の生活水準の向上を阻む「消費のアパルトヘイト(差別・隔離政策)」による解決はありえない。
豊かな人々こそ、肥大化した物欲を抑制しなくてはならない。環境保護と社会的公正という二つの命題を満たすためには、今後数十年間で豊かな国々の物質消費を90%削減することが必要という概算もある、と。
要するに先進国の富裕な人々にこそ時代の要求として、「もっともっと」という貪欲を抑えて知足のこころが要求されているのである。
一方、発展途上国で食料、住まい、健康など生存のための基本条件を欠いている場合、それへの配慮はいかにあるのが望ましいだろうか。同『地球白書』の以下の指摘は一考に値する。
「よい生活」の象徴とされる「あふれるモノに囲まれた生活」に憧れる途上国の人々への配慮を忘れてはならない。消費による環境負荷を軽減する方法を見出すことは非常に重要であるが、その際には特に貧しい国々における「消費水準の向上」と「持続可能性」との完全な両立をめざすべきである、と。
以上のような先進国と途上国との間にみる「貧富の格差」は、実は同じ先進国内でも特に日米では厳然として存在していることを見逃すわけにはいかない。。
大事な点は、「よい生活」への心情には配慮するとしても、際限のない物的欲望の拡大ではなく、「消費水準の向上」を「(自然環境などの)持続可能性」の範囲内にとどめることであろう。
▽ 少欲知足は、毅然とした清々しい生き方
作家、立松和平(たてまつ・わへい、1947~2010年。仏教に関心が深く、作品に『道元禅師』新潮文庫)は、「少欲知足」について「むさぼらず、へつらわない。最小限をもって満足する。・・・もっと欲しいと、いくら物があっても満足しない今の世の中だからこそ、この言葉が私たちのキーワードになる。少欲知足で生きられれば、環境問題も起こらないし、戦争もなくなる」と指摘している。(毎日新聞07年10月16日夕刊「特集」ー道元禅師の教え)
つまり「むさぼらず、へつらわない」と捉えることが重要で、貪欲に走らないのはもちろんだが、同時に権力などに諂(へつら)わず、自分を曲げないで毅然とした清々しい生き方をも目指している。知足といえば、とかく「我慢」と狭く受け取られるが、それは真意ではない。
▽ すべてのものが共生=相互依存関係にある
仏教経済学の唱える共生とは何を意味しているのか。大乗経典の一つ、大般涅槃経(だいほつねはんぎょう)は、「一切衆生、悉有仏性」(いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう=生きとし生けるものすべてに仏性がある、という意)を説いた。また中国や日本の仏教は、これに加えて「山川草木、悉皆成仏」(さんせんそうもく、しっかいじょうぶつ=山川草木ことごとくみな成仏する、という意)と説いている。
仏教にみる、この人間観、自然観は仏性、すなわちいのちを軸として人間と自然界の動植物の間のつながり、相互依存関係をとらえようとするものであり、これは人間と動植物をそれぞれが平等、対等の関係にある共生のシステムとして認識することにほかならない。いいかえれば動植物を含む自然は人間が支配し、利用する対象として存在するのではなく、相互に同価値として存在しているのであり、従って人間中心主義よりも生命中心主義に立っているのが仏教の共生の思想である。
つまりすべてのものが相互依存関係にある。それぞれの人生を考えてみても、自分ひとりで生きているのではない。宇宙、地球、自然、社会、地域、家庭そして他人様(ひとさま)のお陰で生かされ、生きているのである。いいかえれば他存在、他者との共生以外にそもそも生もいのちも、そのありようがない。
ここで見逃せないのは、知足と共生とは相補う関係にあることである。
知足という智慧は共生の摂理を認識することから生まれてくる。人間は自力のみで生きていると思うのは錯覚である。客観的事実として地球・自然の恵みを受けて、しかも他人様のお陰で生き、生かされているのである。つまり人間は共生の中でのみ生きているのである。この理(ことわり)を認識できれば、「お陰様で」という他者への感謝の心につながっていく。この感謝の心は「もっともっと欲しい」という独りよがりな貪欲に対する自己抑制として働く。つまり「もうこれで十分」、「もったいない」という知足の智慧へと赴(おもむ)く。
一方、共生は知足を促すと同時に知足の助けを借りて成り立っている。いいかえれば貪欲が蔓延しているところには共生は不可能である。なぜなら貪欲に地球・自然を汚染・破壊し、さらに貪欲に身勝手な私利私欲を追い求め、他者をないがしろにするところに共生が成り立つはずもないからである。そこに見出すのは共生・いのちの破壊である。逆にいえば、共生・いのちは知足とともにのみ存続することができる。
<安原の感想> ― 大欲・少欲、貪欲・小欲と中道について
仏教のキーワードに「中道」がある。どういう含意なのか。中道とは「道に中(あた)る」という意であり、道理に合った道である。俗に二つの考え方、立場を足して二で割るとか、左右の中間を中道ととらえる見方があるが、これは俗説である。あくまでも「道理に合った大道」を指していることを忘れてはならない。
この中道と欲望とはどういう関係にあるのか。
欲望も一方に大欲・少欲、他方に貪欲・小欲があり、多様である。どう異なるのか。大欲は「大望を抱く」と同様に大きな志しとして肯定される。仏道に励むことなどを指している。少欲は少欲知足と同じことばで、これも奨励される。
これに反し、貪欲は貪(むさぼ)りであり、小欲はつまらない身勝手な欲という意味である。欲望の内実をこのように理解すると、「中道=道理に合う大道」の実践といえるのは、大欲と少欲である。これは極楽への道である。一方、貪欲と小欲は、本人がそれにハッと気づくのが遅くて、生き方を変えなければ、地獄への道にもつながっている。
<参考資料>
・安原和雄「知足とシンプルライフすすめ ― 消費主義病を克服する道」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第26号、平成十九年)
・安原和雄「二十一世紀と仏教経済学と(上)― いのち・非暴力・知足を軸に」(駒澤大学研究誌『仏教経済研究』第三十七号、平成二十年)
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(10年10月15日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study342:101015〕
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いのちの尊重と非暴力(=平和) -連載・やさしい仏教経済学(17)-
今回から私(安原)が構想する仏教経済学の八つのキーワード ― いのちの尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性 ― を紹介したい。まず「いのちの尊重」、「非暴力(=平和)」を取り上げる。
「いのちの尊重」とはなにを含意しているのか。仏教でのいのちとは人間に限らず、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちを指している。人間も動植物も平等であり、人間のいのちだけが尊重に値するわけではない。これが仏教思想の生命中心主義であり、いのちの平等観である。一方、平和については一般に反戦・非戦、つまり戦争がない状態と理解されている。しかしこれは一面的な平和観である。21世紀の新しい平和観は「平和=非暴力」、すなわち戦争を含む多様な暴力がない状態と捉えたい。しかも平和は「守る」ものではなく、「つくる」ものであることを強調したい。(2010年10月8日掲載)
▽ 釈尊の説法 ― 「暴力といのち」について
仏教の開祖、釈尊は暴力といのちについて次のように述べている。(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』・岩波文庫の「真理のことば」第一〇章)
「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己(おの)が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させしめてはならぬ」
「すべての者は暴力におびえる。すべての〈生きもの〉にとって生命は愛(いと)しい。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させしめてはならぬ」
ここに自己のいのちが大切であれば、人のいのちも大事にしなければならないという仏教思想の「いのち尊重」の原点がある。特に重要なことばは「殺させしめてはならぬ」である。これについて次のような受け止め方がある。
殺す暴力だけでなく、殺し合いを強いられる暴力、すなわち殺させるものと殺させられるものとの社会的不公平・支配被支配関係を前提する暴力 ― その代表は徴兵された兵士たち ― についても戒められている。私が殺されたくないのだから、私はだれも殺さないようにしよう、というのは、いわば個人的な決意の問題であるが、「殺させしめてはならぬ」というのは、それを実現しようとすれば、殺し合いを強いることが不可能な社会の仕組みをも視野に入れなければならない。
釈迦のことばは、(中略)実に社会的なものであったのだ。このことばに従うかぎり、仏教は暴力と戦争に反対する宗教である。(菱木政晴著『非戦と仏教』・白澤社)
ただ現実の世界では宗教とかかわる暴力沙汰が過去にもそして今日なお繰り広げられている。これを克服するためにも仏教本来の「いのち尊重と非暴力」の理念をしっかり認識する必要がある。
▽ 仏教の生命中心主義と不殺生戒
現代経済学の理論体系には「モノ」や「カネ」は登場してくるが、「いのち」の観念はない。無視していると言ってもいい。
では仏教経済学のキーワードの一つ、「いのちの尊重」とはなにを含意しているのか。まず生命(いのち)尊重(=生命中心主義)と人間尊重(=人間中心主義)とは質的に異なっていることを指摘したい。
仏教思想でのいのちとは人間に限らず、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちを指している。人間も動植物も平等であり、人間だけが格別上位に位置しているわけではない。これが仏教思想の生命中心主義であり、平等観である。
これに対し人間を万物の霊長として自然、動植物を支配する地位に押し上げているのがキリスト教的人間中心主義といえる。キリスト教の世界である欧米では生きとし生けるものすべてのいのちではなく、「人間のいのちの尊厳」がしばしば強調される。
仏教といのち尊重とはどういう関係にあるのか。仏教に不殺生戒(ふせっしょうかい)があり、人を殺すことはもちろんだが、それ以外の無益な殺生を厳しく戒めている。人間は他の動植物のいのちをいただいて生かされているのだから、生きていくためには心ならずも殺生は避けられない。しかしそれは最小限度内に抑えるべきであり、それを超える無益な殺生は許されないと考えるのが仏教である。
日本人の習慣として食事前に「いただきます」と唱える。これは動植物のいのちをいただき、自らのいのちをつないでいることへの感謝の心の表現である。だからいのちある食べ物を大量に食べ残すのは、身近な無益な殺生の一つの具体例である。
国家権力による人間や自然に対する無益な殺生の典型例が戦争であり、それを促す軍備の増強も資源、環境に浪費と破壊をもたらすのだから無益な殺生である。自然開発という名の自然破壊も、多様ないのちを生かす営みを続けている自然の破壊だから不殺生戒に反する。
▽ 巨大な軍備も経済成長も盗む行為に等しい
不殺生戒と並んでもう一つ、仏教が説く不偸盗戒(ふちゅうとうかい)は、盗むことを戒めている。人のものを盗んではならないことは常識だが、ここでは盗むことを浪費、収奪も含めてもっと広い意味に理解したい。アイゼンハワー米大統領(在任期間は1953~61年)は政権末期に「銃、戦艦、ロケットは、腹が減っているのに食べ物がない人々や寒いのに服がない人々からの盗品だ」と述べた。こういう発想に立てば、巨大な軍備それ自体が実は盗む行為そのものなのである。
大量生産ー大量消費ー大量廃棄という経済成長をめざす構造の中での物的資源、エネルギーの浪費は自然からの必要以上の無用無益な収奪であり、不偸盗戒に反する。経済のグローバル化と競争の激化を背景に生み出される失業と不完全就業による人的資源の浪費にしても、人から仕事の機会を奪うのだから、これも不偸盗戒に反する。こういう考え方に立てば、大量の兵器を作ったり、資源、エネルギーを浪費したり、安易に人員整理を行ったりする企業は「泥棒会社」と呼んで差し支えないのではないか。仏教はそれを戒めているのである。
イギリスの経済学者、J.M.ケインズは有名な著作『雇用、利子および貨幣の一般理論』(1936年。塩野谷九十九訳・東洋経済新報社)の中で、「戦争でさえ、富の増大に役立ちうる」と記している。ケインズ経済学を含む現代経済学は、さまざまな暴力を肯定している。戦争になって軍需景気が起こり、需要が増えることで経済成長が達成されるのはよいことだという発想に立っているからだろう。
<安原の感想> ― 今日の平和(=非暴力)はつくっていくもの
ここで21世紀における平和とは何か、どういう状態を指しているのかを改めて問うてみる必要がある。
「平和=非戦」、すなわち戦争がない状態が平和だという認識が一般的である。とくに日本人の多くはこういう平和観に囚われている。しかしこれは誤解であり、錯覚というほかない。これは狭い意味の旧型の「平和」観である。戦争さえなければ、本当に平和なのか。
身近な具体例で考えてみよう。日本での最近の年間交通事故死者数は約6000人(警察庁と厚生労働省の統計を総合的に概算したデータ)である。以前よりはかなり減少したが、それでも年間6000人もの尊いいのちが無造作に奪われている。自殺者は10年以上にわたって年間3万人を超えている。その主因は経済苦といわれる。交通事故死も自殺も戦場での戦死ではないのだから受忍せよ、といえるだろうか。
「平和すなわち非暴力」とは、単にテロ、紛争、戦争がない状態を指しているだけではない。多様な暴力がない状態を平和ととらえるのが今日的な新しい平和観である。すでに戦争よりもむしろ地球環境破壊、異常気象、感染症などの非軍事的な脅威・暴力によって多くの人命が失われている。さらに貧困、食料不足、安全な水の欠乏、飢餓、疾病、人権侵害、公正の欠如、格差の拡大 ― など多様な暴力によって苦しめられ、あるいは死に至る犠牲者が地球上には億単位で数えるほど多数いる。
米国では貧困層の若者が貧困からの脱出を目指して、志願兵として戦争に参加するケースも少なくない。いいかえれば貧困という暴力が戦争を容易にしているという側面もある。これら多様な暴力が克服されない限り、平和とはいえない。
仏教経済学の立場では平和について以上のように「非戦・反戦」に限定しないで、「いのちの尊重」を基点にして、広く「非戦を含む非暴力」ととらえる。このように平和を捉えれば、暴力があふれている現状は平和とはいえない。だから平和は守るものではなく、現状を変革し、創(つく)っていくものである。「平和を守ろう!」というスローガンは暴力のあふれる現状をそのまま維持し、守ろうと言っているに等しい。これでは今日の時代感覚にふさわしくない。
<参考資料>
・安原和雄「二十一世紀と仏教経済学と(上)― いのち・非暴力・知足を軸に」(『仏教経済研究』第三十七号、駒澤大学仏教経済研究所、平成二十年)
・同「同(下)― 仏教を生かす日本変革構想」(『同』第三十八号、同仏教経済研究所、平成二十一年)
・ブログ「安原和雄の仏教経済塾」掲載(08年8月15日付)記事=日本列島はすでに戦場である! 平和を「守る」から「つくる」へ
・ヨハン・ガルトゥング著/高柳先男ほか訳『構造的暴力と平和』(中央大学出版部、初版第一刷1991年)
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(10年10月8日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study339:101008〕