連載・やさしい仏教経済学-(20)利他は極楽へ、私利は地獄への道/(19)簡素とローカリゼーションのすすめ

著者: 安原和雄 やすはらかずお : ジャーナリスト・元毎日新聞記者
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利他は極楽へ、私利は地獄への道 -連載・やさしい仏教経済学(20)-

仏教経済学の八つのキーワード ― いのちの尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性 ― のうち今回は「利他」を取り上げる。利他とは、「世のため、人のための行為」を指している。この利他が結局は自利、すなわち我が身にプラスとなって還ってくる。いいかえれば極楽の世界に通じている。
 ここでの「利他は極楽、私利は地獄」は現世のありようを指している。仏教では来世での極楽、地獄に大きな関心を向けているが、仏教経済学としてはあの世にまで視野を広げることはない。ここが仏教経済学は仏教と同じでありながら、同じではないところである。だからこそ仏教経済学は社会・人文科学の一つとして位置づけることができる。(2010年10月29日掲載)

▽ 地獄、極楽の食事時を探訪して

 地獄、極楽を探訪した以下のようなルポ(現場報告)記の紹介から始めよう。

 地獄を見に行ったときは昼飯時で、食堂に入ってみると、テーブルの上にどんぶりや鉢が並び、山海の珍味が山盛りになっている。地獄の亡者に沢山のご馳走が出るとはおどろきだと感心し、さてテーブルの両側にすわっている亡者たちをみると、みんな骨と皮ばかりにやせこけ、目はくぼみ、真っ青な顔をしてガツガツしている。
 沢山のご馳走があるのに、何でこんなにガツガツしているのだろうと不思議に思ってよくみると、左手は椅子にくくりつけてある。ハハア、人間というのは自分の椅子を離れたがらないものだ。地獄の椅子でさえ離れたがらないのだから、すわり心地のよい代議士や大臣の椅子は手離したくないんだ、と思った。右手は? とみると、右手にはスプーンがしばってある。オヤ、食い気も離さんとみえる。

 ところでこのスプーン、長さが1メートル以上もある。なるほどどんな遠くにあるご馳走もすくいあげる気だなと感心した。
 やがて食事となった。するとどうだろう。長いスプーンで好きなモノをすくい上げるまではよかったが、いざそれを口に入れようとすると、スプーンが長くて口に入らない。いやはや、見るにたえない光景となった。沢山のご馳走を目の前にして、地獄の苦しみとなった。

 気分直しに今度は極楽の食事風景をみに行った。食堂は地獄と同じようで、テーブルにはやはり山海の珍味が山と盛ってある。スプーンの長さも1メートルある。ただ違うのは両側にすわっている人たちがみんなプクプク、ニコニコしている。どういう食べ方をするのか、と不思議に思っていると、感心した。さすがは極楽の住人ですよ。ご馳走を自分の口に入れるには長すぎるスプーンだが、向かいの人の口に入れてやるにはちょうどいい長さである。

 相手を生かすことによって自分も生かされる。まことにすばらしい共生きの世界である。社会の仕組みは全く同じであっても、そこに住む人の心構えや生活態度によって、地獄ともなれば、極楽ともなる。「オレが」、「オレでなくては」、「オレなればこそ」といって個我の執着にひきずりまわされ、取る、奪うを最高の生き方と考え、かえって自らの成長、繁栄を自ら阻害してもがき苦しんでいるのが地獄。一方、与える心、施す心、恵む心をもってお互いが生かされる無我を基調とする福祉社会こそが極楽。私はしみじみそう感じた。(佐藤俊明著『禅のはなし』現代教養文庫)

 以上はもちろん現世での物語である。重要なことは地獄、極楽はあの世ではなく、この世に存在することを自覚することである。何を思い、どう行動するかで、同じ人が地獄に墜ちて苦しんだり、極楽で安心し、笑ったりしている。

▽ 利他とは ― 「忘己利他」、「自利利他円満」、「利行」

利他とは分かりやすく言えば、「世のため、人のため」の行為である。ただその説き方は多様である。日本仏教の開祖の説法に耳を傾けてみよう。

日本・天台宗の開祖、最澄(さいちょう・767~822年)は「忘己利他」(もうこりた)、すなわち「己を忘れ(捨て)、他を利するは慈悲の極みなり」と説いた。慈悲の慈は安楽をもたらすこと、いつくしみの心であり、悲は苦しみを除くこと、あわれみの心を意味している。自分のことは後にして、まず他に対する愛、思いやり、助け合いの精神を行動で示すことにほかならない。
 一方、浄土真宗の開祖、親鸞(しんらん・1173~1262年)の説法として「自利利他円満」が知られる。その意味するものは、まず他人様のお役に立つこと(利他)、そうすれば長い目でみて、それが結局自分へのプラス(自利・注1)として返ってくるという意である。

 曹洞宗の開祖、道元(どうげん・1200~1253年)は、「菩薩四摂法(ぼさつししょうぼう・菩薩が衆生を悟りに導く四つの方法)」(『正法眼蔵』四・岩波文庫)として布施、愛語、利行、同事の四つを挙げている。その一つ、利行(利他のこと)は何を意味するのか。道元は次のように説いている。
 「愚人おもはくは、利他をさきとせば、自(みづから)が利、はぶかれぬべしと。しかにはあらざるなり。利行は一法なり、あまねく自他を利するなり」と。
 この説法の意味するところは次のようである。「利他は身(しん)・口(く)・意(い)の三業(さんごう=体と口と心の三つの行為)で善行を施して他人のために利益(りやく)を与えることである。愚かな人は思うであろう。他人の利益を先にしたら、自分の利益が省かれるだろう、と。決してそんなことはない。利行は唯一の真実の法であって、自も他もあまねく利益する」と。(秋月龍珉著『続・正法眼蔵を読むー道元に学ぶ禅の極意』・PHP文庫)

 仏教経済学は経済を担う存在として、こういう利他主義の人間観を軸に据えている。しかし現代経済学ではそういう人間観は想定していない。自分や企業の利益を第一に考え、行動する利己的な人間観を前提にしている。仏教経済学と現代経済学とでは想定している人間観がまるで異質であることを強調したい。
 最近、親の子殺し、子の親殺しなどのように無造作に人間の命が奪われるだけではなく、政府、企業レベルでもごまかし、偽装、隠ぺいが日常化し、日本列島上に広がっている。すべては利他を忘却した私利(注1)第一、利己主義の悪しき産物といえる。昨今の世の乱れについて、私利第一の人間観に立つ現代経済学を大学で教えている経済学者の責任も大きいといわねばならない。果たして現代経済学者にそういう自覚はあるのだろうか。

 (注1)「自利」、「私利」という二つの文言は似て非なるものなので説明しておきたい。前者の自利は、利他のお返しとして自分にとってもプラスになる、あるいはご利益(りやく)がある、という意味で使っている。一方、私利は私利私欲とも言うように、利他に否定的で、自分だけの身勝手な私欲を優先させる発想、行為を指している。

▽ お布施型企業経営のすすめ=利他主義の実践

 さて以上のような私利、私欲の横行に歯止めをかけ、転換させる手をどこに求めるか。個人一人ひとりにとっては利他の真意を自覚して日常生活の中で実践していく以外に妙案はない。
 では企業はどうか。その有力な手として、「お布施型」(注2)企業経営をすすめたい。現状では自然環境汚染・破壊、倫理軽視、従業員解雇・削減を辞さない私利優先型企業経営が多すぎる。これを自然環境、倫理、雇用の重視を基本理念とするお布施型企業経営へと再編成していくことが望ましい。

 高度経済成長はもはや過去の物語であり、21世紀の今日、ゼロ成長を含む低迷経済下ではマクロの経済規模はほぼ横ばいに推移し、個別企業にとっては浮沈、興亡は避けられない。その明暗を分けるのは、経営のありようとして「お布施型」の新展開か、それとも「私利優先型」に執着するか、そのどちらを選択するかであるだろう。
 前者は利他の実践そのものであり、広く社会の尊敬を得て、成長企業として評判になるが、後者は尊敬を受けられないし、転落の憂き目をかこつ以外に道はないだろう。いいかえれば低迷経済下でも個別企業は企業経営者の時代を見抜く眼力と器量によって成長企業になり得るのである。

(注2)道元は上述のように「菩薩四摂法」として「布施」、「愛語」(慈愛の言葉を施すこと)、「利行」、「同事」(人を好き嫌いしないこと)を挙げて、その筆頭に布施を位置づけている。道元は多様な布施の一つとして「治生産業」に言及している。この治生産業(生産事業)は今日では広く企業経営と理解することもできるのではないか。
 さて仏教の布施の原意は「与えること」「施すこと」であり、利他(利行)の実践と重なり合っているだけではない。愛語も同事も広い意味の布施に含むことができると考えられる。
 その布施は大別して、法施(「法=真理」の施しをすること)、財施(モノ、カネを施すこと)、無畏施(笑顔、やさしさを与えるなどして、不安感や恐怖心を取り除き、安心感を与えること)の三つがある。分かりやすくいえば、日常の実践として世のため人のために尽くし、そこに自らの喜びを噛みしめていくことである。例えば電車で座席を譲るようなささやかな行為も、立派な布施(無畏施)、すなわち利他の実践といえる。

 一つ付記すれば、布施、特に財施は人に強制するものではない。昨今、多くの僧侶が葬式仏教に名を借りて高額のお布施を請求する事例が目立つ。これは邪道であり、本来の布施の精神に反している。

初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(10年10月29日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/

 

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
〔study349:101029〕

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簡素とローカリゼーションのすすめ -連載・やさしい仏教経済学(19)-

私(安原)が構想する仏教経済学の八つのキーワード ― いのちの尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性 ― のうち今回は「簡素」を取り上げる。簡素は非暴力(=平和)とも深くかかわっており、簡素に背を向ければ、それは暴力への道につながっている。その関連で地域重視のローカリゼーション(ローカル化)に言及する。一方、地域を軽視し、世界を壊しつつあるグローバリゼーション(グローバル化)に批判の目を配る。
簡素、シンプルな個人の暮らし方に最近関心が高まっているが、仏教経済学の簡素は、単に個人生活にとどまらず、政治、経済、社会を含めた視野で捉えたい。(2010年10月22日掲載)

▽ 簡素、シンプルな生き方に関心が広がってきた 

 最近は簡素、シンプルな暮らしへの関心が広がってきている。例えば朝日新聞(2010年8月17日付)の書籍広告欄にドミニック・ローホー著/原 秋子訳『シンプルに生きる』(幻冬舎)について次のような大きな活字が躍っている。
 ものをもたない暮らしはこんなに楽しい!
 ヨーロッパを席巻した大ベストセラー
 歴史を重ねてきた国に学ぶ心豊かな人生の過ごし方
変哲もないものに喜びをみつけ、味わう
上質なものを、上質な場所で、上質な時間をかけて

売れ行きについては「忽ち5万部!」と宣伝されている。 著作の内容は「シンプル主義37カ条」で、そのいくつかを以下に紹介すると ― 。

・嫌なことは引き受けない
・1年間に1度も使わなかったものは、すべて捨てる
・欲求と必要の違いを区別できるようにする
・可能な限り物質的なものを排除する
・シンプルにすることは「愛するものを排除するのではなく、幸せのために役にも立たず、貢献もしないものを排除するのだ」と自分に言い聞かせる
・泥棒が入っても、とっていくものがないくらいにしておく
・関わっているさまざまな活動の数を減らす

 ともかくここでのシンプル主義は個人の日常的な暮らしぶりについての助言といえる。我が身に引き比べてみて、なるほどとうなずかせる寸言でもある。

▽ 簡素は非暴力とも深くかかわっている

 仏教経済学が重視する簡素は、上述のような個人レベルにとどまらない。むしろ政治、経済、社会にかかわる変革の視点を重視し、非暴力とも深くかかわっている。一方、現代経済学では、表面を飾り立てた「虚飾」でしかないような貪欲、浪費、無駄を追求し、それは暴力に走りやすい。
ドイツの仏教経済学者、シューマッハーは著作『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫)の中で簡素と非暴力とについて以下のように指摘している点に注目したい。(シューマッハーの主張は、<シューマッハーの「小さいことは素敵」=連載・やさしい仏教経済学(5)>を参照)

・簡素と非暴力
 「仏教経済学の基調は簡素と非暴力である」
 「簡素と非暴力とが深く関連していることは明らかである。適正規模の消費は、比較的低い消費量で高い満足感を与え、これによって人々は圧迫感や緊張感なしに暮らし、〈すべて悪しきことをせず、善いことを実践し〉という仏教の戒律を守ることができる。物的資源には限りがあるのだから、自分の必要をわずかな資源で満たす人は、これを沢山使う人たちよりも相争うことが少ないのは理の当然である。同じように、地域社会のなかで知足(=Self Sufficiency自給自足)的な暮らしをしている人たちは、世界各国との貿易に頼って生活している人たちよりも戦争などに巻き込まれることがまれである」

・遠隔地の資源に頼るのは経済的失敗
 「仏教経済学者は、欲求を満たすのに手近にある資源を使わずに、遠隔地の資源に頼るのは、経済的成功どころか、むしろ失敗だと主張する。現代経済学者は国民一人当たりの輸送量(一マイル当たりのトン数で表示される)の数値が上がれば、それが経済的進歩の証左だというが、この同じ数値が仏教経済学者には消費の様式が悪化した指標となる」
・再生不能資源(石油など)の浪費は暴力
 「再生不能の燃料資源は、その地域的分布がきわめて偏っており、総量にも限界があるから、それをどんどん掘り出していくのは、自然に対する暴力行為であり、それは間違いなく人間同士の暴力沙汰にまで発展する」

 以上のシューマッハーの指摘の中で特に以下の諸点が眼目といえる。
・「地域社会のなかで暮らしている人たちは、世界各国との貿易に頼る人たちよりも戦争に巻き込まれることがまれである」
・「手近にある資源を使わずに、遠隔地の資源に頼るのは、経済的成功どころか、むしろ失敗だ」
・「再生不能の燃料資源(石油など)は、その地域的分布が偏っており、総量にも限界があるから、それを無制限に掘り出すのは、間違いなく人間同士の暴力沙汰に発展する」

 以上の分析、認識、主張は、昨今の経済のグローバリゼーション(グローバリズム=地球規模化を目指すこと)を批判する立脚点を提供している。しかも簡素と非暴力の視点からローカリゼーション(ローカリズム=地域の中で多様な結びつきつくること)を目指す方向を打ち出している。

▽ 簡素、非暴力のローカル化へ転換を

 「9.11テロ」(2001年の米国での同時多発テロ)以降、世界は暴力に満ちている。米国主導のイラク攻撃は世界第二の石油資源国・イラクの石油を確保することが狙いの一つであった。今日までの多くの戦争が資源・エネルギーの確保と争奪をめぐる国家間の暴力沙汰であったことは改めて指摘するまでもない。戦争を含む暴力を横行させるのがグローバリゼーション(グローバル化)である。
 企業レベルでいえば、グローバル化とは、地球規模で事業展開する多国籍企業などのビジネスの規制緩和・自由化を推進するシステムのこと。例えばコカ・コーラやIBM、トヨタや三菱のような巨大企業にとって地球のローカルな市場に入っていく、あるいは退出していく自由が与えられているが、競争力の弱い企業は没落していく。

 このようなグローバル化への対抗軸として簡素、非暴力、平和をもたらす地域重視のローカリゼーション(ローカル化)への転換が21世紀の大きな課題となってきた。これが仏教経済学の主張である。

▽ ローカル化とグローバル化をめぐる一問一答

 グローバル化とは異質のローカル化への転換は、容易ではなく、以下のような疑問がつきまとう。それへの答えも考えてみる。

<問い1> グローバル経済の中で仕事をしている人も沢山いる。ローカル化を進めると、失業者が増える可能性はないか?
<答え> 地球規模で規制緩和・自由化が進められると、企業が合併し、2つの企業が1つになる。この過程で必ず雇用が減る。だから企業合併への誘因をローカル化によって変えて、逆に企業を分ける方向に進めていく必要がある。これを進めていけば、労働力、資本、資源とのバランスがとれるところに辿りつくのではないか。

<問い2> 政府のほか、WTO(世界貿易機関)など国際機関が進める経済グローバル化の圧倒的な力がある中で、ローカル化が果たして対抗軸になり得るのか?
<答え> グローバル化の推進者は実は一握りの人たちで、圧倒的大多数の人たちは、利益を受けると聞かされてはいるものの、実際には失うものの方が大きい。先進国では例えば社会的な福祉の崩壊、労働時間の長期化、その結果、子供と過ごす時間、自然の中で過ごす時間、生活を楽しむ時間がなくなってきている。日本ではこれに自殺、過労死などが追加される。要するにゆとりと人間性の喪失である。
 このようにグローバル化で様々なものを失っている現実をまず明確にすること、そういう気づきを広めていくとともに、システムとしてもう一つ別の選択肢、ローカル化があることを広めていく必要がある。

<問い3> ローカル化を進めていく上で企業や政府などとのパートナーシップ(協力関係)はいかにあるべきか?
<答え>パートナーシップ、コラボレーション(協働)など表現は様々だが、要は人間同士、人間と企業・政府を含む組織との協力関係をどうつくっていくかが課題である。グローバル化はこの相互の関係を断ち切った。企業は利益第一主義に走り、CSR(Corporate Sosial Responsibility=企業の社会的責任)やSRI(Socially Responsible Investment=社会的責任投資)への取組は不十分である。政府は大企業の支援者となり、一方、個人それぞれは弱肉強食の競争を強いられた、乾いた砂粒のような存在になっている。お互いの協力関係を築くにはグローバル化を批判し、ローカル化への視点に立って出直すほかないだろう。

<参考資料>
・世界を壊していくグローバル化 ― その多様な弊害の実相を観ると(ブログ「安原和雄の仏教経済塾」07年12月13日付掲載)
・台頭するローカリゼーション ― 経済グローバル化への果たし状(ブログ「同」07年12月20日付掲載)
上記の安原のブログ記事には女性活動家、ヘレナ・ノーバーク=ホッジさん(スウェーデン生まれの言語学者で、ISEC=エコロジーと文化のための国際協会・本部イギリス=の代表)らの意見が紹介されている。

初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(10年10月22日掲載)より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
〔study344:101022〕