連載・やさしい仏教経済学-(24)お金では買えない価値の大切さ/(23)競争 ― オンリーワンをめざして

著者: 安原和雄 やすはらかずお : ジャーナリスト・元毎日新聞記者
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お金では買えない価値の大切さ  -連載・やさしい仏教経済学(24)-

 仏教経済学は、お金(貨幣)をどう捉えるのか。八つのキーワード(いのちの尊重、非暴力=平和、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性)に続いて、前回は競争を取り上げたが、ここではお金をテーマにしたい。今日、貨幣経済の中で生きている以上、お金に執着するか、あるいは多少の距離感を保つかはともかく、お金から逃れることはむずかしい。個人に限らない。マネー感覚はそれぞれの国民性にも映し出されている。
重要な点は、経済を貨幣価値(=市場価値)に限定して狭く捉えるか、それともお金では買えない非貨幣価値(=非市場価値)も大切とみて、広く捉えるかである。主流派の現代経済学は前者の狭い立場であり、これに反し仏教経済学は後者の広い視点を重視する。(2010年11月25日掲載)

▽ マネー感覚の国際比較 ― 国民性が表れる 

 お金(かね)をどう受け止めるか、そのマネー感覚にも国柄、国民性が表れている。
 たばこ小売り店主(信州木曾路の妻篭宿)の体験談を紹介しよう。   

 たばこを売りながら各国の国情や民族のマナーを勉強させられている。外国人がたばこを買うとき、「マイルドセブン ワン」といって、小銭のないときは、端数をプラスして渡してくれる。おつりに便利なように、売る側の立場を考えて、小銭を加えて出す。ヨーロッパもアジアの人々も同じである。ところが、日本の人は1000円を投げ出し、「小銭はありませんか」と聞くと、「ない」というだけだ。相手の気持ちを全然考えていない。このようなマナーの違いは、どうして生じるのか。金さえ出せば、文句はないだろうというのが日本人の考え方なのだろう。だから金持ち日本といわれながら、マナーの悪さでひんしゅくを買い、諸外国と経済的トラブルを起こしている。

 次はスイスで暮らしている日本人の体験談である。

 フランス人の夫とスイスで生活しているが、お金に対する感覚の違いで失敗することが多い。新しいアパートに移った友達に「周囲の環境は?」、「交通の便は?」と質問攻めにするのが彼らなら、私は「家賃はいくら?」と聞いてしまうのだ。「お金が好き」とあるフランス人にいったら、「なんだこいつ」という目で見られたことがある。夫に話すと、「お金に汚い日本人」と思われたかもしれないと教えてくれた。この国ではお金はタブー視されているとも。「人生はお金じゃない」といいきる彼らに対し、「ないよりあった方がいい」と思う私たち日本人である。(朝日新聞テーマ談話室編『お金』朝日新聞社)

日本人の金銭感覚はお金第一主義に走り、ヨーロッパ人の金銭感覚は、どちらかというとお金よりも大事なものがあるという考え方のようである。

▽ 古今東西のお金談義(1) ― 「時は金なり」から「諸悪の根源」まで

 昔からカネにまつわる諺、名句は少なくない。古今東西の名著古典にも金(かね)に関する記述は多い。そこには人間社会の悲喜劇がそのまま映し出されているといっても過言ではない。それは日本にかぎらない。

 「時は金なり」― アメリカの政治家ベンジャミン・フランクリン(1706~90年、独立宣言起草委員など)のこのセリフはあまりに有名であるが、念のため辞書を引いてみると、「時間を無駄に費やしてはならない」とある。時は金のように貴重なものだという意味である。もう一つ、「金を銀行に預けておくと、時間が経つにつれて利子が増えていく」という解釈もあるらしい。拝金主義横行の現代にふさわしい解釈といえようか。
 「金に目が眩(くら)む」と同時に「金に手を付ける」という不始末のために手が後ろに回る政治家、経済人も昨今では珍しくない。
 「金が敵(かたき)」というのもある。これには三つの解釈が成立するというからややこしい。一つは人間は金銭のために悩み苦労する。だから金はまるで敵のようなものだという意味である。もう一つは敵を探し回ってもなかなか巡り会えない。金銭もそれと同じでなかなか巡り会えないことを嘆いた言葉である。三つ目は金を敵のように憎み嫌うべし、ということである。(増原良彦著『日本の名句・名言』、講談社現代新書)

 井原西鶴(1642~93年、江戸前期の浮世草子作家)が書いた町人たちの蓄財出世物語『日本永代蔵』(角川日本古典文庫)から拾ってみよう。
 「世の中に借り銀(借金のこと)の利息ほどおそろしき物はなし」
 借金すると、利息があっという間にたまるこわさを指摘したものだが、一方では次のように「銀の世の中」、「庭蔵のながめ」などとカネの値打ちを強調しているものも多い。
 「銀(かね)さえあれば何事もなる事ぞかし」
 「なうてならぬ物は銀の世の中」
 「人の家に有りたきは梅桜松楓、それよりは金銀米銭ぞかし。庭の築山にまさってよいのは、庭蔵のながめ」

 いずれにしても『日本永代蔵』が描いたのは、江戸時代前期に貨幣経済が浸透し始め、産業資本主義の前段階である商業資本主義が花開きつつあった時代、つまり高利貸し資本が大いに活躍しだしたときで、お金談義満載の作品となっている。

▽ 古今東西のお金談義(2)― 貨幣のない国こそ理想

 トマス・モア(1478~1535年、イギリスの政治家・人文主義者)の古典的著書『ユートピア』(岩波文庫)の次の一節を紹介しておきたい。

 ユートピアでは貨幣に対する欲望が貨幣の使用とともに徹底的に追放されているのだから、どれほど多くの悩みがそこから姿を消していることだろうか。また悪徳と害毒のいかに大きな原因が根こそぎ断ち切られていることであろうか。
 詐欺、窃盗、強盗、口論、喧嘩、激論、抗争、殺人、謀逆、毒殺、―こういったものは日毎に処罰しても復讐を企てこそすれ、決して防ぐことのできないものであるが、それこそ貨幣が死滅すれば、それと同時に死滅するものである。同じように恐怖、悲哀、心痛、労役、苦闘といったものも貨幣が消滅したその瞬間に、消滅するのではないだろうか。

 ユートピアはギリシア語からモアが作った言葉で「どこにもない国」つまり理想郷という意味である。モアは作品のなかで、お金こそ諸悪の根源であり、貨幣のない国こそ理想であるという視点から16世紀初頭のイギリスの政治・社会制度の欠陥と腐敗を厳しく批判した。お金の功罪のうちの罪の側面を鋭く衝いたこの指摘はこんにちでもそのまま通用するのではないか。

 以上で見る限り、お金以外の価値の大切さは見逃されてきた。しかし仏教経済学はそこから出直し、非貨幣価値の大切さを重視する。

▽ 仏教経済学は非貨幣価値(=非市場価値)に着目する

 「経済」という用語は、中国の言葉「経世済民」(世をととのえ、民を救う、という意)の中の「経」と「済」を組み合わせてつくられた。そういう意味の「経済」を英語Economyの日本語訳に充てたわけだから、その原点に立ち返って、国民一人ひとりが幸せになるにはどうしたらよいかを考えなければならない。そのためには、経済価値を貨幣価値で表されるモノ、サービスのみに限定していいのかという疑問が湧いてくる。むしろ貨幣価値のほかに非貨幣価値も視野に入れるべきではないかと言いたい。それを目指しているのが今日の新しい仏教経済学である。

そこで仏教経済学での経済価値には、貨幣価値(=市場価値、つまりお金と交換で市場で入手できるモノ、サービスなど)と非貨幣価値(=非市場価値、つまりカネでは入手できない価値。いのち、地球環境、豊かな自然、非暴力、共生、モラル、責任感、誇り、品格、慈悲、思いやり、利他心、生きがい、働きがいなど)という異質の二つの価値がある。
このように仏教経済学は貨幣価値と非貨幣価値の双方を総体的に捉えるところに大きな特徴がある。
現実には非貨幣価値のように、お金を出しても市場で買えないけれども、何ものにも換えがたい大切なものが沢山ある。仏教経済学はむしろこれら非貨幣価値を重視し、仏教経済学の八つのキーワードはいのち、共生、利他、非暴力など非貨幣価値につながるものが多い。

 一方、現代経済学はその対象を貨幣価値のみに限定し、非貨幣価値には関心を抱かず、理論体系の外に投げ捨てている。これは現代経済学の方法論がカネと数量で測ることのできるもののみを対象にしているところからきている。
 非貨幣価値を視野に置かない現代経済学は、発想の根本がおかしい。現代経済学の中でも特に新自由主義(=市場原理主義)思想は貨幣価値を重視し、拝金主義に走り勝ちである。
 粉飾決算で獄につながれたライブドアの堀江貴文社長が華々しく登場した頃、「この世の中に金で買えないものがあるか。あれば、教えてほしい」と言った。私は答えたい。「あなたが両親からもらった生命はお金で買ったのか」と。彼は答えられないだろう。
 「金もうけは悪いことですか」と言い放った村上ファンドの村上世彰元代表はインサイダー取引事件で刑務所送りとなった。こういう事例は後を絶たない。
 これら「カネ、カネの世の中」と思いこんでいる輩にはカネそのものの増殖、さらにカネで入手できるモノやサービスなど貨幣価値しか念頭になく、おカネでは買えない非貨幣価値が大切であることに目が届いていない。そこに多くの悲劇の物語が生まれる。

 もちろん仏教経済学は適正な範囲での利益を決して否定するわけではない。企業経営には利益は必要だが、それは企業の社会的貢献に対する返礼としていただくものであり、貪欲に、しかも詐欺的手段を弄(ろう)して貪り取るものではない。ましてマネーゲームによる利殖は餓鬼の所業である。社会的貢献の成果として利益を確保することと貪欲な拝金主義との間には天地の差がある。

<参考資料>
・安原和雄「知足の経済学・再論 ― 釈尊と老子と<足るを知る>思想(上)」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第20号、平成十三年)
・同「同(下)」(同大学研究誌『東洋文化』第21号、平成十四年)

初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(10年11月25日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/

 

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
〔study357:101125〕

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競争 ― オンリーワンをめざして  -連載・やさしい仏教経済学(23)-

 仏教経済学は、競争や貨幣をどう捉えるのか。これまで仏教経済学の八つのキーワード(いのちの尊重、非暴力=平和、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性)を紹介してきたが、「仏教経済学」も経済学である以上、競争や貨幣に無関心ではあり得ない。ここでは「仏教経済学と競争」を取り上げる。
 仏教経済学の競争観は、弱肉強食、つまり強者が弱者を打ち負かして当然という現代経済学の競争観とは質的に異なる。弱肉強食説を排して、人、企業、社会、経済、国ともに共存・共生の中でお互いの個性を磨き合う競争を奨励する。これは量的拡大のためのナンバーワンをめぐる競争ではなく、むしろ質的発展のためのオンリーワンをめざす競争である。だから整理淘汰される敗者を当然視することのない競争といえる。(2010年11月19日掲載)

▽ 競走の中のやさしさと思いやり、そして自立と自力 「競走で転んだ子を助けた子」という見出しの新聞投書(水野あゆみ・43歳・愛知県美浜町=朝日新聞2010年10月27日付)を紹介しよう。
 
中学校の運動会で100㍍走の選手に選ばれたという娘。(中略)帰宅後に、真っ暗な中、車の来ない道路で全力で何回も走って練習をしている。クラスの中でも足が遅い方なのに、なぜ選ばれたんだろうと悩んでいたが、(中略)手の振り方、足の上げ方などを考えながらタイムを縮めるべく、夜の道路を必死に走っている。
 ストップウオッチでタイムを測りながら、私は何年か前、小学校で見た徒競走のシーンを思いだした。オッフェンバックの「天国と地獄」が大音響で流れる中、次々に子どもたちが目の前を走り抜けていく。ゴールでは到着順に賞状が渡される。
 そんな中、1人の男の子が転んだ。起きあがれない。と、後ろを走っていた男の子が、抜きはしたが走るのをやめて戻ってきた。転んだ子を助け起こし一緒にゴール。2人はたくさん拍手をもらった。
 10年以上運動会を見てきたが、転んだ子に手を貸すため競走のレールからおりた子はあの子だけで、その姿に私の心は、ほっこりした。

 この投書を読んで、実は私(安原)自身も10年近い前の記憶がよみがえってきた。孫の幼稚園での運動会である。たしか50㍍走で女の子が転んだとき、前を走っていた女の子が戻ってきて、助け起こして手をつないで一緒にゴールインした。ビリとなったが、盛んな拍手を浴びた。私も思わず拍手したことを覚えている。
 同時に感じた。最近の子供達は優(やさ)しく、思いやりがあるのだな、と。こういう心根の子供達なら、小学、中学へと進んでもいじめはしないだろう、と。

 これには次のような注釈が必要である。
昔はこういう光景はなかった。なぜかというと、転んでもすぐに自分で立ち上がったからだ。そしてビリになっても、自力でゴールインした。しかし拍手は貰えなかった。こういう自力、自立の精神を仏教は評価する。もちろん優しさ、思いやりも歓迎する。
 ただ蛇足ながら、あえて指摘すれば、転んだ子が自分を誰かが助け起こしてくれることを期待しているとしたら、仏教的思考では評価しにくい。

▽ 自分自身との競争(1) ― 七〇歳(古稀)を過ぎても青春を

 競争といえば、他者(さらに他社、他国)との競争を連想するのが普通だが、ここでは自分自身との競争、つまり精進(たゆまず努力して生きること)のあり方について考えてみたい。

 自分自身が精神的にさわやかに生きていく上で、肝心なことは何だろうか。まずなによりもいのち(生命)を大切に思うこころである。いのちは人間に限らない。動植物も含めて広く自然の限りないいのちを指しており、それを慈しみ、思いやるこころを持ちつづけたい。
 もう一つ、精神的に前向きに生きる意欲を持つことである。アメリカの詩人サムエル・ウルマン(1840~1924年)の「青春」と題した詩の一節を紹介したい。(宇野収ほか著『「青春」という名の詩』産業能率大学出版部)

 青春とは、人生のある期間ではなく、心の持ち方のことである。
 たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱、安易を振り捨てる冒険心を意味する。
 ときには二〇歳の青年よりも六〇歳の人に青春がある。
 年を重ねただけでは人は老いない。
 理想を失うとき初めて老いる。

 「百歳の童(わらべ) 十歳の翁(おきな)」という言葉がある。たしかに青春は年齢には必ずしも左右されない。詩人ウルマンは「六〇歳の人に青春」とうたっているが、これを現代に翻訳すれば、七〇歳の古稀(こき)を過ぎても青春であり続けたいものである。そのためには「青春」の詩のように理想、想像力、情熱、勇気、冒険心を抱き続けることができれば、それに越したことはない。これはいわば生涯現役の感覚である。逆に二〇歳前後ですでに理想も活力も失うようでは情けない。

▽ 自分自身との競争(2) ― 幕末の志士・高杉晋作

 歴史に名をとどめた人物はユニークな辞世の句を残している。その中でおもしろいのは、幕末長州藩の志士・高杉晋作(29歳で病死)の次の辞世である。

 「おもしろき こともなき世を おもしろく」

 ここには混乱、激動、変革の幕末期を精一杯「おもしろく」生き抜いた一人の男の生き様がよく映し出されているとはいえないか。
 この辞世をおもしろいと思うのは、「楽しきこともなき世を楽しく」と言わずに「おもしろく」と表現したことである。「おもしろく」と「楽しく」は混同して使われることが多いが、ここではその意味するところの違いに着目したい。
 「おもしろく」は危険をも恐れない自由、挑戦、創造への姿勢をうかがわせる。理想、ロマン、志、さらに未知の世界を新たにつくっていく未来志向を感じさせる。一方「楽しく」は、安全地帯に身をゆだねて行動する保守、受身、消費を連想させる。すでに出来上がっているものを楽しむ姿勢であり、未来志向にはほど遠い。
 高杉晋作がこれを意識した上で「おもしろく」と言ったかどうかは分からない。ただ高杉は従来の武士組織とは異質の農民、町民も参加した奇兵隊(「奇」は新奇、異質の意)を創設した。これ自体、自由な発想である。しかも幕藩体制という既存の秩序をたたき壊すことに挑戦し、新しい日本を創造することにいのちを懸(か)けた。だからこそ、短い生涯であったとはいえ、おもしろい人生で、悔いはないという心情があふれている辞世とはいえないか。
 これも自分自身との競争、つまり精進の一つの典型とみることができる。

▽ 個性を磨き合うオンリーワンをめざして

 全盲のテノール歌手として知られる新垣勉(あらがき・つとむ)さん(57歳)は、あの日米沖縄戦後にメキシコ系米兵の父と沖縄の母との間に生まれた。10万枚以上も売れたといわれる「さとうきび畑」は何度聴いても素晴らしい。その新垣さんが語っている。(毎日新聞2010年11月4日付)
「平和のために歌うことは、私の存在そのものなのです」
「(名護市辺野古への米軍基地移設に)反対です。壊した自然は二度と元に戻らない。そんなことをすれば沖縄が沖縄でなくなってしまう」
「ナンバーワンよりオンリーワン。互いの違いを認め合うことから平和は始まる」
 オンリーワンとしての沖縄の存在価値、平和への想いが痛切である。それを阻もうとする日米両政府への抗議の声ともなっている。

 禅思想家として世界に知られた鈴木大拙(注)は「わしは死神と競争で仕事をする」と言った。(松原泰道著『般若心経入門』祥伝社)
凡人にはとても口にできない生き方だが、これは何を含意しているのか。鈴木大拙流の自分との競争であり、同時に以下のような自分流のオンリーワンの生き方と理解したい。
 人生は無常、つまり常に変化の過程にある。しかしこの認識にとどまっている限り、人生末期の老・死を待つほかなくなる。これではいかにも寂しい。いつどうなるかわからないわが生命を大切にして、充実した生活をつくっていかなければ、折角の人生がもったいない。死神が手招きしているのを拒否しながら、仕事を果たしたい、と。
 (注)鈴木大拙(すずき だいせつ・1870~1966年)は、大谷大教授などを経て文化勲章受章。著作に『一禅者の思索』(講談社学術文庫)のほか、英文著作40余冊、『鈴木大拙全集』全32巻など。96歳の長寿を果たした。

 現代経済学のすすめる競争は弱肉強食で、効率、利益追求を目指し、勝ち組(人や企業)が負け組を蹴落とすのは当然という考え方に立っている。これでは勝ち組もつねに負け組に転落する落とし穴が待っており、安楽とはほど遠い。弱肉強食は現世での地獄への道である。
一方、仏教経済学としても、競争を否定するわけではない。競争は必要である。だが、競争のあり方を問いかける。仏教は精進を重視しており、仏教経済学の立場では、それぞれの人、企業の精進、すなわち個性を磨き合う競争のすすめである。これは相手を出し抜くナンバーワンではなく、自他共に生かすオンリーワンをめざす競争である。それは共生、連帯感の中での競争でもある。そうしてこそ人、企業、社会、経済、国ともに量的拡大よりも質的発展を遂げることにつながる。これは現世での極楽への道でもある。

初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(10年11月19日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/

 

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
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