連載・やさしい仏教経済学(30)
「平成の開国」、「最小不幸社会の実現」、「不条理をただす政治」 ― この三つは、菅直人首相が施政方針演説(1月24日)で明らかにした国づくりの理念である。さらに首相は「この国に暮らす幸せの形を描く」とも述べた。しかし率直に言えば、残念ながらこの三つの理念と「幸せの形」とがどうにも結びつかない。なぜなのか。一例を挙げれば「最小不幸社会の実現」の決め手として消費税増税を掲げているからである。大衆増税である消費税引き上げは「最大不幸社会」への道である。
いま求められているのは財政・税制の根本的な質的変革であり、あの新自由主義(=市場原理主義)との揺るぎのない決別である。これによって初めて「この国の幸せの形」が浮かび上がってくるのではないか。(2011年1月26日掲載)
▽ 「無縁社会」の実像 ― 問われる「生活の質」
まず高校生(17歳、横浜市保土ヶ谷区=氏名省略)の投書(1月16日付毎日新聞)の紹介(大要)から始めたい。題して<高齢者の「生活の質」を考える>
老人ホームでのボランティア活動で聞いた言葉が忘れられない。入居者の方が「長生きしても良いことはない。昔は人生50年と言われていたけれど、そのくらいがちょうど良い」とおっしゃったのだ。
毎日を前向きに過ごせない・・・。家族や友人と過ごす楽しい老後を想像していた私には衝撃だった。長寿を誇る日本だが、高齢者の生活の質についても考えるべきではないか。 ボランティア活動では話をするだけでとても喜んでもらえた。人と人との関わりが心身ともに健康に生きるための活力になると思う。高齢者の生活の質を高めるには、医療や社会保障の充実という行政面での改革は当然必要だろう。しかし身近なお年寄りに気を配って声を掛けるなど個人でできることも多い。
わが家の近所はお年寄りが多い。私はまず、あいさつをすることから始めたい。誰もがいつかは老いる。この問題を自分自身のものとして自覚し、行動を起こすことが求められているのだ。
<安原の感想> 高校生と菅首相との間の距離
この高校生は老人ホームでのボランティア活動で大変貴重なことを学んだ。いかにも感性豊かで、行動力に富む、という印象である。学んだことを列挙すると ― 。
・老人と話をするだけで喜んでもらえたこと
・人と人との関わりが心身ともに健康に生きる活力になること
・身近なお年寄りに気を配って声を掛けること
・近所のお年寄りにあいさつをすること
以上のような日常のささやかな行為は、その気になれば誰にもできることでありながら、若者に限らず大人も含めて忘却し勝ちとなっているのではないか。これが世に言う「無縁社会」の実像であろう。この高校生はボランティア活動を通じて日本社会のいわば空洞化現象に気づき、そこから「高齢者の生活の質」というテーマを発見した。
今後の課題は、この「高齢者の生活の質」を高めること、つまり向上させるにはどうしたらよいのかである。ただし「生活の質」は、高齢者に限らない。日本社会全体に関わる大きなテーマである。この高校生の視点が果たしてどこまで広がるか。
菅首相は、施政方針演説で「無縁社会」に触れ、「年間3万人を超える自殺」にも言及し、「不条理をただす政治」として「一人でも困っている人がいたら、決して見捨てることなく手を差し伸べる」と言明してみせた。しかしその有効な具体策は見えてこない。高校生の気づきと菅首相との政治姿勢との距離は縮まる気配はうかがえない。
▽ 「生活の質」の向上とは ― 経済成長は「質」を表さない
ここでは「生活の質」の向上とは何を意味するのか、それを経済成長との関連で考えてみたい。
特に指摘しておきたいのは、もともとGDP(=国内総生産)という経済統計概念は経済活動の量を測ることはできるが、質を測ることはできないという点である。このことは経済が量的に拡大しても、つまりプラスの経済成長下でも生活の質は低下することもあり得るし、逆に量的に縮小しても、つまりマイナスの経済成長下でも生活の質の向上はあり得ることを示唆している。だからこそGDP増大で表示されるみせかけの豊かさを信じ込む迷妄から自らを解放しなければならない。
身近な具体例を挙げてみよう。
<その1・交通事故>
田舎道で2台の車が静かにすれ違った。何事も起こらず、GDPにはほとんど寄与しない。しかし一方の車のドライバーが注意を怠って反対車線に逸(そ)れて、接近してくる第三の車を巻き込んで深刻な事故を起こしたとする。
この瞬間「素晴らしい!」とGDPは叫ぶ。医者、看護婦、解体サービス、車の修理や新車の購入、法廷での争い、傷害者への見舞い、所得の損失補償、保険代理店の介入、新聞記事、街路樹の整理、これらはすべて職業的活動であり、金銭の支払いが必要である。
交通事故はこのような多面的な支払い、需要を惹起するからGDPを増大させ、みせかけの豊かさは増えることになるが、事故の当事者を不幸に追い込む。事故がなければ、GDPは増大せず、つまりゼロ成長であり、みせかけの豊かさにも無縁であるが、無事故の本人にはこの方が幸せである。
この身近な事例からも分かるようにGDPは欠陥概念であり、これだけを物差しにして幸せや豊かさを測ることがいかに一面的であるかは明らかであろう。
<その2・日本の残飯は世界一>
日本のファミリーレストラン、宿泊施設など外食産業での残飯は3割にものぼり、世界一ともいわれる。外食産業の規模(売上高)は、年間約24兆円(2009年)というデータもある。消費者が賢明になって、残飯を出さないように控えめの注文となり、残飯3割分がそのまま売り上げ減になると仮定すれば、外食産業の売上は約7兆円(24兆円の3割分)の減少となる。これは外食産業にとっては打撃であり、何ほどかのGDPのマイナス要因でもあり、景気振興論者には、「さあ一大事」の仕儀となる。
しかし消費者にとって生活の質は低下するだろうか。むしろ食べ過ぎ、栄養の取りすぎの恐れがなくなって健康体を取り戻すことができて、生活の質は向上するのではないか。食べ過ぎという貪欲は生活の質の向上に反し、食事の節制、すなわち知足こそが生活の質の向上につながる。
▽ 財政・税制の質的変革が肝心 ― 新自由主義との決別を
上述の身近な具体例は、いわば自己責任あるいは自己努力による「生活の質」の向上策である。ただこのような私的対応策には自ずから限界がある。「生活の質」充実のためには、公的な打開策が不可欠であり、何よりも財政・税制の根本的かつ質的な組み替えが必要である。
仏教経済学の八つのキーワードのうちいのちの尊重、非暴力(=平和)、簡素、持続性などを実現させるためにはつぎの諸政策が特に重要となる。
(1)軍事費の削減・廃止 ― 非武装のコスタリカに学ぶこと
わが国の年間五兆円近い巨額の軍事費を削減・廃止していく展望をもつこと。世界を見渡せば、軍備を持たない国は意外に多い。なかでも中米のコスタリカは憲法改正によって常備軍を廃止(1949年)し、浮いた財政資金を自然環境保全、教育、医療、社会保障の充実に充てており、日本としても学ぶべきことの多い非武装モデル国である。
(2)無駄な公共事業の中止または削減 ― 典型は八ッ場ダム
「無駄」という批判の強い公共事業の典型が八ッ場(やんば)ダム(利根川の支流で、群馬県吾妻郡長野原町川原湯地先)の建設である。総額1兆円に近い大型公共事業で、民主党政権誕生と共に「中止」が打ち出されたが、その後曖昧(あいまい)な姿をさらしている。ダムに限らず、高速道路も含めて無駄な公共事業の中止あるいは削減は緊急の課題である。
(3)国民生活の充実が急務 ― 消費税増税は「最大不幸社会」への道
財政のあり方として社会保障、教育、医療、雇用、農林漁業、中小企業対策など国民生活に直結した分野の充実に重点を置くこと。菅首相は施政方針演説で「平成の開国」の柱としてTPP(環太平洋パートナーシップ協定)への交渉参加の姿勢を明らかにしたが、特に農業への打撃を考えれば、「開国」は疑問である。
税制面では大企業や資産家などを優遇する不公正税制を廃止し、税負担能力に応じて累進課税を強化して、税の増収を図ること。特に大企業の法人税は引き下げが続いており、引き上げへの転換が急務である。
低所得者層ほど負担感の重い大衆課税である消費税(現在税率5%)の引き上げは見送ること。さらに食料品の無税などに踏み切り、やがて段階的廃止の方向に進むのが望ましい。ところが菅直人首相は施政方針演説(1月24日)で「社会保障改革に必要な財源確保」を理由に消費税増税の姿勢を明言した。これではうたい文句の「最小不幸社会の実現」に反して、「最大不幸社会」へと多くの国民を誘うことになるだろう。
(4)エネルギー・環境対策の推進 ― 原発の見送りと環境税の導入を
太陽光、風力など再生可能な自然エネルギー開発のための新規長期投資を促進させること。原子力発電の増設は見送り、漸次削減、廃止していく展望をもつこと。
地球温暖化防止など環境対策として環境税を導入すること。環境税導入によって地球環境に負荷を与える人や企業の税負担を高める工夫が必要である。将来、消費税引き下げとの見合いで、環境税引き上げを視野に置く。
以上の財政・税制の質的組み替えは、自民中心政権時代以来の新自由主義路線(=市場原理主義)からの決別、「新自由主義よ、さようなら」を意味する。
小泉政権時代(2001~06年)から特に顕著になった新自由主義路線は無慈悲な弱肉強食の競争を強要し、失業者、非正規労働者を増やしただけではない。貧富の格差、人間性軽視、自殺者、日常的な暴力をも拡大した。
民主党政権誕生(09年9月)以降もそれまでの新自由主義路線に比べてそれほど顕著な変化はうかがえない。むしろ日米安保体制(=日米同盟)は深化の方向へと舵を切りつつある。政権交替へ寄せた世論の期待は、肩すかしを食わせられた形で、民主党政権への支持率が急降下したのも当然といえる。
重要なことは質的変革の目標とそれを実現していく道筋をどう提案するかである。目指すものは「持続型経済」、「簡素な経済」であり、その究極の姿は「幸せな社会」でなければならない。財政・税制の根本的変革は、「幸せな社会」づくりへの大きな一歩となるだろう。
<参考資料>
・友寄英隆著『「新自由主義」とは何か』(新日本出版社、2006年)
・安原和雄著『足るを知る経済 ― 仏教思想で創る二十一世紀と日本』(毎日新聞社、2000年)
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(11年1月26日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study376:110126〕
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連載・やさしい仏教経済学(29)
安原和雄
ごみ列島ニッポンを大掃除するにはどうしたらいいのか。その答えとしてリサイクル(再生利用)を想い浮かべる人が多いにちがいないが、実はこのリサイクルはゴミなど廃棄物減らしへの貢献度では一番低い。追求すべき課題は廃棄物そのものの発生を少なくする循環型社会をどう構築していくかである。つまり大量生産 ― 大量消費 ― 大量廃棄の経済構造をいかに簡素化するかである。
資源・エネルギーの節約のためにも簡素化は重要であるが、ここでは日常の暮らしにとって魅力ある循環型社会とは何か、にまで視野を広げたい。そこにいのち尊重の循環型社会という新しいイメージが浮かび上がってくる。(2011年1月21日掲載)
▽ 日本列島を尾瀬にできないか ― 循環型社会がめざす簡素
さて循環型社会構築のためには何が必要なのか。まず問題を考えたい。
<問い>日本列島全体を尾瀬にできないか? これだけでは質問の真意がつかみにくいかも知れないが、たまにはこういう突飛な発想も有効ではないか。
<答え>尾瀬沼、尾瀬ヶ原を中心とする日本最大の高層湿原(群馬、福島、新潟三県にまたがる)として知られるあの尾瀬である。尾瀬の特徴はいくつかあるが、その一つが入山者はゴミをすべて持ち帰ることになっているため尾瀬にはゴミが無いに等しいことである。
問いの「日本列島全体を尾瀬にできないか」は、日本列島の隅々から生産・消費・廃棄がもたらすゴミを大掃除してきれいに片づけることができないかと問うている。「それ、無理」と急いで思考停止に陥るのは待ってもらいたい。
自然にはごみは存在しない。たとえば枯れ葉の場合、自然の土の上に落ちれば、やがて自然の循環の中に還(かえ)るのでごみにならない。ところが同じ枯れ葉が人工のコンクリート上に落ちれば、容易に自然に還らないのでごみとして扱われる。さらにコンクリートもやがて廃棄塊と化していく。要するに人間の活動が存続する限り、廃棄物、ごみは絶えず吐き出される。問題はその廃棄物を循環可能な範囲にどう抑えるかである。
わが国は2000年6月、循環型社会形成推進基本法を施行、これを機に環境保全と資源節約を目標とする循環型社会の構築に本格的に乗り出した。循環型社会とはどういう社会なのか。平成13年(2001年)版循環型社会白書は次のように解説している。
大量生産・大量消費・大量廃棄という社会経済活動や国民のライフスタイルが見直され、何よりもまず資源を効率的に利用してごみを出さないこと、出てしまったごみは資源として利用すること、どうしても利用できないごみは適正に処分することという考え方が社会経済の基本原則として定着し、持続的な発展を指向する社会である。
大量生産・大量消費・大量廃棄という社会からどのような社会に向かえばよいのか。たとえば、「最適生産、最適消費、最少廃棄」型の社会へ、という考え方が挙げられる。また天然資源の消費が抑制されることが、循環型社会の大きな条件である、と。
以上の説明でも分かるように循環型社会とは「持続可能な発展」の原理の応用であり、現世代にとどまらず子々孫々に至るまでの持続可能な社会のことである。そういう循環型社会の構築のためには以下の三つの条件が不可欠である。
第一は現在の大量生産ー大量消費ー大量廃棄という経済構造を生産・消費・廃棄の削減へと根本から変革しなければならない。つまり自然環境に本来備わっている再生・浄化・処理能力の範囲内に生産、消費、廃棄を抑えることが不可欠である。
第二はプラスの経済成長を追い求めることを放棄し、脱「成長経済」の方向で経済運営に努める必要がある。
第三に政府、企業はもちろん国民一人ひとりが以上の条件を自覚し、日常感覚として実践しなければならない。循環型社会の形成を唱えながら、同時にプラスの経済成長を追求するのは、ちょうどダイエットを目指しながら食欲のままに食べすぎるようなもので、自己矛盾というべきである。
以上を要約すれば、仏教経済学が提示する八つのキーワードの一つ、簡素の追求にほかならない。
日本列島全体を尾瀬にするにはこの簡素の実現が不可欠である。これは明治維新、そして敗戦に伴う戦後改革に次ぐ現代史上三つ目の歴史的大事業といっても過言ではない。明治維新から富国強兵時代が始まり、敗戦とともに破綻した。戦後の経済成長時代もすでに行き詰まり、今地球環境保全優先時代にわれわれは生きており、その最大のテーマが簡素を旗印に掲げる循環型社会の構築である。
▽ リサイクル中心方式をどう克服するか ― ドイツとの比較
<問い>環境用語に「6R」があるが、これは何を意味しているのか?
<答え>6RはReduce(リデュース=削減)、Reuse(リユース=再利用)、Repair(リペア=修理・修繕)、Rental(レンタル=有料借用)、Refuse(リフューズ=拒否)、Recycle(リサイクル=再生利用)の6つのRを意味している。
重要なことは、この6Rそれぞれの違いと優先順位を明瞭に認識することである。そうでなければ循環型社会の形成といっても、しょせん絵に描いた餅にすぎない。
*削減=一番重要なのは、ごみ、廃棄物の発生そのものの削減。これには資源投入量の削減が不可欠であり、製品の開発・設計の段階から資源節約や製品の長期使用を志向しなければならない。
*再利用=次は製品や部品の再利用、すなわち繰り返し利用すること。例えばビールの場合、アルミ缶入りよりも瓶入りを選んだ方がよい。瓶は洗浄によって何度も再利用できるし、そのコストも安い。一方アルミ缶は再生利用するほかないので、再生の過程で相当のエネルギーを必要とするからだ。
*修理・修繕=古いもの、部品が壊れたものも「もったいない」精神でできるだけ使い捨てを避けて、修理・修繕によって長期間使うよう心掛けること。
*有料借用=今後大きな流れになるとみられるのが自己所有にこだわらない有料借用。自分で購入し、所有する「モノ持ち」は時代遅れになりつつある。
*拒否=資源浪費型や環境にやさしくないタイプの商品の購入・使用を拒否すること。
*再生利用=一番望ましくないのが、このリサイクルで、処理にエネルギーの多消費を必要とする。
ドイツは「循環経済・廃棄物法」(1996年10月施行)をテコに「持続可能な発展」の思想に立って、先進国の中でいち早く循環型社会の構築に取り組んでいる。その特色は次の三点である。大事なのはリデュース(削減)を最重要視していることである。
*廃棄物の発生を少なくすることについてメーカーの責任を明確にしていること。
*三段階に分けて廃棄物の発生に対応すること。まず廃棄物の少ない製品の開発・設計や製造を促進する。次に廃棄物になったものはリサイクルする。最後にどうしてもリサイクルできない廃棄物は環境にやさしい方法で処分すること。
*ドイツ連邦政府が必要な権限を持っていること。
以上のドイツ方式に比べると、日本の場合、6Rの最後のリサイクル中心方式である。冷蔵庫、洗濯機、テレビ、エアコンの4種類の家電製品をリサイクルの対象とする家電リサイクル法(2001年4月施行)はその典型例の一つである。リサイクル中心方式では廃棄物の発生を抑えるのではなく、大量生産ー大量消費の構造を温存したまま、吐き出される大量の廃棄物のリサイクルに重点を置くことになる。これに経済成長主義が加わると、リサイクルをテコにして大量生産ー大量消費の拡大再生産という悪循環に陥る可能性も大きい。これではリサイクルは簡素とは無縁といえる。
▽ 魅力ある循環型社会の必要条件は ― いのちの尊重
視点を変えて、循環型社会は果たして魅力あふれる社会だろうかと問うてみたい。毎日のようにリサイクルに精を出し、「人生とはリサイクルなり」というイメージさえ浮かんでくる。ごみ捨てに日夜精励する人生が幸せだろうかと問い直してみるのもよい。
循環型社会の目指すものが簡素で、それをテコに地球温暖化など地球環境問題の打開への糸口が見出され、大気や水がきれいになり、ごみが街から姿を消せば、それはそれで歓迎すべきことである。生活の質の向上、充実のためには簡素の追求が重要であることもちろんだが、それで十分なのか、を問い直してみることがここでのテーマである。
魅力ある循環型社会には簡素に加えて、いのちの尊重が不可欠だと考える。いのちの尊重とは何を意味しているのか。地球環境問題、すなわち地球環境の汚染・破壊は、近代工業文明の経済構造、すなわち大量生産ー大量流通ー大量消費ー資源・エネルギーの浪費ー大量廃棄の構造が必然的にもたらしたものである。注目すべきは、地球環境の汚染・破壊が地球上の「生きとし生けるもの」の生存基盤の汚染・破壊を進行させていることである。
ここでの生きとし生けるものとは、仏教思想でいうところの「いのちあるもの」すべてを指している。人類に限らない。動植物もすべて含まれる。仏教の「草木国土悉皆成仏」(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)の思想は、草木国土すべて、つまり山にも川にも草花にも、いのちが息づいており、人間と自然との共生がいかに価値あるものであるかをうたい上げている。これは仏教の「不殺生」、つまり人間だけではなく、動植物に対しても無益な殺生を厳に戒める思想につながっている。
以上のように自然環境にいのちが宿っていることを自覚することから「いただきます」、「もったいない」という感性が身につく。日本人が食事のとき、「いただきます」と祈るのは、食物の素材となる動植物の「いのちをいただきます」といういのちを慈しみ、感謝するこころの表現である。「もったいない」はいのちあるすべてのものを粗末に扱ってはならない、愛情を込めて接するという感覚、ライフスタイルにつながっている。
このことが資源・エネルギー浪費型から節約型への転換を促すことになる。こうして多様ないのちを尊重してこそ環境保全も可能となるだろう。いいかえれば、いのちが尊重されるからこそ生活の質の向上も期待できる。
いのちの尊重は、人間も含めて生き物のいのちを大切にすることだけを含意しているのではない。いのちを大切に思う心が共生、連帯、思いやり、やさしさなど仏教思想の慈悲の心につながっているところを重視したい。ここまで視野を広げて実践が伴えば、循環型社会は魅力度の高い社会だといえるのではないか。
<参考資料>
・安原和雄「ゼロ成長経済の構図 ― 循環・共生型社会をめざして」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第18号、平成十一年)
・安原和雄「知足の経済学・再論 ― 釈尊と老子と<足るを知る>思想(上)」(『東洋文化』 第20号、平成十三年)
・安原和雄「同(下)」(同 第21号、平成十四年)
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(11年1月21日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study372:110121〕