連載・やさしい仏教経済学-(34)健康な人をめざす高齢社会の設計/(33)地産地消型自然エネルギーへ転換を

著者: 安原和雄 やすはらかずお : ジャーナリスト・元毎日新聞記者
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連載・やさしい仏教経済学(34)

  健康とは何だろうか。一口には答えを出しにくい難問である。この世に生を享(う)けたからには健やかな人生を全うしたいと誰しも願うにちがいない。しかし思いのままにはならないのが現世の切なさ、もどかしさでもある。

 健康観も時代の推移とともに変化をつづけてきた。21世紀版健康とは何かと自問してみれば、ただの長寿では十分な答えにはならない。価値ある生き方、とでも言えるだろうか。その生き方も多様で、「知足とシンプルライフ」の実践もあれば、「変革を志すのが健康な人」というイメージも浮かび上がってくる。世界最長寿(女性)を長年維持しながら、決して健康とはいえない日本の社会状況下で健康な人をめざす高齢社会の設計について考える。

▽ 日本人女性の平均寿命 ― 25年連続で世界1位

 以下の<問題>の数字は何を意味しているのか。頭の体操のつもりで取り組んでみたい。正解が分からないからといって落胆するほどのことではない。いずれも最近の新聞記事から選んだもので、高齢や健康に関するデータである。正解は<答えのヒント>にある。

<問題>

(イ)79.59歳 、86.44歳

(ロ)2944万人、23.1%、826万人

(ハ)4万4449人、208万人、10人に1人

<答えのヒント>

(イ)日本人の平均寿命(2009年。この年生まれのゼロ歳の子どもが何年生きられるかを予測した数値)は男性79.59歳、女性86.44歳でともに過去最高となった。女性は25年連続で世界1位の座を守り続けている。男性は前年の4位から5位となった。

 参考までにいえば、平均寿命に対し、「健康寿命」にも注目したい。国連世界保健機関(WHO)によると、日本人の平均健康寿命も世界一とされる。健康寿命とは、食事、入浴など日常生活を自力で行う能力があり、認知症でもなく、健康状態で暮らしている期間を指している。平均寿命に比べ、健康寿命の方が短いが、両者の差が小さいほど望ましい。そのためには生活習慣病や寝たきりなどをどう防止するかが課題となる。

(ロ)日本の65歳以上の高齢者人口(2010年9月「敬老の日」を前に総務省が推計)は2944万人、総人口に占める割合は23.1%で人口、割合とも過去最多となった。80歳以上の人口は826万人(男性282万人、女性545万人)で初めて800万人を越えた。高齢者世帯は960万9千世帯(全世帯の20%)、高齢者虐待は1万5千件超にもなる。

(ハ)日本の100歳以上の人口は、統計を取り始めた1963年の153人から2010年には290倍の4万4449人になった。一方、認知症のお年寄りは現在は推定208万人で、2030年には353万人に増え、65歳以上の10人に1人が認知症になる可能性がある。

▽ 「高齢社会・日本」の実像は ― 「病人大国・ニッポン」

  長い人生の旅路では予想外の事態はやはり避けられないのだろうか。わたし自身の闘病歴をここで告白しておきたい。

 小中学生時代、病弱であった。半世紀以上も昔のことである。冬になると、小中学生には珍しいといわれる関節リュウマチに何度もかかって、身動きが不自由で、寝たきり同然となった。その都度一か月以上も学校を休み、自宅療養した。

 高校へ進学した春、病弱の体質をどうするかが課題となった。父親の一言が私の耳に今なお残っている。「冷水摩擦で鍛えたらどうか」と。「なるほど」と受け止めた私はその日から直ちに実行した。

 毎朝、上半身を裸にして、タオルを水で濡らし、しぼっての冷水摩擦である。昔の田舎の農家で、今日のような上水道はまだなく、井戸は戸外にあった。冬の雪の降る日でも、その雪を全身に浴びながら、欠かさなかった。屋内での乾布摩擦でもよかったかも知れないが、そういう発想はなかった。冷水摩擦にこだわった。お陰で高校3年間、風邪も引かず、病気で欠席することはなかった。

 それ以来関節リュウマチも再発することなく、わが体質の構造改革ができたと実感した。いまなお冷水摩擦は、毎朝の洗顔と同じ感覚で続けており、寝込むような大病にも罹(かか)らずに済んできた。

 ところが最近、ある日突然、足にしびれを感じ、歩行に支障をきたすようになった。冷水摩擦のお陰で病(やまい)には無縁になったという思いは、身勝手な自己診断でしかなかったのか。後期高齢者(75歳以上)の身となって、後ろから追いかけてきた病魔に鷲づかみに捕まったという印象である。専門医によると、病名は「腰部XXX狭窄症」で、これで苦しんでいる人は意外に多いようで、気長に付き合うほかないらしい。

 不思議なもので、この病のお陰で、これまで見えなかったものが観(み)えてきた。高齢者に限らず、杖をつきながら歩いている人、足を労(いたわ)るようにゆっくり歩を進める姿がいかに多いことか。「高齢社会・日本」の実像は「病人大国・ニッポン」であることを思い知らされた。こうしてわたし自身、後期高齢者の一人として、持論の健康・病気観を変えるほかない。病とともに生きる、と。しかも病との二人三脚で生き甲斐をどう発見していくのか、と。

▽ 低負担型高齢社会の設計(1) ― 新しい健康観を身につけよう

 わが国の高齢社会の行方に関する有力なシナリオは、高齢者がもっと増えて、本格的な高齢社会が定着するコースで、高負担型にならざるをえないと多くの人は受け止めている。本当にそうだろうか。思い込みではないのか。そういう呪縛から脱出をめざすときである。高齢社会を高負担型から低負担型へと転換させるためには、その大前提として新しい健康観の創造が不可欠である。これが仏教経済学に立つ発想である。

 健康の定義は、国連世界保健機関によると、「単に病気が存在しないだけではなくて、身体的、精神的、社会的に十分良好な状態」とされている。この健康の定義を活用して、21世紀にふさわしい新しい健康観を創造していく必要がある。以下、それを考えてみたい。

 

(イ)身体的な健康 ― 現代版『養生訓』

 まず個人レベルでの身体的な健康づくりの心得として次の<健康十訓>はどうか。

* 少肉多菜=肉を少なく野菜を多く

* 少塩多酢=塩類を少なく酢を多く

* 少糖多果=砂糖を少なく果物を多く

* 少食多歯=少なく食べてよく噛む

* 少衣多浴=なるべく薄着でよく風呂に入る

* 少言多行=おしゃべりを慎んで多くを実行する

* 少欲多施=欲望をひかえ施しを多く

* 少憂多眠=くよくよせずよく眠る

* 少車多歩=車に乗らずよく歩く

* 少憤多笑=あまり怒らずよく笑う

  これは江戸時代では珍しく85歳の長寿を全(まっと)うした貝原益軒(1630~1714、江戸前期の儒者)の『養生訓』(講談社学術文庫)現代版といっていい。『養生訓』は次のように述べている。「世間の人々をみれば、50歳未満の短命の人が多い。なぜこのように短いのだろうか。みな養生の術がないからである。短命の人は生まれつきそうであるのではない。10人のうち9人までは、みずからの不養生で身体を害している」と。

(ロ)精神的な健康 ― 80歳の人にも青春を

 精神的に良好な状態を保ち、さわやかに生きていく上で、肝心なことは前向きに生きる意欲を持つことである。アメリカの詩人サムエル・ウルマン(1840~1924)の『青春』と題した詩の一節を紹介したい。(宇野収ほか著『青春という名の詩』産業能率大学出版部)

 青春とは、人生のある期間ではなく、心の持ち方のことである。

 たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱、安易を振り捨てる冒険心を意味する。

 ときには20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。

 年を重ねただけでは人は老いない。

 理想を失うとき初めて老いる。

 たしかに精神的に健康であるかどうかは年齢には左右されない。ただこの詩は一世紀も昔の作品なので、「60歳の人に青春」を今の時代にふさわしく「80歳の人に青春」と書き直したい。

 ただし精神的な健康を持続させるには次の二つの条件が必要である。一つは個人の「自由時間活用能力」、もう一つは社会に「共生・連帯の精神」が健在であること。しかし残念ながら市場原理主義(=新自由主義)に立つ悪しき小泉改革の後遺症として、自由時間活用能力も共生・連帯の精神も衰退している。この負の遺産を今後克服していくことが必須条件である。

(ハ)社会的な健康 ― 変革を志すことこそが健康

  上述の身体的健康、精神的健康の大切さは容易に納得できるが、社会的健康という視点は今後の課題である。具体例として、以下のような社会的広がりをもつイメージを挙げることができる。特に世界規模での変革の時代、21世紀にふさわしい社会的健康として「知足とシンプルライフ」の実践、「変革を志すことこそが健康」などの新しい健康観に着目したい。

* 個人の健康と自然環境の健全性の両立

* 知足(「もう十分」と足るを知ること)とシンプルライフ(簡素な暮らし)の実践

* ゆとり(日本国憲法25条の生存権を保障するだけの所得のほか、時間、空間、精神などのゆとり)のある社会

* 大量生産ー大量流通ー大量消費ー大量廃棄という現在の経済構造に組み込まれた食べ物の危険な社会システム(農薬、食品添加物、遺伝子組み換え作物、遠方からの大量輸送など)の変革

* 社会変革を志すことこそが健康な人間(日野秀逸著『憲法がめざす幸せの条件』新日本出版社)

▽ 低負担型高齢社会の設計(2) ― 健康な人を育てる健康奨励策

  日本は今後とも長寿国として名誉ある地位を持続できるだろうか。病人を減らし、健康な人を育てるには従来の薬・検査漬けの治療型医療から食事・暮らしのあり方の改善を含む予防型医療への転換が急務である。

 そこで以下の健康奨励策(素案)を提案したい。

・一年間に一度も医者にかからなかった者は、健康奨励賞として健康保険料の一部返還請求の権利を行使できる制度を新設する。「健康に努力した者が報われる社会」づくりの多様な政策のひとつの柱として位置づける。

・「いのちと食と健康」の密接な相互関連について小学校から教育する。この健康教育は、いのちの尊重はもちろん、食品に添加物を使わないこと、国産の季節ごとの「旬産旬消」の味を大切にすること ― など安心・安全な食のあり方を含む「健康のすすめ学」としたい。教育担当者として定年退職者、大病体験者、ボランティアなどを積極的に活用する。

 以上のような健康奨励策に取り組めば、病人、医療費の削減も可能である。そうなれば高齢社会対策としての消費税引き上げは根拠を失うだろう。

 高齢社会になれば、病人が増えて高負担型にならざるをえないという思い込みは、高血圧、糖尿病など生活習慣病(=現代文明病)が蔓延している現状をそのまま無批判に肯定し、容認する悪しき現実主義にほかならない。つまり病気になったら病院に駆け込めばいいという「病人歓迎村」の囚人の発想とでもいえようか。これに対し仏教経済学の立場は「あらゆる常識、固定観念を疑え。想像力さらに創造力を働かせ」が一つのテーゼとなっている。発想を転換すれば変革のきっかけをつかむ余地はいくらでもある。(終)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
〔study387:110301〕

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連載・やさしい仏教経済学(33)

持続的発展を軸とする循環型社会づくりの決め手となるのが、エネルギーのグリーン化、すなわち現在の石油・石炭・天然ガス・原子力発電依存型から自然エネルギー活用型への転換である。石油・石炭・天然ガスは環境汚染・破壊型で、再生不能の枯渇性エネルギーである。すでに多くの犠牲者を出し、しかも事故が続発して安全性に疑念がつのっている原子力発電に必要なウランも再生不能の枯渇性資源である。
 これら再生不能エネルギーを抑えて、低環境負荷型の再生可能、つまり無限の利用を期待できる自然エネルギー(太陽光、風力、バイオマス、水力、地熱、潮汐力、波力など)へと重点を移していく必要がある。これは地域が主役となる「地産地消型」自然エネルギーへの転換を意味する。その現状と将来図を考える。(2011年2月17日掲載)

▽ 小さな地域の大きな挑戦 ― 自然エネルギー自給へ

 毎日新聞(2011年2月8日付)によると、映像作家の鎌仲ひとみさん(注)が「反原発の小さな島の挑戦」という見出しで自然エネルギーに取り組む離島としての祝島の実情を描いている。さらに同紙(同年1月31日付)は足立旬子記者が祝島をはじめ、エネルギー自給を試みる国内外の現状を報告している。「小さな地域の大きな挑戦」と評価できよう。以下、そのいくつかを紹介する。
(注)鎌仲ひとみさんは1958年生まれ。08年から2年かけて祝島とスウェーデンを舞台に「ミツバチの羽音と地球の回転」という映画を製作した。このほか「ヒバクシャ 世界の終わりに」「六ケ所村ラプソディー」などの自主製作映画の監督を務めた。

*反原発と自然エネルギー100%で自立宣言
 瀬戸内海に浮かぶ山口県上関(かみのせき)町の祝島(いわいしま)が11年1月、日本の離島では初めて、自然エネルギー100%で自立すると宣言した。この島の3.5㌔対岸に中国電力の上関原子力発電建設計画があり、島民は10億8000万円の漁業補償金の受け取りを拒否し、これまで30年間も計画に反対してきた。
 島民約500人の多くは無農薬のびわを育て、ひじきを採り、半農半漁で自給自足的な生活を営んでいる。原発建設予定地・田ノ浦は環境破壊が進んだ瀬戸内海にあって「奇跡の海」と呼ばれ、希少生物がひしめく生物多様性の宝庫とされる。破壊すれば取り返しがつかないと、日本生態学会など四つの学会が環境アセスメントの見直しを求めている。海域には日本で約5000羽しかいないという絶滅危惧種「カンムリウミスズメ」、同じ絶滅危惧種で体長2㍍近い白いイルカ「スナメリ」などが棲(す)んでおり、その絶妙な生態系を破壊しないタイの一本釣り漁法を祝島の漁師たちは誇りにしている。

 今回スタートさせた「祝島自然エネルギー100%プロジェクト」の概要は次の通り。
・住宅100戸にそれぞれ3~4㌔㍗の太陽電池を設置する。
・し尿を生かすバイオマス(生物資源)発電、小型の風力発電、太陽熱温水器を順次導入する。
・10年間ですべての島民が暮らすのに必要な約1000㌔㍗の自給を目指す。
・必要資金は趣旨に賛同する企業やアーティストらから売上の1%を寄付してもらう。
 このプロジェクトによって島に若者の働く場を作り出し、豊かな自然を生かしたエコツーリズムや海産物などで経済的自立を目指し、島を持続可能な地域にしていくことが期待されている。
 祝島の新しい挑戦には成功した先例がある。デンマークのサムソン島がそれで、1998年から10年間で100%自然エネルギーの自給を目指した。陸上と洋上の風力発電、太陽光発電などですでに電力自給100%を達成しており、世界の先駆けともなった。

 祝島のほかに自然エネルギーの自給にすでに取り組んでいる地域を紹介すると― 。
*岩手県葛巻町=10年前から風力発電や、牛ふんなどを利用したバイオガス発電を進め、町内の約7割のエネルギーを賄っている。
*徳島県上勝町=人口1940人のうち、65歳以上の高齢者が約半数を占める。山の手入れが不十分で、建材に向かないスギなどが広がる。これを活用したバイオマス発電、急峻な川の流れを利用する家庭用の小規模発電、太陽光などを組み合わせる。自然エネルギー普及に伴う雇用確保も目指す。
*滋賀県東近江市=太陽光発電設置の世帯は約4%で、全国平均の1.1%を上回る。この太陽光による発電電力に見合う金額を市内商店で使える地域商品券として市が交付し、商店街にも自然エネルギー活用の恩恵が回るような新しい試みに乗り出している。これは「売り手よし 買い手よし 世間よし」を「三方よし」という近江商人の「商売道」の発想に根ざしている。

<安原の感想> ― 地産地消型エネルギーは「三方よし」の実践

 上に紹介した離島や地域の自然エネルギー自給の試みは、地産地消型、すなわちその地域で産出され、その土地で消費されるエネルギーへの転換を意味する。これは現在主役を担っている巨大電力会社による送電ロスの多い広域電力供給方式と違って、小型の地域分散型、地域密着型そのものといえる。地域貢献型でもある。
 関心を引くのは、東近江市に伝わる江戸時代・近江商人の「三方よし」であり、その今日的実践がほかならぬ地産地消型エネルギーとはいえないか。「三方よし」の経営理念は、末永國紀同志社大学経済学部教授によれば、現代の今、次のように読み解く。

 商品に自信をもって、すべての人々に気持ちよく使ってもらうように心掛け、人々の役に立つことを願う。損得はその結果次第と思い定めて、自分の利益だけを考えて一挙に高利を望むようなことはせず、何よりも人々の立場を尊重することを第一に心がける。欲心を抑え、心身ともに健康に恵まれるためには神仏への信心を厚くしておくことが大切である、と。
 地産地消型エネルギーは仏教経済学のキーワードでいえば、知足、簡素、共生、利他、持続性などの実践にもつながる。

▽ 自然エネルギー活用が世界の新潮流 ― 非暴力の世界へ

 自然エネルギー(=再生可能エネルギー)の利用促進をめざす国際自然エネルギー機関(IRENA=International Renewable Energy Agency、09年1月設立)には欧州各国、多くの発展途上国のほか、インド、韓国、フィリピンなど75カ国が参加しているが、日本をはじめ米国、ロシア、中国などは参加していない。

 この自然エネルギーを普及させるには、その電力供給を安定・拡大させるための新しいシステム(固定価格買取制など)が必要不可欠である。環境先進国、ドイツはいち早くこのシステムを導入し、自然エネルギーの普及に力を入れている。このような自然エネルギーの活用が世界の新潮流である。ところが日本は太陽光発電では世界的に優れた技術水準を誇っているにもかかわらず、折角の技術が活用されていない。その背景には石油や原発など再生不能の枯渇性エネルギーへの依存にこだわっているという事情がある。

 米国はオバマ大統領の登場と共に「グリーン・ニューディール」、つまり石油重視から自然エネルギー重視への転換、環境保全、雇用の増大 ― を三本柱とする新政策を打ち出した。このままでは日本は世界の新潮流に乗り損ねる懸念が強い。一次エネルギー総供給に占める自然エネルギー、つまり国産エネルギーの割合(2007年)をみると、日本は3~4%で最低レベルにとどまっている。

 WWF(地球環境保全団体)は2011年2月3日「エネルギー・レポート」を発表し、「2050年までに100%再生可能エネルギーの社会は実現可能」としてそのシナリオを示している。その骨子を以下に紹介する。
・エネルギー需要は、省エネルギー策の徹底によって2050年には2005年よりも15%削減が可能であること
・現在ある技術をべースに、その需要の95%を再生可能エネルギーで供給することが可能であること
・化石燃料、原子力、旧来型バイオマス(薪炭材など)は、太陽光、風力、地熱、バイオマスなど多様な再生可能エネルギー源を組み合わせることによって、ほぼ完全に代替できること
・これにより世界のエネルギー由来のCO2排出量は、2050年に80%以上削減されること
 なおこのシナリオは、以下の条件を想定している。
・国連の人口増加の予測(2050年90億人超)に基づき、現在電気のない生活をしている14億人を含む地球の全人口に電気を供給できること
・初期の新規設備投資は必要だが、長期的には燃料費の低下で運用費も低減され、2040年以降は正味でコストの節約となる。

 米国のイラク攻撃・占領の狙いの一つが中東などの石油確保にあったように、石油など再生不能エネルギーへの過度な依存は暴力(=戦争)を伴いやすい。しかし再生可能な自然エネルギー活用型への転換は、エネルギー利用の持続性確保にとどまらず非暴力(=平和)、いのち尊重の実現にも貢献する。
 WWFの描く「100%再生可能エネルギーの社会」へのシナリオが実現して、石油や原子力発電などいのち軽視と暴力に走りやすいエネルギーと縁を切ることのできる日の遠くないことを待望したい。

▽ 在日米軍基地跡地に太陽光発電所を ― ローカリズムの復権へ

 農文協編『TPP反対の大義』(農山漁村文化協会)に「ピーク・オイルに備える文明の転換」を説く次のような主張がある。

 日本経済のアキレス腱はエネルギーと食料の大半を輸入に頼っていること。今の世界情勢ではこれらを今後も支障なく輸入できる保証はどこにもない。

 国際エネルギー機関(IEA)は2010年11月、「世界の原油生産は2006年にピーク(増産の限界点)を超えたとみられる」と発表した。もう経済成長はありえない。今後は原油生産の逓減で、工業経済はガス欠状態に陥り、徐々に収縮していくだろう。貿易を支える海運も燃料の高騰で、採算がきつくなる。ピーク・オイルの厳然たる事実は、今世紀はエネルギーと食料の危機の世紀であること、そして人類の未来は長期的には農業中心の地域共同体にあることを示している、と。

 長期的視野で将来を展望すれば、反原発と石油枯渇を背景に自然エネルギーを基盤とせざるを得ない地域共同体は恐らく農業重視型になるほかないだろう。ただその地域共同体には農業と並んで、地元の人材や資源などの地域力を生かす多数の中小企業(=わが国総企業数の99%、雇用者の70%、工業出荷額の50%を担っている)が健在でなければならない。これは地域の人々の暮らしを第一に重視するローカリズムの復権であり、一方、利益第一を掲げて新自由主義的な世界規模での貧困、失業、格差、地域軽視・破壊をもたらすアメリカ流グローバリズムへの批判を広げずにはおかない。

 言い換えれば、地域の疲弊などをもたらす新自由主義的路線を転換しない限り、多様な地域力を生かす経済の発展は期待できない。地域発展のためには地域に密着した地産地消型自然エネルギーの活用がどこまで普及するかが重要な尺度になるだろう。

 具体策として例えば在日米軍基地(その総面積は1000平方㌔㍍)が近未来に返還され、その跡地にすべて太陽光発電所を建設すると、どれだけの電力を産み出せるだろうか。試算によれば、年間1000億㌔㍗時の電力が得られる。日本の全発電電力量9000億㌔㍗時の9分の1にのぼるという計算である。また沖縄の米軍基地を撤去して、太陽光発電所に置き換えると、現在沖縄電力が供給している電力量の約3倍の発電電力量が得られる。(吉井著『原発抜き・地域再生の温暖化対策へ』から)
 もっともこの構想を実現させるには米軍基地を容認している現行の対米従属的な日米安保条約を解消し、米軍基地を置かない対等の日米平和友好条約に切り替えることが必須条件となる。日本におけるローカリズムの復権は、アメリカ流グローバリズムの軍事的尖兵、在日米軍基地の完全撤去とともにたしかなものとなるだろう。

<参考資料>
・牛山 泉「原発のない社会は可能か」(循環型社会研究会通信NO.30、2011年1月号)
・吉井英勝著『原発抜き・地域再生の温暖化対策へ』(新日本出版社、2010年)

初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(11年2月17日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
〔study383:110217〕