連載・やさしい仏教経済学(36)
労働の望ましいあり方としてディーセントワーク(Decent Work)が話題になっている。日本語訳では「働きがいのある人間らしい仕事」を意味している。これは国連国際労働機関(ILO)が1999年世界のすべての労働者にその実現を呼びかけたもので、それ以来大きな関心が広がっている。
「働く者が主役」という視点を重視する仏教経済学としては、このディーセントワークを支持したい。グローバル化を旗印に掲げて、働く者を軽視し、利益追求に執着する市場原理主義(=新自由主義)は、ディーセントワークそのものに反する。今こそ「働く者が主役」の地位を取り戻して、「働きがいのある人間らしい仕事」の実現をめざすときである。(2011年3月19日掲載)
ひところワークシェアリング(Work Sharing=仕事の分かち合い)をめぐる議論が盛んだったが、今では下火になっている。しかし望ましい労働のあり方としてワークシェアリング、すなわち就業機会の確保、労働時間短縮と自由時間増大、自由な働き方の選択 ― の3本柱も不可欠といえる。ワークシェアリングの試みも、利益追求第一の企業ではなく、働く者が主役として活躍できる企業づくりへの挑戦である。ディーセントワークはワークシェアリングとどう結びつくのか。
▽ 週休3日を実践する在日米国人会社経営者
朝日新聞に2010年10、11月に掲載された<「休み」は気から>と題するインタビュー記事から一つを紹介(大要)したい。登場するのは、日本でのビジネス向けコンピューターソフト販売会社の経営者、米国生まれのビル・トッテンさん(69歳)。見出しは、<縮む経済、「晴耕雨読」奨励>で、働き方、休日の過ごし方について自分自身と日本人との間に大きな差異があることを以下のように率直に語っている。彼の生き方,仕事への取り組み方は経営者版ディーセントワークともいえる。
以前はテニスが大好きで、庭もテニスコートだった。でも5年前に菜園にした。どうしてかって?自給自足に近い生活が出来るようにするためだ。
低成長の日本経済は今後、縮小していく。エネルギー、環境、金融問題を抱えているグローバル経済が崩れれば、資源の多くを輸入に頼り、多額の負債を抱える日本への影響は大きい。今は約500兆円ある国内総生産(GDP)が半分くらいになるかもしれない。
そうなると、会社の売上げも減る。雇用を維持しながら生き残るには社員の給料を減らさなければならない。その分、労働日数も少なくする。休日を使った家庭菜園は食費の節約にもなる。そうした縮小時代への備えを、私が率先して行動で示している。
半分のGDPって1980年ごろのレベルだ。でも当時の暮らしはそれほど悪かっただろうか。米国生まれの私が会社を設立した72年当時と比べ、いまや週休2日が定着し、働きすぎと言われた日本人の休日は多くなった。それなのにその過ごし方は安っぽくみえる。ゴルフばっかりしたり、ブランド品を買い集めたり、コンピューターゲームに夢中になったり、売り手の広告宣伝に踊らされ、使う必要がないお金を使っている。多くの人が「買い物中毒」になって生み出されている今の経済の半分くらいは、要(い)らない経済だ。
かつての日本は、質素な生活に価値を置いていた。私の理想は「晴耕雨読」で、晴れれば菜園の手入れや、1日10㌔のウオーキングで太陽の光を浴びる。雨が降れば読書。最近はインターネットで読むことも増えた。休日は自分と家族のことを考えて有意義に使う。
私の会社では家庭菜園用の農地を借りる社員に年間2万円を補助している。節約につながる服のリサイクルのために洋裁教室も始めた。でも社員800人全体でみれば、意識改革はまだまだだ。2年前から「週休3日」あるいは「週1回在宅勤務」も導入しているが、利用者はまだ1割もいない。
休暇の取り方は自分たちでもっと柔軟にやれるはずだが、上司の目が怖かったり、同僚のことが気になったりするのだろう。私は教育ママではないので、強制はしない。
<安原の感想> 経済成長時代はもはや過去の物語
2点を指摘したい。まず「今の日本経済の半分くらいは、要(い)らない経済だ」という指摘である。相も変わらず経済成長主義という名の「経済拡大」妄想を振り払うことのできない多くの日本人に自己反省を促すような指摘である。経済成長時代はもはや遠い過去の物語でしかない。
次は「日本人の休日の過ごし方」に関する発言である。「売り手の広告宣伝に踊らされ、使う必要がないお金を使っている」、「買い物中毒」という認識は、「質素な生活」重視へと時代は変化しているのに、それに気づこうとしない一部の日本人への「善意の皮肉」とは言えないか。
▽ 日本人の働き方、休日の取り方の現実
以下で日本人の働き方、休日の取り方の現状について素描する。
*先進国の中で目立つ日本の自殺者
2010年版自殺対策白書(2010年6月閣議決定)によると、日本の自殺者(2009年)は、3万2845人。12年連続して3万人を超えており、他の先進国では例のない現状である。自殺死亡率(人口10万人当たりの自殺死亡者数)の国際比較をみると、ロシア30.1、日本24.4、フランス17.0、ドイツ11.9、アメリカ11.0、イギリス6.4、イタリア6.3で、日本が主要先進国のなかで、特に高い。
日本人の自殺原因で上位三つに挙げられるのが「健康」、「経済・生活」、「勤務」で、これには「失業」、「生活苦」、「仕事による過労」などが大きな比率を占めている。
*世界に知られる過労死は今では職業病に認定
長時間に及ぶ働きすぎの結果、突然死する過労死は、世界語としても知られる。過労死では2009年度237件(前年度304件)の労災申請に対し、106件(前年度158件)が労災と認定された。職種別では道路貨物運送業に特に多い。さらに派遣労働者や中国人技能実習生にも過労死の実例がある。過労死は労災の認定基準で公式に認められ、職業病リストに加えられている。
*急増するメンタルヘルス不全者
厚労省・2008年患者調査(2009年12月発表)によると、「うつ病」、「躁うつ病」、「気分変調症」などのメンタルヘルス不全の総患者数は、1999年の44万1000人から2008年には104万1000人と9年間で2.4倍に増えた。労働者のメンタル疾患は、職場が重要な発生源となっている。
厚労省調査によると、「仕事や職業生活に関する強い不安、悩み、ストレス」があると答えた労働者の割合は、58.0%に達している。具体的なストレスの内容(三つ以内の複数回答)は、「職場の人間関係」(38.4%)、「仕事の質」(34.8%)、「仕事の量」(30.6%)が挙げられている。一方、「過去一年間にメンタルヘルス上の理由で連続一か月以上休業または退職した労働者がいる事業場」の割合は7.6%である。
*半分も消化しない有給休暇
厚労省の就労条件総合調査(2010年10月発表=従業員30人以上の企業6143社を対象に調査し、4406社が回答)によると、2009年の年次有給休暇取得率は47.1%(前年比微減)で、10年連続で50%を下回った。企業が認める有給休暇の年間平均日数は17.9日だったが、労働者による実際の取得は8.5日にとどまった。
企業規模別の取得率は従業員1千人以上で53.5%、一方、30~99人は41.0%にとどまっており、中小企業では休暇を取りにくい環境にある。欧州各国では有給休暇日数が年間25~30日と多く、しかも取得率はほぼ100%となっている。
<安原の感想> 人間性を蝕む長時間労働
日本の労働条件の劣悪さは先進国の中では突出しており、長時間労働を背景に人間性が蝕(むしば)まれている実態が浮き彫りになっている。日本の自殺死亡率の高さが先進国の中で際立っているだけではない。世界に広く知られる過労死は今なお跡を絶たない。
いかに働きすぎであるかは、有給休暇の遠慮がちな取り方をみれば歴然としている。経営トップの中には「働き過ぎ」ではなく、「働き好き」なのだ、という指摘もあるが、働きすぎを克服しない限り、ディーセントワークもワークシェアリングも「絵に描いた餅」であり、「高嶺の花」にすぎない。
▽ ディーセントワークとワークシェアリングと
国連国際労働機関(ILO)は、世界のすべての労働者に呼びかけたディーセントワーク(Decent Work=「働きがいのある人間らしい仕事」)について、その最優先目標として「すべての男性と女性が自由、公正、保障さらに人間の尊厳が満たされたディーセントで生産的な仕事が得られるよう促進すること」を宣言した。この宣言を生かすための目標として日本では①安定的雇用、②公正で適正な処遇、③人間らしい働き方 ― が挙げられる。
これはあくまで実現すべき目標であり、日本における現実の労働条件は、上述のようにこの目標に比べ大幅に劣化している。以下、ディーセントワークの大まかな内容を紹介する。
*安定的雇用について
「雇用の安定」とは、解雇や雇い止めの恐れがないこと。逆にその恐れがあると、労働者は安心して自分の権利(年次有給休暇の権利など)を行使できないし、義務でもない業務命令(不払い残業命令など)も拒否できない。失業の恐怖があると、人権侵害にも目をつぶり、甘受せざるを得なくなる。
*公正で適正な処遇について
賃金が労働者本人およびその家族が最低生活を営むのに十分であり、安定していること。このことは賃金の主要部分が能力主義や成果主義にもとづいて決められる場合でも同じである。労働基準法1条は労働条件について「人たるに値する生活を営むための必要を充たす」べきものと定めている。
*人間らしい働き方について
人間である労働者を商品=モノとして扱うことは不当であること。労働者は生活する生身の人間であり、決して使い捨てにされても構わないというものではない。労働にはそれ自体として、仕事の面白さ、その社会的有用性の意識、社会的関係の形成などの意義がある。だからこそ憲法27条「勤労の権利」は、労働を単なる生活の手段としてではなく、それ自体に価値があるものとして、その権利を保障している。
以上のようなディーセントワークはワークシェアリングとどうつながっていくのか。理念、目標としてのディーセントワークを実現していくための労働のあり方、休日の取り方がワークシェアリングだと理解したい。
ワークシェアリングの3本柱(=就業機会の確保、労働時間短縮と自由時間増大、自由な働き方の選択)のうち最重要な課題は労働時間の大幅短縮である。労働時間の短縮は自由時間増をもたらすだけでなく、就業機会の確保、すなわち雇用増を可能にする。
一方、自由な働き方の選択とは何を意味するのか。例えばフルタイムの常勤労働ではなく、半日労働などパートタイムを自由に選択できる働き方である。その場合重要なのは、フルタイム、パートタイムともに「同一労働同一労働条件」、例えば時間当たりの賃金が同一でなければならない。これを実践している具体例としてオランダ・モデルが知られる。
<安原の感想> 「人間は自然の一員」という謙虚な視点を
ILOが提唱するディーセントワークは人間中心主義の思想である。望ましい当然の主張ともいえるが、不十分という印象が残る。なぜなら人間中心主義には人間を「自然の一員」として捉える視点が欠けているからである。人間が自然を管理・支配できると考える人間中心主義は、人間の傲慢さの表れである。人間は自然のお陰で生き、生かされている。自然の猛威の前には人間はしばしば無力である。
このことを見せつけたのが、日本列島東北地方を襲った地震・津波の東日本大震災(2011年3月11日発生)である。しかもこの大震災は、東京電力福島原発の爆発を誘引し、原子力発電の安全神話に執着してきた原発推進派の傲慢さを浮き彫りにした。この悲劇の教訓として、ディーセントワークに「自然の一員としての人間」という謙虚な視点を付け加えたい。そのとき初めて、実現をめざすのにふさわしい真のディーセントワークになり得るだろう。
<参考資料>
・西谷 敏著『人権としてのディーセント・ワーク』(旬報社、2011年1月)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0378 :110319〕
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連載・やさしい仏教経済学(35)
車(くるま)社会をどう変えていくかは、避けて通れない大きな課題となってきた。車社会は、毎年多数の事故犠牲者を出し、人命破壊型であるだけではない。鉄道やバスに比べると、大量の排出ガスによる地球環境の汚染・破壊型でもある。破壊型くるま社会から脱出する道はあるのか。
その道はマイカー(自家用乗用車)中心から鉄道、バスなど公共交通中心への交通体系の構造転換である。これを促進させるためには交通負担のあり方を変革し、自動車よりも公共交通の負担を一段と割安にする必要がある。また健康重視のためにも、自動車を捨てて、自転車や徒歩による移動をできるだけ心掛けたい。そのためには高速道路ではなく、自転車道、歩道の整備が欠かせない。この分野の公共投資促進こそが重要なテーマとなってきた。(2011年3月8日掲載)
▽ 30年後の未来の高速道路は? ― マラソンの風景も
あなたは自動車は便利な文明の利器だといまなお信じてはいないだろうか。本当に便利なのだろうかと疑問に思い始めたとき、日本変革への第一歩を踏み出すことになる。いきなり30年後の未来へ飛翔してみよう。そこで次の問題を考えたい。
<問い1>30年後の日本の高速道路で果たしてマイカーは走っているだろうか?
<答え> いまどういう改革に取り組むか、その結果にかかわっており、しかもかなり先の未来予測なので、正解は見通しにくい。しかし可能性を考えてみると、マイカーは恐らく走っていないのではないだろうか。環境破壊とエネルギー浪費型の元凶であるマイカーがなお走っているようでは、人間が生存していく基本条件である自然を含む環境が相当破壊されていることになる。マイカーは健在だが、肝心の人間様が息も絶え絶えという状態では落語のネタにはなっても、様(さま)にならない。高速道路では高速バスが主体になっている可能性が高い。そのバスも太陽光(熱)をエネルギーとするソーラーカーであるだろう。
日曜日など休祭日には車を通行止めにして人間がマラソンで汗を流しているかもしれない。あるいは緑の豊かな山間地の高速道路のあちこちで「歩け歩け大会」を盛大に催しているだろう。瀬戸大橋が開通する前日、多くの人々が「翌日からはもはや歩けない」という思いで、一斉に歩いて渡った事実がある。本来は、人間の歩行が禁止されている高速道路である。だからこそ、そこで歩いたり、走ったりすることは、人間性回復への試みであり、さらに自然環境保全にとどまらず、破壊された環境を再生させ、新たに創造していく営為でもある。
▽ 交通体系の転換を ― マイカー中心から公共交通中心へ
マイカーを主役とする現在の車社会は弊害が多すぎる。
まず人命破壊型である。わが国での交通事故の死者総数は6000人近くにのぼる。ただ事故から24時間以内に亡くなった犠牲者に限れば、約5000人(09年)であり、負傷者は100万人を超える。
次に排出ガスによる環境の汚染・破壊型である。例えば二酸化炭素(CO2)は地球温暖化を促進させる。地球温暖化は異常気象による災害の増大、食糧生産の低下と飢饉の増大、生態系への悪影響、健康被害(熱波による死亡者の急増など)、海面上昇による沿岸地域の水没など多面的な悪影響をもたらし、人間や動植物の生存基盤を破壊していく。
さらに環境省のデータによると、1人が同じ距離を移動する場合、マイカーは、鉄道に比べ約6倍、バスに比べ約2倍の化石エネルギーを浪費し、それだけ地球温暖化の原因である二酸化炭素(CO2)を大量に排出する。
このことは車社会が地球環境にやさしい持続的発展と矛盾対立するものであり、これ以上、車社会を推進することは大いなる疑問であり、車社会の構造変革が不可欠である。その具体策はなにか。次の諸点を挙げたい。
* 現在のマイカー中心から鉄道、バス(路線バス、コミュニティ・バス)、路面電車など大量輸送の公共交通中心の交通体系へ転換すると同時に、自転車、徒歩も重視すること。
* 政策手段として高率環境税(炭素税)を導入し、マイカー利用者の負担を増やす一方、公共交通機関である鉄道、バスの実質的な料金引き下げを図ること。例えば通勤利用者には通勤特別割引制度を実施し、その負担を軽くし、鉄道、バスへの乗り換えを促進する。
* 自転車道と歩道を全国的に整備し、自転車利用と歩くことを奨励すること。これは良い社会資本の整備につながる。
* マイカー削減の代替策として地方自治体が地域で小回りの利くコミュニティ・バスの積極的な活用を進め、高齢者など住民の足を確保すること。
*都市での路面電車を普及させること。欧米で普及しつつあるLRT(Light Rail Transit=低床型で高齢者などが利用しやすく、しかもエネルギー節約、環境保全にもプラスの新型路面電車)が熊本市、富山市内などですでに運行している。多様な路面電車の普及は従来とはひと味異なった楽しい街の散策も可能にしてくれるにちがいない。
*カーシェアリング(車の共同利用)を広げていくこと。車を所有していなくても必要なときに好きな車種を選んで乗ることができるわけで、高額のマイカー維持費から解放されるし、駐車スペースを家庭菜園や花壇に作り替えるというプラス面もある。
以上の個々の改革策はヨーロッパをはじめ、先進各国で進行中であり、日本でも例えばコミュニティ・バスの導入に取り組む地方自治体も増えつつある。重要なことは持続的発展に反する車社会を改革するための明確なビジョンを掲げて国を挙げて取り組む姿勢を打ち出すことである。
▽ 地方のくるま社会の行方 ― 公共交通の復活を
私自身はクルマを持っていないし、だからといって東京での暮らしに不便を感じることはない。地下鉄、バスなど公共交通の利用派である。しかも出来るだけ歩くよう努めている。そこで感じるのは最近の自転車の乱暴運転である。
自転車による歩行者への事故は全国で2934件(09年)で、10年間で4倍近くに増えた。死者も出ている。道路交通法では自転車は、原則として車道の左側を走ることになっている。ところが歩道でケータイ電話を見ながら走る無謀運転が目立つ。わたし自身、歩道を歩いていて何度もひやりとさせられた。自転車や徒歩を新しい交通手段の推奨銘柄と評価する者としていささか残念に思う。
時折帰省する郷里の田舎でも自転車か徒歩であることが多い。ただ遠出の際は車に依存することになる。ここでまた疑問、問題を考えたい。
<問い2> 「東京や大阪のような大都市ならともかく、地方では車がなければ、生活そのものが成り立たない」という疑問が出される。これをどう考えるか?
<答え> たしかに田舎や地方都市では鉄道やバスは乗客が減少し、次第に削減、廃止されていく運命に追い込まれてきたところも少なくない。だから自動車が必要なのだという言い分は一応もっとものように見える。
しかしこういう思考方法は自動車が交通機関の主役になっている現状はどうにも変えがたいという思い込みによる。歴史的にみれば、いまのような混雑を極める「くるま社会」は精々40年程度の歴史しかない。地方の自動車道路を整備し、マイカーが増えたから、鉄道、バスが押されてきたのである。ただもはや原油供給の先細りは避けがたいし、石油価格高騰とともにマイカー利用の負担は重くならざるを得ない。一方、公共交通(鉄道、バス)、自転車に優遇策を講ずれば、マイカー依存度が低下し、公共交通、自転車などが復活していくにちがいない。
大切なことは、現在のマイカー中心の社会構造をどう変革していくか、その意志があるのかどうか、適切な政策手段を断行するかどうかである。
以上のようにやり方次第で現実はいくらでも変革できる。くるま社会にマイナスが多いからにはマイカーに主役の座を降りて貰う以外に打開策はない。
▽ マイカー依存度を低める文化を ― 自動車文明を反省するとき
自動車を大幅に減らさないかぎり、人命尊重・環境保全・エネルギー節約型社会の形成はそもそも無理なのである。マイカーの特性であるスピード、便利、密室性といった近代工業文明の所産に酔いしれているときではあるまい。この際自動車文明を根本から反省するときではないだろうか。その具体策は何か。
まず一人ひとりのライフスタイルを変えてみようではないか。
とにかくできるだけ歩くことである。歩くことは省エネ・無公害型の基本的交通手段であり、これは自転車も同じである。 どちらも健康によい。車に乗り慣れて足を弱くし、急速に老いていく人たちがいかに多いことか。
歩いていれば、頭脳が活発になり、眠ることもできない。会議をだらだらと無為に続けないためには、座らないで立って行うのも一法といわれるのはここからきている。その昔のまた昔、二本足で歩くことによって猿から人間へと進化した。歩く努力をしないことは人間であることを止めることにもつながる。
フランスの名言に「才子は馬車に乗り、天才は歩く」(木村尚三郎ほか著『続・名言の内側』日本経済新聞社)がある。18世紀のパリでの話で、新交通機関として登場した馬車に乗ることがステイタス・シンボルとなり、田舎出の才子たちは、争って馬車に乗り、カッコよく振る舞った。しかし天才(見識のある人)は悠然と歩くことを好んだというのである。
さて「トラベル・スマート」(TravelSmart)という新語が登場してきた。「クルマへの依存度を低めることを目指す文化的変革」『地球白書』(2010-2011)を指しており、その「脱マイカー」がコミュニティを基盤にした家庭主導で展開される、という新しい動きである。オーストラリア、ヨーロッパ(特にイギリス)の都市で広まり、アメリカの6大都市で試みられている。
この試みに参加した人々は、成果、効果について次のように指摘している。
・脱マイカーが自身の健康、地球環境の保全と修復にとっていかに有益であるかが分かる。
・地域内を「歩くこと」、「自転車で移動すること」、特に徒歩や自転車での通学を奨励する。
・身体を動かして移動することは、若齢者の土地感覚やコミュニティへの帰属意識を育むために重要であり、同時に肥満症の有効な予防策となる。
・この試みが実施されたコミュニティでは、マイカーでの移動キロ数が12~14%減っている。
・この試みに関わった人々は次のように語っている。
「マイカーのハンドルを握っているよりは、自転車、徒歩、バスで行く方がいかに爽快であるかを感じる」
「マイカー利用よりも金銭的な節約になるし、地球温暖化の緩和や石油の消費抑制にも、いささかの貢献をした実感が得られる」
日本社会ではマイカーについて文化という認識は希薄である。しかしいまやマイカーを中心とする車社会を変革していく、その望ましいあり方を文化として捉えるのが、世界の新動向である。こういう潮流に乗り遅れないようにしたい。
<参考資料>
・ワールドウオツチ研究所『地球白書』2010‐11「特集 持続可能な文化」(ワールドウオツチジャパン、2010年12月)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0366 :110308〕