今年は、沖縄が日本に復帰して40年。5月15日には、沖縄県宜野湾市で県と政府の共催で記念式典が行われた。それを伝えるテレビや新聞各紙の報道を見ていたら、私の胸の中に根源的な問いかけがわき上がってくるのを感じた。沖縄の日本復帰とはいったい何だったのかという問いかけであった。そして、私の心の中で次第に強くなっていったのは「沖縄の日本復帰とは、結局、本土の沖縄化だったのではないか」との思いだった。
沖縄では、太平洋戦争末期に日米両軍が死闘を繰り広げた戦闘が展開され、日本軍壊滅により沖縄は米軍に占領された。その後、1952年の対日平和条約で日本から切り離され、米国の施政権下に置かれた。
その沖縄に1960年、日本復帰を目指す「沖縄県祖国復帰協議会」(復帰協)が結成された。沖縄社会大衆党、社会党沖縄県本部、沖縄人民党の3政党のほか、労働組合、教職員会、青年団協議会、婦人連合会、PTA連合会、全沖縄農民協議会、大学学生会など50団体が結集する広範な県民組織だった。
沖縄の人たちは、なぜ日本への復帰を目指したか。まず、沖縄の住民もまた日本人だから、親のふところに戻りたい、という意識だった。次いで、頻発する基地公害と米軍による人権侵害から逃れたいという願いだった。「日本には、戦争と軍備を否定した平和憲法がある。だから、日本に復帰すれば、米軍基地もなくなるだろう」と考えたのだ。
したがって、復帰協が掲げたスローガンは「即時無条件全面返還」だった。つまり、施政権の日本返還にあたっては、何ら条件をつけることなく、全面的かつ直ちに返還すべきだ、というわけだった。具体的には、沖縄にあるすべての米軍基地を撤去し、核兵器も引き揚げよ、という要求であった。復帰協は、こうした復帰のありようを「反戦復帰」と呼んだ。
本土の革新陣営(社会党、共産党、日本労働組合総評議会=総評など)も、こうした復帰協の運動に呼応し、沖縄返還運動に取り組んだ。
日の丸を掲げた島ぐるみの復帰運動に当時の自民党政権もようやく腰をあげ、佐藤栄作首相は1965年に沖縄を訪問した折りに「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本にとって戦後は終わってない」と言明し、対米交渉を進めた。
1969年11月に訪米した佐藤首相は、ニクソン米大統領との会談に臨み、日米共同声明が発表された。それによると、沖縄の施政権返還は1972年中に達成されるとする一方、返還の中身は「核抜き・本土並み」と言えるものだった。要するに、返還時には、沖縄から核兵器を撤去する。が、沖縄に本土並みに日米安保条約を適用する(別な言い方をするならば、沖縄の米軍基地を引き続き存続させるということ)というものだった。(有事の際には米軍が沖縄に核兵器を持ち込むことを認めるという密約があったことが、その後明らかになった)。
これに対し、沖縄ではこの日米共同声明に反対し、あくまでも「即時無条件全面返還」を求める運動が続いた。70年12月20日未明には、コザ市(現沖縄市)で、数千人から1万人の群衆が米軍の車両に放火する騒ぎ(コザ暴動)が起こり、内外に衝撃を与えた。
しかし、日米共同声明に基づき、日米両国政府により沖縄返還協定が作成され、71年6月17日、東京とワシントンで調印式が行われた。
東京の首相官邸で行われた調印式には、沖縄の屋良朝苗・琉球政府主席(屋良氏は沖縄初の琉球政府主席公選で当選した)も招かれたが、「県民の立場からみた場合、わたしは協定の内容には満足するものではない」として、出席しなかった。沖縄住民の代表がいない返還協定の調印式。そのことに、沖縄の人たちが返還協定をどう受け止めたかが端的に示されていたと言ってよかった。
沖縄返還協定は同年秋の国会に上程された。復帰協は協定の批准に反対して那覇市で県民大会を開いた。米軍基地に働く労働者の組合、全軍労は24時間ストを決行した。が、自民党は衆院の特別委で社会、共産両党の反対を押し切って返還協定を強行採決。これに対し、総評系の労組員200万人が抗議ストをしたが、自民党は衆院本会議を議長職権で開き、社会、共産両党欠席のまま返還協定を承認した。
かくして、日本復帰という望みはかなえられたものの、「米軍基地のない島」を実現したいという沖縄の人たちの願いは実ることなく、1972年5月15日、復帰運動は終息を迎えたのだった。
ところで、復帰協に呼応して沖縄返還協定反対運動を本土で繰り広げた、当時の革新陣営には「沖縄返還協定は日本に禍根をもたらす危険なものだ。いうなれば、この協定で本土の沖縄化が進むだろう」とみる意見が強かった。
その主張はこうだった――これまでは、沖縄の米軍基地から米軍機がベトナムなどへ自由に出撃していた。施政権が日本に返還されても、引き続き沖縄に米軍基地が残るとなれば、そして、米軍基地の機能が施政権返還後も変わらないとすれば、本土の米軍基地も沖縄のそれと同様の機能をもつようになるのではないか。これは、日本政府の了解なしでの在日米軍基地からの戦闘作戦行動を認めていない日米安保条約の変質だ。
が、こうした革新陣営の懸念は、国民の間に広がることはなかった。
それから40年。この間の沖縄と日本本土の動き、それに日米関係の推移を見ると、40年前の革新陣営の懸念はやはり当を得たものだったのではないかと思えてくる。そういう思いを強くしつつあった時、元毎日新聞記者、西山太吉氏の発言が目にとまった。西山氏は、よく知られているように、沖縄返還の密約に関する機密電文を外務省事務官に持ち出させたとして国家公務員法違反で有罪判決を受けた人だ。
私の目にとまったのは、5月2日付の朝日新聞朝刊の企画記事『再生 日本政治』におけるインタビュー記事。インタビュアの「沖縄は復帰40年です。40年で沖縄はどう変わりましたか」という質問に、西山氏はこう答えていた。
「そういう質問の仕方はねえ。私はちょっと違う問題意識なんです。私は沖縄の本土復帰で日本が変わったと考えている。米国は沖縄だけでなく、日本のすべての基地について、東アジアの主要な地域に自由に出動できる『自由使用』という軍事的権益を獲得した。現在の完全自由使用は沖縄復帰が起点です」
沖縄の日本復帰問題と関わりが深かった人の見方だけに、その意味するところは重いと思った。西山氏の認識は、私の見方を裏打ちしてくれた。
5月2日付の朝日新聞朝刊はまた、訪米中だった野田首相とオバマ米大統領の会談内容を伝え、それに対する立野純二・アメリカ総局長の論評を掲載していた。タイトルは「同盟深化 アジアに説け」。その中で、総局長は次のように述べていた。
「両政府は、貿易問題は双方とも国内の反発で動けないことから、防衛問題に焦点を絞った。『小泉・ブッシュ』以来6年ぶりの日米共同声明にこぎつけたのは、アジア戦略の負担を日本に背負わせたい米国と、対米関係を長期負債としたくない民主党政権の思惑が一致したからでもある。
ただし、野田政権は昨年の『武器3原則』の緩和と同様にまたも、なし崩し的な手順だったと言わざるを得ない。戦後一貫して専守防衛を掲げてきた日本が、これからはアジアの国々に巡視艇などの『武器』とも見られる装備品を与え、米軍と自衛隊の共同訓練場もグアムや北マリアナ諸島に整備するという。
『対等な日米関係』を掲げていた民主党政権が、自民党政権もできなかった米軍との一体化に突き進む。自衛隊が国外で米軍と共にする活動を無制限に広げれば、今の憲法解釈が禁じる『集団的自衛権』 の行使にもなりかねない」
今回の日米首脳会談は、日本が米国政府の国防戦略に全面協力して日米同盟をさらに深化させるというものだったのだ。いうなれば、今回の日米首脳会談も、40年前の、沖縄の日本復帰から始まった日米同盟深化・米軍と自衛隊の一体化という一連の流れの延長線上にあったということだろう。
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