遠吠えしていてはわからなかった!津波に飲み込まれる港町“気仙沼の今”

-ボランティア現地レポート(気仙沼編)-泉 康子
2011年5月3日 連帯・共同ニュース第112号  

■ 長距離バスに飛び乗るまで
3・11以来、テレビの映像を見ながら「何か私に出来ることはないか」と考え続けた方は数知れないと思う。私もそんな一人だった。ひと月間、ピースボートや市民ボランティアセンター、都の生活文化局などを巡ってボランティア難民を続けた後、個人ボランティアを受け入れているという気仙沼と石巻の地図を購入した。続いて持病の薬を準備した。「テント、食料、水、トイレゴム長靴など装備は原則自己責任」と言われ、若き日の山道具の中から、テント、シュラフ、白ヘルメットを取り出してみたものの、トイレ、水で躓いた。すべてを詰めて背負ってみたが「これではバス出発地新宿に辿り着くまでに参ってしまう)と荷をおろした。やはり体力は落ちているのだ。気仙沼へは一ノ関から、石巻へは仙台から通勤する案を思いつきビジネスホテルに次々に電話し、数軒目で運よく5日間づつ確保できた。(被災地の宿は工事関係者、医療関係者で5月末まで満杯)少々お金はかかるが、この大津波の現実を目に焼きつけ、伝えなければという気持で決断した。本屋で手にした吉村昭の「三陸海岸大津波」という記録文学が背中を押した。
4月21日(被災から40日目)10日間の自炊食料に衣類、ゴム長を背負って仙台行きバス(3千円)が走り出した時、緊張と安堵が胸にあふれた。一ノ関経由で気仙沼に着いた。単独行の縦走の日が甦る。

■ 遠洋漁業の“気仙沼”の惨状―70歳代でも出来る仕事あり―
ボランティアセンターは駅から20分のところ。まずボランティア登録。住所、年齢、緊急連絡先を記入する。特技はと聞かれ力仕事と答える。その後ボランティア保険に加入する。8時30分から9時にかけ、その日要請の来た仕事と人数が読み上げられる。すると集まった100人ほどの人が、それぞれ「行きます」と手を挙げ名乗り出てグループ決定。作業に応じたブラシ、スコップ、1輪車などを積み込み車で移動―大昔の職安の朝の風景。私は2日間、ヘドロかき作業、2日間、物資の整理、梱包作業。ヘドロは床にも畳にもべっとり。提灯の内側にも厚くこびりついている。海から3kのその家には「水はこない」とふんでいたが、津波は、川が盛り上がり水門を越えて遡り2階の床に届きそうなところまで浸水。88才の母と60才代のご夫婦3人で2階に孤立―3日目に消防のボートで救出され避難所へ。ゴム手袋に、ゴーグル、マスク、ゴム長靴で完全武装し、作業したのだが、常にヘドロが運んできた臭いがたちこめている。
「ヘドロ水が目に入ると大変だ、瓦礫に混じったクギを踏み抜くと破傷風になる」と注意を受ける。昨日は二人やられたという。しつこいドロをブラシで落としながら、「富める者も貧しき者も‘偉い’人も凡人も、一回この作業を通過したらきっと何かが変わる」と思いつつ手を動かす。行く先によってはトイレ使用不可能なところもあり、私は尿とりパットをはめて出勤した。
帰ってくると長靴のヘドロを洗い流し消毒。手とノドを消毒する肺を守る行列に並ぶ。災害関連死は災害死の2倍に達するという。気仙沼入りした初日に、私はまず半日かけて港と一番ひどい鹿折(ししおれ)地区をまわり写真を撮った。被災後一月はボランティアを入れず自衛隊と警察で、遺体発見と道路の確保が行われていた。200屯の根室の船が集落に乗り上げ燃えただれ、密集した家々は焼き尽くされている。はるか離れた湾の先端にある石油基地からタンクが津波に押されて飛んできてビルに激突して火を噴いたのが始まりだった。消防車が出動したが、あっという間に引火し消防士は座したまま焼けた。乗用車も船も、重爆撃を受けたようにヘナヘナに押しつぶされ、炎がまわっていた。3日間引火する毎に爆発し黒煙を上げ燃え続けた。塩水をかぶった焼けただれた残骸は、すっかり赤茶色に錆び果てている。家は燃えて一軒も無い。何を見つけたのだろう。カラスが時々舞い降りる。―「私たちはどんな過ちを犯したというのだろう」
私はシャッターを押せずに、呆然と立ち尽くした。同志に友人に伝える言葉が見つからない。
私はただ祈った。1946年満州から脱出し、ピョンヤンで難民生活を終えて帰国した日に見た柱だけの東京駅、熊本の焼け野原もここまでひどくなかった。― 誰にだかわからないが祈り続けた。一番賑わったと言われている港に転じた。途中の街は、いくつもの2階建ての商店が、商品を波にさらわれ堂々とした屋根だけが陥没した母屋に乗っている。木造の商店は瓦礫と化している。はるかに大島の山脈が見える。山火事が起こりライフラインが切断されて孤島になったという大島。港の大通りには、巨大な女川町のマグロ船が乗り上げ聳えている。アカと白のツートンカラーの400屯の船を押し上げた大津波は、一度目より二度目の方が巨大であった。一度目は
たいしたことがなかったので、着のみ着のまま逃げた人々の中の何人かは、一波が引いた後モノを取りに家に戻った。そこえ第2波が来て、海に曳かれて姿を消した。勢いの強い引き波が一気に人々を呑みこんで沖に連れ去った。主客がひっくり返り地球の主役は大津波になった。
気仙沼で1220名が見つかっていない。815名の人は遺体で発見されたが、焼き場が足らず300名ほどが野球場に仮埋葬されている。木の墓標にはG-2-3のような記号が記されている。
人が自然と折り合いそこねた結果を一身に受けて生涯を閉じねばならなかった人々の地は、市街地から車で30分近く山に上がっていったところにある。言葉が凍る。果てしなく続く墓標の列。
明治8年の大津波を参考にして立てられたハザードマップは役に立たなかった。歴史を一千年遡った平安時代の大津波に匹敵する背丈であった。― 土地の人たちは前日の夕方、「いやに太陽が赤いネ」と囁き合っていた。
■ “800人の従業員は解雇せず”の決断 ― 希望の道
・ 80名の従業員を抱える「ししおりタクシー」は本社が津波で崩壊した。社長は運転手一人一人と面接し去るか残るかを打診。38名が社会保険料全額自己負担、賃金は出来高払い制で残り、後は去っていくことになった。
・ 気仙沼市の人口の7割近い人が水産関係の仕事に関連して生計を立てている。世界三大漁場の一つを腹に抱いた遠洋漁業の基地である。遠く太平洋、アフリカなどの外洋からもこの港に水揚げしたり、船のメンテナンスをしたりする基地なのだ。この地の最大手水産加工会社の社長は800名の従業員を抱え「従業員解雇か、休職」の岐路に立たされた。生き残った管理職を集め「解雇か休職か」の討議にかけた。多くは「もし解雇しなければ資金は二ヶ月しかもたないから解雇せざるを得ないだろう」という意見に傾いた。しかしこの討議をうなって聞いていた阿部社長は「全員休職扱い!」を決断した。「休職中も払い続けなければならない社会保険料を負担しても、全員に希望の道を作っておこう。もし解雇してしまえば多くの人々は気仙沼を離れていく。人がいなくなれば漁業基地としての気仙沼は再興できなくなる。人々が一時アルバイトで凌いでも必ず気仙沼に帰ってくる希望の道を作ろう」と英断を下すテレビの画面に向かって私は拍手した。― その時、私のボランティア地に気仙沼を選ぶことに決めた。それまでキセンヌマであったものがケセンヌマに読み変えられた。
■ ボランティアを終え気仙沼を去る日、私はこの人に会いに行った。外出中だったので前夜書いておいた激励の手紙を管理職の一人に手渡し握手をした。
物資仕分け作業の責任者である39才の市女性職員とは親しく会話し、思慮深く気仙沼の将来を背負っているたくましさに感動した。人にはタチナオルチカラガソナワッテイル。その蘇生に触れた感動であった。
6月11日「脱原発100万人集会」で国民的な意志表示を!
現在も継続中の原発災害に対してこの間、各地で様々の行動が展開されてきた。4月10日(日)
の芝公園や高円寺での集会やデモ、東京電力本社前の抗議行動、原発の現状や歴史への言及の集会、それらはいずれも盛会であり、政府やメディアの原発災害の隠ぺいと情報操作に異議を申すものであった。これは6月11日(土)「脱原発100万人集会」文字通り国民的な声、つまりは意志表示として現れようとしている。国民の声を無視する政府やメディアに対して国民の意思と声の所在を示さなければならない。政権保持だけに汲々とする菅政権、政局的な争いの場から逃れられない野党に対して、この災害とりわけ原発災害に対する緊急の、また長い視座での解決策の
実施を要求せねばならない。それは脱原発の歴史的決断と同時に、さしあたっての具体的処置を要求することだ。脱原発とエネルギー政策の転換にいたる径路として「福島原発の暴発阻止」と「浜岡原発停止」をまず現実化することだ。僕らは「脱原発社会」の構想のもとでそれにいたるさしあたっての径路《道筋》を明瞭にすることで国民の意志を具体化せねばならない。
■ 6月11日(土)が国民的な声と意志の表示として目指される中での様々の行動予定や企画ががある。それらの中から主なもの紹介して置きたい。5月7日(土)14時渋谷区役所前交差点集合15時デモ(詳細はHP:http//57nonukes.tumblr.com/).5月16日~20日(国会前座り込み闘争、福島原発暴発阻止・浜岡原発停止)。なお東日本大震災緊急救援市民会議の救援活動は5月7日~9日に第7次行動が予定されている。            (文責 三上治)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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