はじめに
部落差別の原因、それはこの国で古代から近世まで続いた神仏習合政治に基づく、その初期的情況としての古代政権の「天候支配」の願望と、それを実現するための「誤認」と一方的「強権」から始まっている。その端緒は神仏習合政治の、仏教の戒律にある一つの条項が決定的になるが、しかしその戒律が社会的影響もつには長い時間を必要とし、その間は、仏教が我が国に伝来するずっと前から、この土地の自然環境の中で、その環境に寄り添いながら狩猟文化や稲作文化を築き、その生活の中で一定の宗教的観念や儀式を持っていた民衆の、その文化・価値観と厳しく対立する経過を持ちながら、権力を握る君主・天皇を頂点とする国家を「護持」するイデオロギー装置として付き添う仏教の戒律が天皇による統治に活用され、少しずつ民衆の生活に浸透していく。
とはいえ、その時期そこに「被差別者」「被差別部落」が存在したわけではない。「被差別部落」――これを本論で「部落共同体」という――が形成されるのはそれから何世紀も後、戦国時代末期、この国の政治が天皇制・君主制を脱却し、諸国・分国が封建領主によって自立する可能性を持ちながら、一人の戦国武将・秀吉によって「天下統一」され、直後の「検地」「刀狩」「身分統制令」で、諸国・分国の封建領主が解体。そのうえ諸国・分国を支えた百姓――農民だけでなく様々な職能・分業者――が武装解除され「百姓の分離・分断」が起こった時――つまり、よくいわれる「兵農分離」「農商分離」であるが、私はこの分離を「兵農」「農商」だけでなく、当時の社会で主要な職業的カテゴリー「士・農・工<皮田を含む>・商」(身分呼称ではない)の全体を把握すべきと思うし、そのためその全体像を百姓の「分離分断」という(あとで詳しく述べる)。この時、皮革生産者――皮田――の職業的共同体が諸国の城下を起点に、都市と地域村落の皮革生産者を繋ぐ形態としての「部落共同体」が形成され、それが統一された「天下・国家」にタテの統治構造で組み込まれた――「士・農・工<皮田を含む>・商」のすべてが単独の共同体として同じ構造で統治された。江戸時代の「双務関係」がその典型――形態で活動する。つまり「百姓」――多くの職能・生業者――の一員であった「皮田」が「天下・国家」との双務関係によって「一村独立」するのであるが、その「部落共同体」には、他の職業的共同体にはみられない「差別」が付随した。私はこの「差別」についてそれが始まるであろう端緒を「差別の原点」とし、それが社会に拡大するプロセスを「原理」とし、その「原理」が「部落共同体」に集中する様子を「部落差別の原因」とし、本論において考察する。
一方、私は従前から、部落差別の発生要素と考えられる「穢」について、中世的な「穢れ意識」などを古代まで遡って考察すべきと思っていた――多くの場合私も中世で止っていたのであるが――。
古代を考えるべきというのは、仮に部落差別が「穢の排除」に関連しているとしても、「穢」観念そのものは「汚穢」とか「忌穢」「蝕穢」として古代から存在するのであり、しかも民俗学では「穢」は本来「気離れ」「気枯れ」の意味だったとする見解もあるし、それは一人一人の個でのケ・ハレ・ケガレの循環であるとする考えもあって(宮田登『ケガレの民俗誌』人文書院199頁・20頁)、「穢」の概念も多様性をもっているからだ。また、仮に動物、或いは家畜を「屠(ほうり)」或いは動物を殺して「供犠」したり「食」したとしても、古代まで遡るとそれらは必ずしも「穢」でも「禁忌」でもなく、反対に「神聖」な行為、場であり「神と人の共食」を実現する場の必要不可欠な行為であることも少なくないのであり、しかも動物の「屠(ほうり)」あるいは「殺牛馬」あるいは「動物供儀」を、当時の神職が行った事例は決して少なくない。
しかし主には鎌倉時代以降、中世社会では、国家的行事に動物供儀はほとんどみられなくなり、一方で「屠(ほうり)」「屠者」「屠児」や、戦国時代の「皮田」「革作り」はほぼ全面的に「穢」「蝕穢」とされ、それを専業的に行う者、その業者は「差別」の対象になっていた。
こうした歴史が描けるのであるが、古代から中世への間に「屠(ほうり)」「屠者」「屠児」「皮田」「革作り」に何が起こったのか。何がどのように変わったのか。そのことが私には大きな疑問なのである。その疑問を解明したのが最近、雑誌『部落解放』に約四年間連載し昨年(2020年)八月に終った「部落共同体論」だった。同時にまた、二十年以上続いた自主講座「部落講座」でも少し遅れてレジメとしても使っていた。本稿は「部落講座」の最終回に向けて、「部落差別の原因」として使ったものを少し書き直したものである。
一部 原点と原理――古代より
部落差別において、直接的に差別の対象になったのは、その人ではなく、その職業、或いは時代の情況からして水耕稲作を軸としながら、その稲作のより豊かな実りのために様々に工夫された技術や道具の制作に携わる副業的な技能者、職能者、例えば大工や鍛冶屋、船大工など。その内で、主には農耕用に飼育されていた牛や馬などが農耕用として働けなくなった時――年齢や怪我――、それを解体し皮革生産技術を持って水耕稲作集落、その共同体に分業的に、何らかの形態で働きかけた人々の、その職能が、対象だった。
そしてその差別観は、国家仏教が始まるといえる五八七年、病弱な用明天皇が仏教に帰依し、天皇制政治にそれを取り込んで始まった古代神仏習合政治(『日本書紀(下)』講談社学術文庫74頁)の、その政治を仏教的に支えた「護国三部経」(「金光明最勝王経」(以後「金光明経」)「仁王般若経」「法華経」)の戒律の一つであり、その第一義である「不殺生戒」、その政治用語である「殺生禁断」から始まっている。そしてその中に「部落差別の原点」が存在する。その史料的解明はこの後すぐ行うが、その「差別の原点」が社会に浸透するのにはやはり多くの時間を要する。
そうした時間を経て「被差別者」が一定程度特定され始めるのは鎌倉時代である。それは先の皮革生産技能者が、農耕を軸としながらも、都市などでは一定の専業化が始まっており、その専業者に「不殺生戒」「殺生禁断」がふりかかる。中世的職業差別といわれるものだ。このように「差別の原点」が社会的に浸透、拡大していくプロセスを私は「差別の原理」として解明する。そのプロセスは先の仏教の戒律と、それを基にした天皇による「殺生禁断」の「詔」によるところが多大である。
またその「差別の原理」が、現代いわれるところの被差別部落に集中するのは江戸時代であり、その契機は太閤検地以降の「刀狩」「身分統制令」による「百姓村の分離・分断」――いわゆる「兵農分離」「農商分離」――である。
以上の前提を置いて、まずは差別の原点と原理を史料でみていく。
一 原点―神仏習合政治の「不殺生戒」「殺生禁断」と「天候支配」
神仏習合政治を支えた「護国三部経」で最重視された経典「金光明最勝王経」は「国分寺経」とも呼ばれ、全国の国分寺で信仰・教学・布教に活用された。その最終巻は「不殺生戒」を守る「善行」と、それを「破戒」する「罪悪」「悪行」を説く。その条項の前段は「養う所の鶏・猪・鵞(がちょう)・鴨、肉用の徒(インドの家畜・川元)、みな悉く放生す。家々に肉を断じ、人善念して屠行を立てず」だ。そしてその後段は「一切の衆罪は懺悔せば皆滅するも、唯、殺生のみは懺悔するも除かれず。怨家あって専心するが為なり」(『国譯一切経』大東出版社307・308頁)とする。ただし、この「金光明最勝王経」最終巻は「金光明経」そのものの中にはなくて「一切経」――主要な経典の重要部分を集めたもの、ともいわれる――の中にあるので注意してほしい。
ここでの「不殺生戒」の対象はインドの家畜に絞られているが、この後すぐ見るように、その概念は日本の家畜に置きかえられていく。つまり、「金光明経」最終巻は、その家畜の「殺生」は懺悔しても救われない、となっていく。この条項を除くと「金光明経」も含めて他の経典も、戒律を破っても「懺悔」するとリセットされ、やり直すことができるのであるが、この「家畜」の「殺生」に限って、リセット出来ないのである。これは非常に厳しい「戒律」といえるだろう。
時代が下って、近世・江戸時代以降の部落差別の実態からすると、「殺生」や「屠畜」の対象は「四足」ともいわれ、主に牛・馬・豚・犬などに絞られる傾向があり、誰もが「殺生」を避けられない「虫」や「魚」は対象から外されていた。そのことを考えると、神仏習合が始まった当初から、江戸時代の差別の伏線があったといえるだろう。これを私は「部落差別の原点」とする。しかしこの戒律がすぐ社会に定着するわけではない。
例えば用明天皇期、神仏習合政治が始まったといえる五八七年ころから約五十年後、神仏習合政治での仏教の戒律とは真逆の行事、天皇が参加して行う「動物供儀」の雨乞神事が行われた。
その「雨乞」は皇極天皇期六四二年七月のこと。「日本書紀」に次のように書かれている。「村々の祝部(はふり・ルビ以下同)(神官)の教えに従って、牛馬を殺して諸社の神に祈ったり、あるいは市を別の場所に移したり、また河の神に祈ったりしたが、雨乞の効き目はなかった」そのためその後天皇が川上に行って天に祈ると雨が降った、とするもの(『日本書紀(下)』宇治谷孟・講談社学術文庫137頁)。
これは我が国の「民間信仰」として近世から近代にかけて、農村から「請願」されて「部落共同体」が行なった「殺牛雨乞」の古代版(古代は、少なくともその前期はそれが国家行事だった)と同じである。つまり神仏習合政治が始まった当時、「不殺生戒」「殺生禁断」とは真逆の行事が天皇を含めて行われていたのである。
しかし「不殺生戒」「殺生禁断」は引き続き強まる。
二 原理―差別の原点が拡大するブロセス―天皇の「詔」
◇
六七五年、天武天皇がこの国で初めて「殺生禁断」「肉食禁止」を発令した。それは
「今後、漁業や狩猟に従事する者は、檻や落とし穴、仕掛け槍などを作ってはならぬ(稚魚の保護。これは現代もほとんど同じ・川元)また牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食べてはならぬ。それ以外は禁制に触れない」(『日本書紀(下)』全現代語訳・宇治谷孟訳・講談社学術文庫268頁)だ。
ここで「鹿」「猪」が外されているのがよく話題になるが、ともあれ魚を除くとその禁令が家畜に絞られているのは確かだ。後で詳しくみるが十世紀に施行された「延喜式」にある「穢忌」の規定でも「六畜(牛、馬、羊、犬、猪、鶏・川元)(『新訂増補 国史大系 交替式・弘仁式・延喜式前編』吉川弘文館68頁)とされており、両者に通底するものがあったと考えてよいと思う。また天武天皇はこの発令の後「一切経」を広めるよう諸国に命じているので、この禁令が「金光明経」最終巻の影響を受けているのは間違いないと思われる。((『日本書紀 下』宇治谷孟訳・講談社学術文庫・363~268頁)
◇
七二二年元正天皇の「殺生禁断」は旱魃を契機に発せられている。「この頃、陰陽が乱れ、災害や旱魃がしきりにある。そのため名山に幣帛をささげ、天神地祇をおまつりしたが、恵みの雨は降らず、人民は業を失う。(略)国司・郡司に、無実の罪で獄舎につながれている者がないか詳しく記録させ、路上にある骨や腐った肉を土中に埋め、飲酒を禁じ、屠殺をやめさせ、高齢者には努めて憐れみを加えよ」(『続日本紀 上』講談社学術文庫241頁)。いわゆる、天変地異を防ぐため「殺生禁断」が発せられているのが明確であり、その目的がはっきりわかるところだ。
◇
聖武天皇期七四一年。そこでは百姓の屠殺を禁ずる。「馬牛代人勤労養人。因玆先有明制不許屠殺。今聞。国郡未能禁止。百姓猶有屠殺」(牛馬は人に代わって働き人を養う。そのため屠殺を許さないと指示した。しかし諸国では今だ禁止出来ず百姓が屠殺している) (『新訂増補 国史大系[普及版]類聚三代格 後編・弘仁格抄』吉川弘文館・「類聚三代格・巻十九」599頁)。
ここでは「牛馬」に絞られているが、家畜をなぜ大切にするか述べられており、その意味がわかるものの、反対にこの時代、農耕用に飼育する牛馬を百姓が「屠殺」していたことがわかってくる。天皇の「詔」もそう簡単には民衆にとどかないのだ。
◇
七六四年、淳仁天皇が廃位し、孝謙上皇が称徳天皇と改称して即位。「読日本紀」はこの女帝を「高野天皇」と呼ぶが、七六四年十月十一日には「鷹・犬および鶏を飼って狩や漁を行ってはならない。諸国が御贄(みにえ)として鳥獣の肉や魚などの類を進上(動物供儀・川元)することを禁止。但し神戸についてはこの限りでない」(『読日本紀 (中)』宇治谷孟・講談社学術文庫332頁)とする。つまり「神戸」は動物供儀が許された。
◇
実はここにある「神戸」は皇極天皇期の「殺牛馬雨乞」で「牛馬を殺して祈る」「祝部(はふり)」の母体なのである。祝部は「祝(はふり)」とも表記され、縄文・弥生時代など狩猟・肉食文化時代(文字表記のない時代、私はその時代の言葉を音表記する)の神職「ハフリ」である。「令義解」は「祝は国司が神戸から選定」(『新訂増補国史大系 令義解』吉川弘文館・29頁)としており、「祝部・祝は神戸の内」と考えられている。また『神道史大辞典』(吉川弘文館)は「令制<律令>の『祝部』は庶人を充てるとはいえ神祇官の下級官職、『祝』は土地の伝統に根ざした神職」とする。つまり「祝部」は朝廷に帰属する「神祇官」の一部であり、「祝」は地域の神官である。しかし、本来両者は古くから地域の神職として「ハフリ」と音表記すべき存在だった。従って私は両者を含めて「ハフリ」と表記している。
稲葉信道は「神人・寄人」という論文で、一〇世紀末から一一世紀初頭に「神人」が散見できるとしている。朝廷が律令制神祇を維持するため「神祇官」を拡充しようとし、「准神官」といえる新しい神職=神人を作るため、諸国・地域の禰宜や祝(はふり)を「神人位記」したのであるが、これについて稲葉は「『神人位記』を与えられた社司である禰宜・神主・祝を指す場合がある。(略)、伊勢神宮などの神民(神社の神戸など・川元)の三種類がある」とする(『岩波講座 日本通史 第七巻 中世1』前掲331頁)。朝廷は天皇制以前の地域の神職・ハフリに「神人」号を与えて、天皇制神祇を拡大したのであるが、しかしこの時この「神人位記」は各地の荘園領主に利用され「神祇」ではなく、荘園の利益を追究する「神人」が多数出現して、律令制の崩壊を早めたともされている。
また、この「神人位記」以前に、「神祇官」として働いていた「ハフリ」を朝廷で「祝部」と表記した。つまり皇極天皇期に「殺牛馬雨乞」を行った「祝部」、あるいは地域の「祝」=「神人」=「神戸」は、八世紀半ばにあっても、動物供儀が許されていたのである。
以上、主に天皇の「詔」をみながら、その周辺の史料も取り上げて「差別の原点」としての家畜の「殺生禁断」が、我が国でどのように活用されたか、活用の目的が何であったか、大枠のところでわかったと思う。しかしその発令は、そのまま民衆・百姓に届いたわけでないのもわかることだ。この禁令が民衆・百姓に届いて「部落差別の原因」になるにはまだまだ多くの屈折が起こるのである。その屈折の一つが、今ここで見た「神戸」=「祝部」「祝」=「神人」、その「動物供儀」の構図である。次の節でわかる通り、ここにある「神人」の一部は江戸時代の「穢多」に直結する。こうした事例を前に、本論の当面の課題は、朝廷の神祇官の一部である「祝部」、あるいは本来「ハフリ」と同じ地域の「祝」「神人」が、なぜ「差別の対象」になるのかである。
一つの手掛りがある。
一二八〇年代に書かれた事典「塵袋」(作者不明)は「キヨメヲヱタト云フハ何ナル詞ハゾ」で始まり、「エタ」という言葉が始めて書かれた史料として知られている。その中に次のような表現がある。()内川元。 <>内本文ルビ。
「…其レヲ非人・力タヒ・エタナド、人マシロヒモセヌ、オナシサマ(様)ノモノナレバ(略)天竺ニ旃陀羅(せんだら)ト云フハ屠者<トシャ・ホフルモノ>(ルビ)也。イキ物ヲ殺テウル(売る)、エタ体(てい)ノ悪人也」(『塵袋1』大西晴隆・木村紀子校注・東洋文庫・平凡社288頁)。
ここにある「屠者」には引用文にある通りルビとして和訓の「ホフルモノ」がついている。この「ホフルモノ」の「屠」は「ホフル」であり、『広辞苑』で「体を切りさく。きり殺す。はふる」と解説。「ホフリ」は「ハフリ」であり、これで「ハフリ」=「屠者」=「穢多」の構図が現れるのである。
三 祝・ハフリ→神人→屠者・穢多身分の構図
この節は、少し時間的飛躍があるが「差別の原理」を示すもう一つの史料としてここにある祝・ハフリ→神戸→神人の構図と、江戸時代の部落共同体=「穢多身分」との関係をみておく。普通、平板な発想では、これらの間に何かの関連があるとは思えないかも知れないが、これらの間には「動物供犠」と、そのための「屠殺」の共通項があるのであって、「殺生禁断」令が次々と発令される中、彼らの間にどんな影響と情況が起こるのか、何が「部落差別の原因」を作りだすのか、そうしたプロセスの一つの現実として祝・ハフリ→神人と「穢多」があるだろう。
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疫病除け草履の神人―尾張・島津牛頭天王社
『愛知の部落史』によると分離分断(兵農分離)の前後「神人」がいたのは島津門前町。町の中心に疫病除け神社「島津牛頭天王社」があり、多くの人が参拝した。その人々に一つの習慣があった。参拝に来る時履いた草履を社前で脱ぎ、新しい草履に履替える。「疫病除け」効果があるとされた。この新しい草履を「疫病除け草履」と呼び門前の「神人」から買う。この「神人」が愛知の「かわた・えた」の集落の人で「疫病除け草履」を作って売る権利を持っていた人である(前掲・愛知部落解放・人権研究所66頁)。
◇
エビス掻の神人
「エビス掻」は「鯛を釣ってニッコリ」のエビス像を人形にして操る「エビス掻」「エビス舞」として知られる。摂津国・西宮神社の祭神ともされる「夷神社」が発生源と考えられている。盛田嘉徳は『中世賎民と雑芸能の研究』で、西宮神社の宮司・吉井良尚が書いた論文を紹介、吉井が「かき(掻・川元)は部曲の意で古来広田・西宮両社に隸属せし最も下級の神人」が担った(『民族と歴史』(第一巻第一号)とするのを評価(前掲・雄山閣197頁)。
こうした「エビス掻」はその後「エビス廻し」「エビス舞」として百姓の「御座敷芸」などになり、やがて「人形芝居」「文楽」に変化している。また一方で、太閤検地以後の分離分断で、百姓村から離れた部落共同体―非人・夙なども含む―が「道の芸」ともいわれる「祝福・門付芸」の一つとして、自分のためではなく、多くの人を祝福する芸として演じた。
◇
滝田新宮の神人
奈良・法隆寺の守護神とされる滝田新宮の祭りに欠くことの出来ない部落共同体「下の庄」の人は「神人」と呼ばれた。毎年一月十五・十六日に新宮で「皮引(かわひき)ねり」「皮的張会(かわまとはりえ)」の祭りがある。この祭りについて上野茂は「これらの神事を執行していたのは滝田新宮の神人集団であり、下の庄の人はその神人集団の一員として役務の一端を担った」(『被差別民の精神史』上野茂編・明石書店24頁)とする。また、滝田新宮から約四キロ離れた位置に滝田本宮があり両社の「神」が往来する「渡御祭」がある。この時も下の庄の人が「渡御」を先導する「御前の神人」を担う。(前掲21p)。
このような「神人」について吉田勉は『東日本の部落史 Ⅲ』(東日本部落解放研究所編)で「かわたが祭礼の神人的なキヨメの役割を担う事例は数多く確認されている」(現代書館221頁)と書く。ちなみに私の村(岡山県津山市)の古い村名は「人神」と呼ばれた。村のバス停でその名を使っている。
私の村のバス停
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この「神人」と「屠者」「皮田」「穢多」の関係について渡辺廣は『未解放部落の史的研究』で「歴史の古い部落」に神人がいて神社の祭礼を担うたのを指摘する。紀州では「下級神人に類するもの」(43頁)が「都賀郡中野々村皮田には野上八幡宮の祭礼に先払いしたという伝承がある。従って歴史の古い部落と思われる」「寺社の隷属民(神人・川元)は純粋封建制(江戸時代・川元)の確立のなかで、穢多及び雑種賤民として再編成されたのではなかろうか。この場合屠者的性格の顕著なものは、穢多として取り扱われた」(前掲・吉川弘文館47頁)とする。非常に適切な指摘と思う。
◇
今も祭に「動物供儀」をする「祝部・祝・ハフリ(ホフリ)」がいる。
縄文時代からの伝承とされる長野県諏訪神社は今も神職を大祝(オオホフリ)、祝(ホフリ)と呼ぶ。その祭の一つ「御頭祭」は縄文時代からの狩猟文化とされ、鹿七十五頭の生血が滴る首を神殿に祀り(今は剥製)、その前で村人が鹿の肉を「神人共食」する。この鹿は大祝(ホフリ)、祝(ホフリ)が神社の裏山で狩猟する(『古諏訪の祭祀と民族』古部族研究会編・「呪術の春」田中基・人間社文庫164~185頁・2018年)。
他にも、宮崎県西都市の銀鏡(しろみ)神社で縄文時代からの伝統「シシトギリ」(猪の足跡)の祭りがあり「祝子」(ホフリ)が狩猟した猪の生首を神殿に祀り「神人供食」する(『銀鏡神楽』濵砂武昭・弘文堂・昭和24・82頁)。
これらの祭りは狩猟や肉食を「穢」ではなく「聖」とし、動物の生命としての血や肉を神に奉げて共食するものだ。白川静の『字訓』(平凡社)は「はふり」の項目で「犠牲を供して、けがれを祓い清める」とする。「不殺生戒」が定着しない時期のハフリの世界であり「犠牲」または「動物供儀」によって「けがれを祓い清める」機能があったのを示している。「シシトギリ」について中村生雄は「血を穢とする稲作民的なタブー意識は存在しない(略)」血に染まった猪頭を並べ(略)祝子(ホフリ・ルビ)と呼ばれる舞手によって<神楽・川元>舞われる」(『祭祀と供儀』法蔵館2001年116頁)とする。(引用文の<稲作民的タブー>は仏教の影響があるのを中村は認識している(前掲153頁など)。
★上・諏訪の「御頭祭」。下・シシトギリ<棚に猪の頭>・川元撮影。
二部 部落差別の原因――国家の天候支配
一 ハフリ=神人=屠者がなぜ「穢」か?
◇
奈良、平安時代、朝廷は「天変地異」の原因を「穢」「気枯(けがれ)」とした。
奈良時代末期から平安時代にかけて、天変地異、特に旱魃が起こった時、その原因を「穢」が発生したためと考え、その「穢」が発生している「場」を神祇官と陰陽師が占い、その場所がわかると、検非違使がその場に行って「穢」を排除する。排除すると天変地異が無くなる、とする神仏習合政治を基にした天皇制の信仰があり、その「排除」が国家的イデオロギーとして活用された。特に、朝廷を護持する意味を持つ畿内地域で、その行事と信仰は根強く、しばしば実行された(『平安時代の神社と祭祀』二十二社研究会編国書刊行会・昭和六十一年「平安時代の祈雨奉幣」並木和子145頁)。
◇
この場合の「穢」は平安時代の諸制度を成文化した「延喜式」の「穢忌」の条項にあたると考えて大きな間違いはないだろう。その「穢忌」は次のようだ。()内川元。
「人死限三十日。産(出産)七日。六畜(牛・馬・羊・犬・猪・鶏)死三日。其喫肉(その肉を食う)三日」(『新訂増補 国史大系 交替式・弘仁式・延喜式前編』吉川弘文館68頁・69頁)。
「延喜式」の「忌穢」(穢の排除・川元)は、当時朝廷儀式を軸とした天皇・貴族たちを規制するものと考えられたが、しかしそれはやがて社会全般に拡大していくとするのが多くの見解と思うが、その拡大の一つの具体的きっかけが、国家による「天変地異」の制御、強いていえば「天候支配」のイデオロギーといえるだろう。同じ「天変地異の制御」は、世界中どこでも民衆の願望であり、殊に水耕稲作の歴史・文化のわが国で、その願望は「百姓」のものともいえるのであり、現実的に深刻な情況をもたらすことはしばしばあった。だが、残念ながら「天候支配」は今も人によっては不可能なのだ。奈良、平安時代ならなおのこと、それは「虚像のイデオロギー」であった。
そしてその「天候支配」はわが国で神仏習合政治の基、独特の「虚像」を作り上げていく。
◇
祝部・祝・ハフリが「動物供儀」(殺牛馬)の「雨乞」をした歴史。
本論の冒頭[一の②]で示したように、六四二年皇極天皇期の「雨乞」にある「村々の祝部(はふり)(神官)の教えに従って、牛馬を殺して諸社の神に祈った」は、雨乞が動物供儀(殺牛馬)によるものなのを示す。こうした動物供儀の歴史はハフリの歴史とともにかなり古いと思われるが、皇極天皇期以前の記録は見出せない。しかし、その後の十世紀の「延喜式」では祝部・ハフリによる動物供儀(殺牛馬)の雨乞が記録されている。
「延喜式」(九二七年)四時祭条は朝廷が最も大切にした祭としての「祈年祭」(豊年・豊作を願う)について、その式次第を記述する。()内川元。「大神宮。渡会宮(両社は伊勢神宮)各加馬一匹」(両社に馬一匹加えよ)。「御歳社加白馬、白猪、白鶏各一」(稲・穀物の神に白馬、白猪、白鶏を加えよ)」「高御魂神、大宮女神(略)吉野・巨勢・賀茂(略)水分(みくまり・ルビ)の十九社には各馬一匹を加えよ」(『新訂増補 国史大系 交替式 弘仁式 延喜式前編』吉川弘文館10~11頁)とある。(最後にある十九社と先の伊勢神宮の二社を加えて畿内の「祈雨止雨奉幣社」の二十一社。「延喜式」の後日吉神社が加わり二十二社となる)。
この式次第の「馬」について延喜式編さん委員の一人、三善清行は「意見十二カ条」で「左右の馬寮、神馬を牽き列ぬ。(略)諸社の祝部に頒(わか)ちて、本社(自分の社)に奉(供犠)ぜしむ」(『日本思想大系8 古代政治社会思想』80頁)と書いている。「祝部」の「動物供儀」「殺牛馬」による雨乞がこの時代も続いていたのが示される。本論[一部の二]にある天皇による「殺生禁断」「肉食禁止」令としての「詔」とは異なって、国家による「天変地異制御」「天候支配」のイデオロギーに基づいて「神馬」(天皇が授ける馬)が授けられ行われたことになるが、一部の神社で(次に見る奈良の丹生川上神社など)で「動物供儀」「殺牛馬」が止められてもいた。これは天皇による「詔」のせいと考えてよい。つまりそうした二面的傾向にある「延喜式」では、仏教伝来以前の習慣が断ち切れなかった時代でもあると思わる。その具体的典型が、先の淳仁天皇の「詔」にある「神戸」や、「神戸」の実態としての地域にいる祝・ハフリが動物供儀や肉食を許される事情にあるといえるだろう。
◇
以上見てくると、六世紀に始まった神仏習合政治による「不殺生戒」「殺生禁断」は、当時は政治にかかわる天皇・貴族・僧侶の間での制約であり、一般民衆にはあまり関係なく、拡大もしていなかったといえるが、しかしやがて一つの大きな転換、「逆転の構造」ともいえる変化が生まれる。天皇や貴族・僧の間では「不殺生戒」「殺生禁断」「肉食禁止」が守られ、それを「聖」「浄」「善」(仏教の戒律を守る<善>)とし、その反対の者、つまり「不殺生戒」「殺生禁断」「肉食禁止」を守らない者を「汚穢」「咎」「悪行」「悪業」などとする信仰・観念・思想が強くなるのである。その傾向は「延喜式」より少し前から始まっていた。
そうした傾向を八九五年・丹生川上雨師神(雨乞の神社)の記録にみることが出来る。
現代は丹生川上神社と呼ばれるが、古くは「丹生川上雨師神社」と呼ばれており天皇・国家による「雨乞」の「動物供儀」「殺牛馬」の「馬」(神馬)を授けられる神社だった。しかし八九五年、当神社の「祝」たちによって次のように書かれる。「当社は昔より朝廷の幣帛として馬<神馬>を請け」たが実際は殺さずに「放牧」していたとするのである。「放牧」の時期が明確でないが、ともあれ、ここにある「放牧」はこの社の神官としての「祝」(ハフリ)達が仏教化して戒律を守っている姿だ。そしてさらに、本論で注目するのは、「放牧」に続いて書かれる民衆の姿だ。それらを含んだ記録は次のように続く。()内川元。
「丹生川上雨師神祝祢宜等解状偁。(略)自昔至今奉幣奉馬。仍四至之内。放牧神馬。禁制狩猟。而国栖戸百姓并浪人等。寄事供御。奪妨神地。屢触汚穢動致咎祟」(丹生川上神社の祝(はふり・神戸から選ばれた)禰宜がいうには、当社は昔より朝廷の幣帛として馬(神馬)を請け、神領で放牧し、神領を狩猟禁止としている。とはいえ領内の国栖戸(くずへ・先住者)百姓や浪人らが、供御(動物供儀なのは文意でわかる)にことよせて神地・神領を奪い、汚穢に触れ、咎祟(とがたたり)を致す)(『新訂増補 国史大系 類聚三代格 前篇』吉川弘文館12頁)だ。
この記録によって、先の諸天皇による「詔」=「殺生禁断」が、国家に順応する地域の「大社」で有効に影響し、動物供儀のための「神馬」が殺されずに「放牧」されている様子がわかる。とはいえ、その領内に住む一般民衆、記録でいう「百姓・先住民」は、国家・中央とは関係なく、仏教の影響もないまま、伝統的な祭り(動物供儀を含む諏訪神社のような神事)を、地域の産土神などで行っていたのがわかるのである。しかも国家・中央はそれを「汚穢」「咎祟」と考えているのが明確にわかるものだ。この記録で、諸天皇が「詔」した「殺生禁断」が、一般民衆の間ではまだまだ効果がなく「供御」が行われていたのがわかり、神仏習合を基にした国家、その国家イデオロギーが一般民衆の「供犠」を「汚穢」「咎祟」とみているのがわかる。そしてこれが、動物供儀、そのための「殺生」「屠畜」「屠(ほふり)」を「穢」とみる神仏習合政治の視点、思想であろうが、こうした視点、思想に私は「差別の原点」が民衆に拡大するプロセス――その原理――の最終点、同時に視点をかえれば「部落差別の原因」の端緒をみることができる。
つまり、こうしたプロセスが諸国の「屠者」「屠児」、または一部の「神人」に集中するブロセスなのである。
またこの記録で丹生川上神社に「祝」(はふり)がいたのがわかる。この「祝」は朝廷に従っており「差別」されることはなかっただろう。しかし一つの仮定であるが、ここにはもう一つの可能性がある。「汚穢」「咎祟」とみられた民衆の儀式(この記録では「供御」)は、この時代での一般論として、それを地域のハフリ・神職が行ったのは、ほぼ常識といえるだろう。そしてそうだとすると、同じ「ハフリ・、祝・神人」でも、差別されるかされないかは、このようにして別れていく。
先にみた渡辺廣はこうした「神人」を「神社の隷属民」と一方的にいうので限界を感じるが、それでも彼はこの神人について「穢多及至雑種賤民として再編成された(略)この場合屠者的性格の顕著なものは、穢多として取り扱われた」『未解放部落の史的研究』(前掲47頁)としており、的確な指摘と思う。先の「ハフリ=神人=屠者=穢多」の構図の証明でもある。
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九四八年頃になると、天変地異を防ぐために重要な位置あった「雨乞」のため、天皇が諸国に授ける「神馬」を殺さずに「放牧」する傾向だけでなく、天皇・国家が授ける「神馬」そのものが他の物に変わる傾向が起こる。それは、「神馬」を生き物としてではなく「絵」にしたもの。現代でもよく知られる「絵馬」である。最初に「絵馬」が授けられたのは先の丹生川上神社と京都・貴船神社のようだ。
「類聚符宣抄」の天歴二(九四八年)六月条では丹生川上神社と貴船神社に「板立黒毛御馬」が朝廷より授けられた(『新訂増補 国史大系27』(吉川弘文館・平成十一年)53頁)とする。この「板立」が「絵馬」の板なのだ。これについて貴船神社社頭の案内板「絵馬発祥の社」で「旱天には黒馬、霖雨(長雨・川元)には白馬又は赤馬をその都度献けて(朝廷が・川元)御祈願される例になっていました。しかしときには生馬に替えて『板立馬』を奉納した」としている。つまり朝廷は雨乞のために生きた「生馬」「神馬」に変えて「絵馬」を授けている。これは神仏習合政治の「不殺生戒」「殺生禁断」によるものと考えて間違いないだろう。
二 「穢れの排除」と天候支配――部落差別の原因
「天候支配」が主要な目的となっていく国家的イデオロギーとしての「不殺生戒」「殺生禁断」であるが、それが国家に順じる「式内社」など「大社」とも呼ばれる神社を通して社会に浸透していく様子が少しずつ見えていると思うが、もう一つの経路があった。平安時代の後期、「延喜式」が施行される十世紀半ばになると、畿内にあっては、その天候異変、殊に「旱魃」や「長雨」を防ぐため、丹生川上神社、貴船神社、加茂神社など含めた「祈雨止雨奉幣二十二社」が特定され、旱魃など天変地異が起こるとその原因を「穢の発生」とし、それが発生している場所を朝廷の神祇官と陰陽寮が占って特定し、その場に検非違使が駆けつけて、その「場」の「穢」を排除する制度てある(『平安時代の神社と祭祀』二十二社研究会編・図書刊行会・並木和子「平安時代の雨乞神事」昭和61年145頁)。この制度が国家・中央による具体的な「穢れの排除」の端緒があり、この制度での「穢れの排除」の現場が、つまり、一般民衆の生活の場であり、それが「部落差別の原因」に繋がっていく。
ここでいう「穢」は、平安時代の制度を成文化した「延喜式」の「忌穢」「人死限三十日。産(出産)七日。六畜(牛・馬・羊・犬・猪・鶏)死五日。産三日。其喫肉(その肉を食う)三日」(『新訂増補 国史大系 交替式・弘仁式・延喜式前編』吉川弘文館68頁)と考えてよいだろう。ここでも主要な「穢」が「六畜」として家畜に絞られるのが特色といえる。
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「殺生禁断=天変地異制御」――天候支配
このように、いくらか変形した部分を含めた神仏習合政治に基づく「不殺生戒」「殺生禁断」であるが、鎌倉時代になるそれは明確に「天候支配」、あるいは自然支配といえる信仰・イデオロギーとして民衆の生活の「場」、その生産活動の「場」に現れる。
平安末期から鎌倉中期までの政治記録である『百錬抄』(著者不明)の一一二五)年(天治二年)十二月二十七日条に「此年以後、殺生禁制殊甚」とし、実際に諸国で魚網を焼き捨てる様子が書かれる。そしてその次の年(一一二六)の十二月二十七日条に「今年五穀豊稔(略)殺生禁断之報」<今年は五穀豊穣である。それは殺生禁断の応報>と書かれる(『新訂増補 国史大系第十一巻 日本紀略後編 百錬抄』吉川弘文館56頁)。つまり殺生禁断が天変地異を制御し、豊作をもたらしたと認識しているのである。
岡田重精は『斎忌の世界―その機構と変容』で「この時代の特性は院政から幕府政治への移行変遷の時期であるが(略)こうした時代背景とともに天災地変が関心の対象とされ、現実的にも種々の災変が多発し」「また、殺生禁断は仏教の六斎日とは別に、むしろ災変に際して令示<幕府の禁令>された」としている。(前掲・国書刊行会163~165頁)
ここにある「五穀豊稔」が「殺生禁断」の「報」との認識は、まさにこれまでの、例えば諸天皇の「詔」にある、その目的としての「天変地異」を防ぐための「殺生禁断」と同質であり、「詔」も含め、国家的イデオロギーが達成されたものといえるのであり「水耕稲作」を基軸とする人々、民衆に与える影響は、限りなく大きいと思われる。
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先に[一部二]で「ハフリ」=「屠者」=「穢多」の構図としてみた一二八〇年代の事典「塵袋」は「キヨメヲヱタト云フハ何ナル詞ハゾ」で始まり(カッコ内川元)「…其レヲ非人・力タヒ・エタナド、人マシロヒモセヌ、オナシサマ(様)ノモノナレバ」(『塵袋1』大西晴隆・木村紀子校注・東洋文庫・平凡社288頁)としている。
一三世紀末にあってこのような表現ができたのに驚くのであるが、これは「天変地異」の発生源とみなされた「場」の「穢の排除」が早くから始まっていた畿内の特色と思われる。こうした発想が時間をかけて地域社会に広がるのは、中世から近世にかけて、東北地方をのぞいてほぼ全国に発生した「宮座」を媒介にしていると考えられる。
先にみた滝田神社の「神人」は神社の運営に携わる「皮座」の内にあり「皮座」は「宮座」の内にある、そうした関係である。そして、滝田神社の「神人」である部落共同体「下之庄」は、江戸時代には「一村独立」しているが、彼らが構成する「皮座」には、被差別者だけでなく「平民」も構成員なのがわかっている(『被差別民の精神史』上野茂編・明石書房23~24頁)。こうした「皮座」「宮座」の構成は太閤検地以降の「百姓村の分離分断」(いわゆる「兵農分離」「農商分離」)以前からの姿と考えられるだろう。
滝田神社の「皮座」「宮座」について私はこれ以上調べていないが、一般論として、近畿地方は、「百姓村の分離分断」以前、つまり「皮田」「穢多」が百姓村に共存していた時代、全国に先駆けて「住み分け」が行われていた。一つの「村」に共存していた「皮田」「穢多」が、同じ村の中で一定の「場」に集住する形態である。
この、畿内地域の「住み分け」は、畿内で平安時代から始まっていた「天候支配」の国家的イデオロギー、虚像のイデオロギーによる「穢の排除」に関係すると私は思う。「塵袋」の「人マシロヒモセヌ、オナシサマ」とは、こうした現象を異なった視点から見ているのではなかろうか。そして「百姓村の分離分断」は、畿内の「住み分け」をより決定的にしたといえるもので「穢の排除」としての差別をほぼ全国的に拡大する、そうした契機だったと思われる。
またここでは、もう一つ注意したいことがある。太閤検地以後の「百姓村の分離分断」は、「差別分断」のためではないことだ。
戦国時代を経て諸国の「分国」大名を制圧した豊臣秀吉は、その大名達の抵抗力・戦力の源を十分知っていた。その戦力は「分国」内の村々にいる百姓――農業を軸に生きる様々な職能者、大工や鍛冶屋、皮田など多様な職業――が、その職能を集合し、分業関係をもつことで自立した自主的戦力を形成できたことだ。秀吉もそのようにして「天下統一」した。だから「統一」後、諸国の戦力を解体するため、その分業体を解体する必要があった。それが「百姓村の分離分断」である。「分離分断」の後、それら諸職は「消される」のではなく、「統一国家」に従属する。その時期、皮革製産を主な専業とする部落共同体が「一村独立」するが、それは近畿地域で先行していた「住み分け」に等しくて、そこに国家による虚像のイデオロギーとしての「天候支配」=「穢の排除」が集中する。しかしその時は、或いはその後は、虚像のイデオロギーとしての「天候支配」を忘れても、元々「虚像」なので、それを忘れても現実は何も変わらなかった。そして現実的に強まった「肉食禁止」共に、あたかも社会的習慣のように「社会的構造」として続いたといえるのではないか。
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いうまでもなく、ここにある国家的イデオロギーとしての「天変地異制御」、つまり国家による「天候支配」は、自然現象としての「天変地異」または「順天」の「法則」をまったく無視した「誤認」によるものであり、「虚像」そのものだ。したがってこれがこの後、「部落共同体」に集中するとしても、それは根拠のない「偏見」が集中するのであり、部落差別の解消は、とりもなおさず、この「偏見」の是正から始めるのがより適確で効果的と思う。しかもそれは、ここでみた「部落差別の原因」を理解、認識すれば、誰でもいつでも自分の思考によって是正できるはずである。
――了――
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1151:210119〕