都心から自宅まで歩いて帰る -首都直下型大地震の日に備えて-

著者: 安原和雄 やすはらかずお : ジャーナリスト・元毎日新聞記者
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 私はすでに後期高齢者2年生である。住まいは東京都のはずれであるが、都心にはしばしば出掛ける。たまたま都心に居て、予想されている首都直下型大地震に遭った場合、どうするか。「いのちあっての物種」だが、大破壊と大混乱、交通機関完全麻痺の中で果たして自宅まで帰ることが出来るかどうか。これは今後の人生を左右しかねない大テーマではある。
 そこで自らに訓練を課すことを思いついた。歩いて帰ってみよう、と。思いつきは直ちに実行しなければ意味がない。しかも誰か連れがいないかなどと思案していては、「まあ、そのうちに」と怠け癖に捕まりかねない。一人旅に限ると、ハラを決めた。(2011年5月20日掲載)

▽ 上野駅前から歩き始めて、日光街道へ

 自宅まで歩いて帰るという思いつきは、毎日新聞5月9日付夕刊(東京版)の特集ワイド<頻発する大地震 地球全体が警戒期 足音高まる「首都直下」>を読んだことによる。この記事は次のように指摘している。

 首都直下地震の足音も高まっている。地震調査委員会の推計では、1923年の関東大震災と同タイプの地震(M7.9程度)は、30年以内の発生確率は0~2%だが、南関東で起こるM7程度の直下型地震となると、70%にはね上がる。
 河田恵昭・関西大学教授(巨大災害)は、「関東大震災級の地震は約200年周期だが、その前に直下型地震が発生している。発生確率70%は無視できない数字だが、意識していない住民が多い」と嘆く。
 国の被害想定では、このタイプの一つ「東京湾北部地震」で最大1万1000人が死亡し、建物や生産額低下などの経済被害は112兆円にも及ぶ、と。

 さて都心から歩き始めるとすると、東京駅前辺りということになるが、今回は上野駅前からに歩行距離を縮めた。それでも自宅までなら20㌔近くを歩くことになる。
 5月16日(月曜日)、天気は快晴で、遠足に最適の日和である。午前10時半、リュックサック姿で上野駅前の昭和通り歩道を出発、やがて日光街道(国道4号線)へと脚を踏み入れて、順調に進めば、5時間足らずで我が家に着くはずである。
 普段は都心の銀座につながる地下鉄日比谷線(東武伊勢崎線へ乗り入れ)を利用しているので、このコースを歩くのは初めてであり、クルマで走ったこともない。私はマイカーは持っていないし、地方ならともかく、公共交通(山手線、地下鉄、バスなど)の発達している東京では日頃、クルマで移動する必要はないと考えている。だから公共交通のほかには歩くことが私にとっては自然な移動手段である。
「3.11」大震災後は東京では多くの駅でエスカレーターが止まったままてあるが、以前から私はエスカレーターには依存しない流儀で、原則として階段(深い地下鉄では60段程度ある)を一段一段踏みしめて利用してきた。

▽ 歩きながら観察し、思い、考えたこと

*クルマ中心、歩行者軽視の道路事情
 千住方面へ向かって歩道を歩き始めて間もなく交通標識に気づいた。「宇都宮104km 春日部28km 三ノ輪3km」とある。車道ではクルマが騒音を撒き散らしながら次々と走り抜けていく。
今さら指摘するまでもなく、周知のことだが、車中心の道路づくりから一歩も抜け出そうとしない行政の姿勢を痛感する。ヨーロッパでは自転車道づくりに積極的だが、これに反し日本では特に過密東京では消極的といえる。道路を渡るには歩道橋を上り下りする以外に手はない。それに公衆トイレがない。クルマが走り抜けるためだけの「車中心、歩行者軽視」の道路事情というほかない。
そこへ「首都直下」が襲ったら、どうなるか。「3.11」の東日本大震災のときでさえ、クルマの流れは停滞し、地下鉄など交通機関は数時間も完全停止となり、疲れた足どりで近郊へ帰宅をめざす人並みが道路を埋めつくした。「首都直下」X日には想像を絶する大混乱となるに違いないだろう。

*日本人の皆さん、もっと歩こう!
 隅田川をまたぐ千住大橋のかなり手前で前方からよろよろと歩いてきた80歳代と思われるご老人に道を確認するために声をかけた。
 「北千住方面へ行くにはこの道を進めばいいのですか」と。「そうだ。歩いて行くの?」と逆に聞かれたので「そうです」と答えたら、「ふ、ふ、ふ」と小さく笑った。感心したのか、それとも物好きな、と思ったのかそこはわからない。
 幹線道路脇の歩道をリュックを背負って歩いているのは、私以外には誰一人いない。それにそもそも歩いている人が少ない。「日本人の皆さん、もっと歩こう!」と大きな声で叫びたくなったが、その衝動を抑えながら苦笑するほかなかった。

*松尾芭蕉と徳川家康と
 やがて千住大橋に辿り着いた。橋の脇の立て札に橋の由来が次のように記されている。

千住の大橋とも呼ばれている。最初の橋は徳川家康が江戸城に入って4年目の文禄3年(1594年)に架けられた。隅田川では一番先に架けられた橋である。(中略)松尾芭蕉が奥州への旅で、見送りの人々と別れたところもここである。
 現在の鉄橋は関東大震災の復興事業で昭和2年(1927年)に架けられ、近年の交通量増大のため、昭和48年(1973年)新橋がそえられた。
 昭和59年3月 東京都

千住大橋を渡った対岸脇に大きな「おくのほそ道行程図」が掲げてある。都心から我が家までわざわざ大地震に備えて歩いてみるのは、粋狂ともいえるが、同じ粋狂なら「おくのほそ道行程図」をいつの日か踏破してみたいと心に夢を描きながら、再び歩き始めた。

*脚のしびれで中途で断念
 ところが脚が思うように前に出なくなってきた。歩けば歩くほど脚が重くなる。実は今年始めから脚にしびれを感じるようになり、専門医の見立てによると、「腰部脊柱管狭窄症」だそうで、リハビリに取り組んでいる最中である。今回の歩く試みは、友人の助言もあり、歩きながら病を克服できないか、実験してみようという心積もりもあった。
しかし思いのままにはなりにくいのがこの世の常でもある。これでは中途で断念するほかないと考えて北千住駅へたどり着き、電車に乗った。午後1時過ぎであった。上野駅前から地下鉄ならわずか10分ちょっとのところを2時間半(休息を含めて)かかったことになる。
 一夜明けて翌日、脚の調子はどうなるか、気がかりであったが、幸い脚の重さはどうにか消えた。機会を見つけて今度は都心からの全行程を歩き通してみたいと思っている。

▽ あの「3.11」と私の行動 ― 友人への手紙

3月11日の東日本大震災の余波で東京でも死者が出るなどさまざまな被害が発生した。以下は、当日、地下鉄にたまたま乗っていて、8時間も地下に閉じこめられるという苦痛を味わった友人からの便りに対する私の返信(大要)である。

 「3.11」の大地震の折、東京の地下鉄に乗っていて、「8時間も地中で過ごした」そうで、未経験の者には想像を絶する難儀を体験されたわけで、その苦衷のほどは察するに余りあるところです。しかし見事に無事帰還となった次第で、安堵感と喜びを共有させていただきます。

 さて拙宅では本が書棚から崩れたり、食器が棚から墜ちて壊れるなどにとどまって、幸い格別の大きな被害はありませんでした。
 実は当日夕刻から都心での会合が予定されていましたが、脚にしびれを感じていたため、出席を断って、地元の図書館で調べ物をしていたとき、グラッと大揺れが来ました。揺れが収まって、図書館員が余震に備えて図書館脇の広場に避難するよう指示しました。
 30人くらいが指示に従って集まりました。しかしマニュアル通りの指示に従う必要はあるだろうか、いったん指示に従うと、避難場所から自由に抜け出すのがむずかしくなるだろうと考えて、直ちに近くのバス通りに向かい、タクシーを拾いました。何年ぶりかのタクシー利用です。大揺れの直後でバス通りはがら空きであり、10分ほどで帰宅できました。バスを利用すると、30分は十分かかる距離ですが、地元のタクシーで地理や道路事情に明るい運転手だったのが助かりました。

 今にして思えば、都心での会合出席を事前に断っていたこと、住まいの地域にいたこと、タクシーの運転手に恵まれたこと、などが良循環となって働き、結果として大事に至りませんでした。これも脚のしびれのお陰といえます。脚が健在であれば、都心での会合に参加するために、大揺れの瞬間は地下鉄に乗っていたかも知れません。
 「運が良かった」の一語に尽きるように思います。中国の「人間万事塞翁が馬」の故事を思い出させます。「禍福は糾(あざな)える縄の如し」とも言います。次の災難のときは果たしてどうなるか? 「福」が続くか、それとも「禍」に転じるか。それこそ「人智の及ぶところではない」のでしょう。自然体で生きるほかないということでしょうか。

初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(11年5月20日掲載)より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
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