(2022年4月14日)
今朝の毎日の第11面「激動の世界を読む」シリーズに、酒井啓子・千葉大教授の骨太の論説。ネットでは有料記事のようだが、読むに値する内容。こんな信頼できる論説を読めるのだから、新聞というものは実に廉い。
https://mainichi.jp/articles/20220414/ddm/004/070/017000c
《「侵攻」をめぐる二重基準》《ゆがめられる国際規範》という二つの大きな主見出しに、『難民対応でも違い』『「現状」とは何か』そして、『論理酷似する米露』という小見出しが付いている。
キーワードの第1は、「二重基準」である。
アフガニスタン戦争、イラク戦争など米国の軍事介入と、今回のロシアのウクライナ侵攻。同じ「大国による現状変更の軍事介入」でありながら、国際社会は「よい介入」と「絶対悪としての介入」と極端なダブルスタンダードの評価をした。
そのことが難民対応の違いともなる。ウクライナ難民に対して、日本などはもろ手を挙げて受け入れを表明した。一方、シリアやイラク、イエメンなど、同じく外国の介入が原因で難民化し、受け入れを何十年も待ち続けている人々が、ウクライナ難民優先で放置される。
キーワードの第2は、「現状変更」である。
「武力による現状変更」というときの「現状」とは何か、という問題である。欧米の言う「現状」がソ連崩壊後の国際秩序であるのに対して、ロシアにとっては、帝国期からソ連時代に至るロシア文明圏の維持が、あるべき「現状」なのだろう。
何が「維持されるべき現状」なのかを決めるのは、戦争の勝利者である。勝利者のルールに阻まれて失地が回復できないなら、自らが勝利者となるしかないと考える力の論理が横行する。
キーワードの第3は、「米露の論理酷似」。
20年間の「対テロ戦争」で多大な負担と損害を被って、米国は介入先から撤退した。だが、米国が多用した正当化の論理は、そのままロシアに引き継がれている。自派勢力に武器と義勇兵を投入し、それを正当化するために人道と正義をかざすなど、そうした軍事介入での手法が常とう化され、米国からロシアに継承されている。
そして結論が《ゆがめられる国際規範》を正さねばならないということ。
国際規範が大国によって徹底的にゆがめられ、恣意的に利用されてきたために、規範としての信頼性が失われている。今、国際規範が無力なのは、大国の武力による利益追求を正当化する口実でしかないと、矮小化されているからである。
ロシアのウクライナ侵攻と、アメリカの「対テロ戦争」の反省は、私たちに、欺まんにまみれた国際規範を正し、その汎用性を高める努力の必要性を訴えている。
要約すれば以上のとおりだが、感想を付け加えたい。
私は、ベトナム戦争以来、軍事超大国アメリカこそが不合理な世界秩序における不正義の元兇と考え続けてきた。湾岸戦争ではその立場で、「ピースナウ・市民平和訴訟」に取り組んだ。不正義なアメリカの戦争に加担してはならない、との基本姿勢である。その後のアフガン戦争、イラク戦争と、私の信念は強化された。
酒井教授の言う、「二重基準」はそのとおりである。が、今批判を集中すべきはプーチンのロシアであって、アメリカではない。ウクライナやNATOの不手際でもない。
プーチン・ロシアの手口は、アメリカの軍事介入にも、皇軍の侵略にも酷似していることを忘れない。徹底してプーチン・ロシアを批判し、その侵略批判の国際世論の高揚をもって、アメリカも旧日本軍も、あらゆる国の侵略と人権侵害を許さない平和をつくるよう努めたい。そして、少なくともウクライナ難民の受け入れの程度には、我が国の難民対策を改善しなければならない。「二重基準」の解消は、平和と人権を尊重する方向で行われなければならない。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2022.4.14より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=18967
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion11947:220415〕