はじめに
最近、日本では報道される機会がめっきり減ったものの、今回の薄熙来の解任でいわゆる重慶事件の真相のすべてが明らかになったわけでなければ、中国のトップリーダーたちの間で繰り広げられてきた権力闘争に、最終的な幕が下ろされたわけでもない。いつものこととはいえ、この一党独裁国家における情報の根源的非公開性ゆえに、むしろ謎はますます深まるばかりである。
たしかに、89年の天安門事件以来の政変とも呼ばれた今回の解任劇とは、長年にわたる経済改革と開放政策の努力に背を向ける人物として温家宝が薄を断じることで、その政治手法をめぐり、「政治改革の推進か、文化大革命という歴史的悲劇の再来か」の選択を迫るものであった。その特異ともいえる手法とは、「紅を歌い(唱紅)、黒を打つ(打黒)」、すなわち、毛沢東や中国共産党を讃える文化大革命当時の革命歌などを歌い、かつ黒社会(マフィア、暴力団)を追放するという名目で、実際にはそれとはまったく逆に、自らとは政治的に対立する善良な市民をつるし上げ、きちんとした法的手続きも経ずに冤罪のまま無辜なる人々を弾圧していくという、いわば文化大革命の二番煎じともいうべきものであった。だが、これらは明らかに、市場経済そのものは否定せずに、毛沢東時代への部分的回帰を訴える国家統制派、すなわち「旧左派」に属する「保守派」への人気取りによって築かれた権力基盤をよりどころにして繰り広げられたことである。このことを思想史的に見た場合、この10年余りの間にその影響力を拡大してきた、いわゆる「新左派」(=新保守派)の直接・間接関与を指摘しないわけにはいかない。
ここでは、こうした政治的対立を生み出している中国の政治・思想的背景をめぐり、いわゆる「新自由主義派」と「新左派」との対立構図の中で、今回の重慶事件を歴史的、かつ思想的に分析し、今後の中国における政治改革の可能性を探る。
1、重慶事件のあらましとその政治的背景
薄熙来の側近、王立軍重慶副市長が今年2月7日、成都の米総領事館に保護を求めたが拒否され、北京に連行されたという報道を契機に、日本でもその事件の内幕が徐々に明らかにされていった。政治局委員でかつ太子党として知られる薄熙来は2007年、いったん重慶に左遷されたものの、そこで暴力団撲滅・毛沢東讃美で胡錦濤政権に挑戦していく。だが、やがて数々の冤罪の訴えに対する追及を浴び、王立軍による「トカゲのシッポ切り」に追い込まれる。元趙紫陽の側近であり、保守派・軍の反発が根強い温家宝は、3月半ばの演説で、「この社会問題の解決を図らないと文革再来の恐れがある」と語った。この重慶の「運動」では、多くの民間実業家が無実の罪で極刑に処されたり、資産を没収されつつ、80日間で33,000件の刑事事件が摘発され、9,500人が逮捕されたという(『産経新聞』、3月16日)。薄熙来は舞台裏の工作という不文律を破って、毛沢東に似た大衆迎合の政治的手法を用い、指導層を恐れさせた。しかも、ここで重要なのは、薄熙来がいまだに最高実力者としての影の力を及ぼし続けている江沢民の支援下にあった、ということである。その重慶支配の実態とは、犯罪の捏造、拷問による自白、実業家の恐喝、薄の敵対者への復讐、身内への利益供与等であったにもかかわらず、9人の常務委員中6人が、「打黒」運動が始まった2009年以後、足しげく重慶詣でをしていたという事実は、そうしたトップリーダー周辺をめぐる権力構造が背景にあったことを如実に物語っている。
1989年の天安門事件を契機に政治的には完全に排除された趙紫陽とは異なり、いまも政治的な基盤を残しているのが胡耀邦であり、89年4月の胡の死去に伴い、そのあとをついだ改革派の趙紫陽を補佐していたのが温家宝である。87年の「反自由主義」運動の手法と思想が文化大革命の流れを汲むものと考えていた胡耀邦は、当時の状況を「中堅の文革」と呼び、その後も「小さな文革がくるだろう」と警告しつつも、「やがてそれは歴史の表舞台から徐々に消えていくだろう」との認識を示していた(News Week、4月25日)。この意味でいえば、今回の重慶事件とは、まさにこの「中堅の文革」の再来であったといえる。こうした薄熙来の手法が「重慶モデル」と呼ばれるのに対して、その対極に位置づけられるのが新自由主義的「広東モデル」である。これらは実際の政治、経済、社会をめぐる諸政策に具体的に反映されているという意味では、中国共産党の路線対立そのものでもあった。いずれにせよ、このことが毛沢東時代への部分的回帰を訴える国家統制派、すなわち「旧左派」に属する「保守派」と「新自由主義派」との現実的対立構図を生んできたことだけはたしかである。こうした現実政治の背後で、思想的、かつ学問的に対立してきたのが、いわゆる「新自由主義派」と「新左派」に他ならない。
2、「新自由主義派」と「新左派」との対立構図
この30年間にわたって国家の開発戦略として採用されてきた「改革・開放」政策の下、中国では「社会主義市場経済」という名の新自由主義的な経済システムが拡大していった。このことが二桁成長という高度な経済発展を実現する一方、とりわけ都市と農村との間の貧富の格差を急激に拡げていったことはいうまでもない。グローバリゼーションが急速に進展した1990年代の後半以降、こうした社会的不公平さの発生原因とその是正のための方策をめぐり、その問題の根源を市場経済化の不徹底と見る「新自由主義派」と、市場経済化を資本主義化そのものととらえるいわゆる「新左派」とが対立してきた。両派の対立は主に、(1)「新自由主義派」が「効率性」を重視するのに対し、「新左派」は「公平さ」を重んじ、(2)「新自由主義派」が公平性の基準として「機会の平等」を、「新左派」が「結果の平等」を取り上げ、(3)「新自由主義派」が不公平社会を生み出した原因を市場経済化の不徹底と政府の市場への不適切な介入であるとしつつ、私有財産制の確立と市場主義原理に基づいた所得の分配の必要性を主張するのに対し、「新左派」は私有財産と市場経済化自体を問題視し、公有制の維持を提唱し、(4)「新自由主義派」がグローバル化を基本的に肯定するのに対し、「新左派」は反対の立場をとるというものであり、二つの陣営ではこれら四つを主な基軸として、多くの論争が繰り広げられてきた。この思想・学問レベルでの論争では、前者が基本的に大勢=体制派を占めつつも、とりわけ2008年の経済危機以降、農村では農地を失い、はるばるやってきた都市では不安定な職さえ失うといった農民工や、先進国並みに拡大する非正規雇用、そしてワーキングプアといった社会的現実の展開など、いわば「新自由主義的」市場経済政策の行き詰まりをめぐって対立してきたといえる。
だが、毛沢東時代に駆使された国家統制の論理の「部分的」導入によって新自由主義を批判する「新左派」の台頭とは、清末の洋務運動(「中体西用」)以来、往々にして前近代的なものをその内に含む「伝統社会」へと回帰する中で「革新」が図られてきた中国では、ある意味で、きわめて自然な成り行きともいえる社会現象であった。ちなみに、中国の社会主義市場経済を新自由主義の一形態とみなす議論は、D・ハーヴェイの『新自由主義』(作品社、2007年)でも扱われたことから、いまでは一般的な見方として、中国国内ばかりでなく、国際的にも広く受け入れられている。
とはいえ、実際の政治のレベルでは、旧社会主義的原理の復活を唱える「新左派」の論理でさえ、市場経済至上主義に対する有効な対抗手段とはなれずにきたというのが、これまでの厳然たる事実である。それは一言でいえば、その政治的主張が毛沢東主義を讃える「旧保守派」の言説を「批判的に」補完するものにとどまっていることに由来している。たとえ「新左派」がどれだけ「主観的」にそのことを否認したとしても、その政治的機能を多かれ少なかれ「客観的」に果たしながら現実化しているのが今回の重慶事件である以上、その基本的主張に対する結果責任(M.ウェーバー)が厳しく問われることは、国内的にも、国際的にも、もはや免れ難いことであろう。
これに対して代表的な「新左派」の知識人の一人で、日本でも大きな影響力を持っている汪暉(清華大学人文社会科学学院教授)は、おそらく批判の矛先が自分に向けられていることを敏感に察したからであろうが、こうした「文革の再演」論が「何の根拠も持たない」ものであり、「それは空洞化したイデオロギーに基づいて作り出されたもの」として、「新たな新自由主義改革のための政治条件」を作り出している、などとする自己弁護の論を公然と表明している(『世界』、2012年7月)。だが、こうした汪暉をはじめとする「新左派」の立論とは、以下で見るように、中国における「近代」と「前近代」の意味を根本的に履き違えた、きわめて巧妙なレトリックによる論理のすり替えであるにすぎない。
3、「新左派」の旗手、汪暉とその文革をめぐる言説の問題性
その最新の著作である『世界史のなかの中国』(青土社、2011年)で、これまで「新左派」の旗手としての役割を果たしてきた汪暉は、「脱政治化」という言葉をキーワードにして、世界史的なコンテクストにおける中国革命史のなかでも、とりわけ60年代のもつ特別な意味について問うている。
全世界的に社会運動、反戦運動、民族解放運動が盛り上がった「1960年代」問題について汪は、「21世紀中国」の問題そのものとしてとらえた。日本を含む西側では、この激動の時代をめぐりさまざまに議論されてきたのに対し、中国ではもっぱら「沈黙」が保たれているのはいったいなぜなのか。中国の論壇におけるこの「沈黙」の意味を考えるようになったという汪は、この「沈黙」そのものが、その急進的な思想・政治的実践、すなわち中国の「60年代」の象徴である「文化大革命」を拒否していただけではなく、20世紀の中国全体に対する拒否でもあったとする。ここで汪がいう「20世紀中国」とは、辛亥革命(1911年)前後から1967年前後までを指しているが、それはまた「中国革命の世紀」でもある。それが終わりを告げるのは、1970年代後期から天安門事件(1989年)までの「80年代」であった。
汪によれば、世界レベルでの20世紀の政治とは、政党と国家を中心に展開しており、その危機は政党と国家という二つの政治形態の内部において生まれたものである。近代政治の主体(政党、階級、国家)が、いずれも「脱政治化」の危機にあるという状況下で、毛沢東主義への回帰によって「新たな政治主体をもう一度さぐってみようとするプロセス」には、「政治領域を再規定しようとするプロセスが随伴することになる」という。だがこれは、一党独裁体制下にある現代中国において、毛沢東時代の「前近代」的手法によって現在の人権抑圧的政治プロセスがまるごと隠蔽されてしまうほど、高度に「政治化」されているという「危機」そのものであることを、完全に包み隠すものである。毛沢東思想の「歴史的遺産をもう一度持ち出して揺り動かそうとすること」は、「未来の政治発展に向けた契機」を含んでいるどころか、今回の重慶問題が如実に示しているように、それとはまったく逆に、「20世紀」的なもの以前の「前近代」への後退をもたらすものである。仮に「新たな政治主体」を探るプロセスに「政治領域の再規定」が前提にされるのだとしても、その作業に不可欠なのは、60年代の毛沢東ではなく、むしろ80年代の胡耀邦、および趙紫陽への回帰であるはずなのに、これまで汪をはじめとする「新左派」の知識人、そしてそれを支えている日本の一部の知識人たちは、その可能性にすら触れようとしない。筆者のみるところ、これらはみな、「脱政治化」という価値中立性を装う言葉によって、対外的にはますます覇権的になり、対内的にはこれまで以上に抑圧的になっている現代中国の一党独裁政治をきわめて巧妙にオブラートで包み込む、「超政治化」のプロセスそのものである。それは現代中国社会が抱える巨大な負の局面をまるごと隠蔽する中国の現体制によって行使される強大な政治権力との親和性の強い、いわば一党独裁政治に対する補完的な言説であるにすぎない。
さらに汪は、「脱政治化」という命題から、中国の党=国家体制とその「転化」を問題にする。ここではイタリアの中国研究者、アレッサンドロ・ルッソを引用しつつ、「文化大革命」が「高度に政治化した時代」であったと指摘したうえで、「この政治化の時代の終焉は、一般に思われているように70年代中後期に始まるのではなく、『文革』開始後から次第に発生するようになった派閥闘争、とりわけ派閥闘争に伴う暴力衝突の時からすでに始まっていた」と論じた。つまり、「政治化の時代」の終焉とは、80年代ではなく、60年代そのものの「脱政治化」からすでに生じていたというのである。だが、「労農階級」なるものが「前近代」的、あるいは「擬似近代的」論理で成立していた以上、文革の60年代とは、「脱政治化」どころか、むしろ「前近代」的非合理性に基づく高度な「政治化の時代」そのものであったというべきであろう。その歴史的事実を鑑みれば、ここでの汪の隠された政治的意図とは、「文革」という中国にとって厄介な歴史的存在を西洋「近代」と同等とみなす比較の対照性において、いわば「近代ロンダリング」として、可能な限り政治的に「中性化」しようとする虚しい試みである。だが、それにもかかわらず、汪は次のように続ける。
「文革の終焉は、『脱政治化』のプロセスから生み出されてきたということになる。ルッソによれば、『脱政治化』は『ポスト文革』時代の中国だけに見られる現象ではなく、今日の西洋政治にも見られる特徴だという。支配権が伝統君主から近代的な政党へと転化していくのは、政治的モダニティの根本的な特徴だ。党専政と複数政党政治は、いずれも近代的な党=国体制がその基本的な枠組みになっている。その意味では、この二つの国家モデルは、どちらも党=国と呼ばれるべき範囲を出ない」(前掲『世界史のなかの中国』、39-40頁)。
ここでも汪の目指すものとは、西洋近代との対照性における「中国近代のロンダリング」である。これは西洋近代の伝統的君主制のもつ一時的統治としての「暴政」と中国のような永続的政体に根付いている「専制」とを混同し、西洋近代がもたらした負の局面と同根のものとして「文革」を解釈しようという欲求の表れである。「文革」における暴政の発生根源そのものが違うのだから、「ポスト文革」なるものも、「近代」(モダニティ)の所産であると看做すわけにはいかない。しかもそのことを、西洋人としての中国研究者であるルッソが論じているというのがここでの重要なポイントであり、「西洋的」近代と「アジア的」(マルクス)前近代との混同を「西洋的」近代の側から正当化するためにルッソが利用されていることが伺える。だがここでは、「外国の学者」による「研究」が中国政府寄りでありさえすれば、「それが現実とどれだけギャップがあろうと、中国政府はこれを採用し、『参考消息』や中国研究を紹介する外国むけの刊行物に掲載した」という何清漣の言葉との親和性を想起すべきであろう(何清漣『中国現代化の落とし穴――噴火口上の中国』草思社、2002年)。
さらに、汪によれば、20世紀中国の政治は「政党政治」と密接に関係し合っており、政党自身がいわば普遍的な「脱価値化」のプロセスの中に置かれていた。したがって、政党組織の膨張し、政党構成員の人口に占める割合の拡大が、その政党の「政治的価値観」の「普遍化」を必ずしも意味しなくなったとしても、汪にとっては、まさにそのこと自体が中国共産党を含めた「普遍的」現象なのだ、というわけである。ここで政党は日増しに国家権力に向かって浸透と変化を遂げ、さらには一定程度、「脱政治化」し、機能化した国家権力装置へと変わっていったのだという。つまり、ここでも汪は、一党独裁の「中国共産党」をいかにして「西洋近代」の多元的国家における多党制の下での「政党」と同一化するかで躍起になっている。ここで汪は、この「二重の変化」を「党=国家体制」から「国家=党体制」への「転化」と称し、前者には政治的態度が含まれるが、後者では権力を強固にすることに専ら力が注がれたとした。かくして「政党の国家化のプロセス」は、20世紀中国に生まれた「党治」体制を、国家中心の支配体制へと転換するが、それはまた必然的に「国家の政党化」のプロセスでもあるという。だがこのことは、党独裁の中国共産党にこそあてはまるという事実を価値的に「中性化」するものである。
汪のいう「政治化の時代」の終焉とは、60年代そのものの「脱政治化」どころか、60年代以来の、「前近代」的非合理性に基づく高度な「政治化の時代」そのものであり、「超政治化」という恣意的隠蔽のはじまりですらあった。その隠された政治的意図とは、「文革」という中国にとって厄介な歴史的存在を西洋「近代」と同等とみなす対照性において価値的に「中性化」しようとする、いわば「中国近代のロンダリング」にこそあった。さらに一党独裁の「中国共産党」と「西洋近代」の多元的国家における多党制の下での「政党」との同一化は、党独裁の中国共産党によって行使されるレトリックにこそあてはまるという事実を、同じく価値的に「中性化」するものである。それは「脱政治化」という客観的中立性を装う言葉によって、現体制に対する間接的擁護という自らの政治的立場のイデオロギーを隠蔽しようとする「超政治化」の過程そのものである。
だが、われわれにとってより深刻な問題はそこにではなく、この「リベラル・デモクラシー」を自認する日本においてすら、「進歩的」中国研究者、あるいは知識人たちの間で、こうした「新左派」を高く評価しつつ、文革を制度的に総括した80年代後半問題をめぐる「沈黙」が共有されていることにある。たとえば、柄谷行人は、その書評(『朝日新聞』2011年3月6日)で、汪暉を「最も信頼する現代中国の思想家」であるとして、筆者にはほとんど「まやかし」としか思えないその「脱政治化」という概念を絶賛している。ここで柄谷は、中国の社会主義「市場経済」を西側先進資本主義国の「脱政治化」なる過程と同一視しつつ、「それはナショナリズム、エスニック・アイデンティティー、あるいは人権問題などの『政治』にすり替えられた。それらは政治的に見えるが、脱政治的なのだ」と、汪の言葉をそのまま反復しているのである。これと同じような汪に対する肯定的評価は、とりわけ丸川哲史によって、『情況』(2012年1/2月)や『atプラス』(2012年2月)などのメディアでも繰り返し行われている。だが、ここで問われるべきなのは、われわれが現代中国における「前近代的」なものの存在そのものを、まさに「事実」として承認できないでいるという事実と、そのことをめぐる根源的な意味である。とはいえ、すでに中国国内でも、今回の重慶事件をめぐり、汪暉など新左派に対してその結果責任を追及する批判的言説が現れ始めていることに留意すべきであろう(荣剑「奔向重庆的学者们」、『共识网』、4月28日)。 (続く)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1971:120621〕