一つ前の井上司朗=逗子八郎の記事を書くにあたって、最近知った田中綾さんの「歌人・逗子八郎/井上司朗研究―新短歌運動との言論統制のはざまで」(『北海学園大学論集』47号 2010年11月)に、井上が「文士野球チーム「老童軍」との試合など、昭和の都市青年らしい青春を過ごした資料もある」の一文に出会った。
「老童軍」、そう、20年以上前になるのだが、私の母方の従弟O・Hさんが、久米正雄の学生時代に『萬朝報』に連載された「学生徒歩旅行・盛岡より東京まで」(1926年8月11日~10月23日)が全集にも収録されてないことを残念に思い、まとめて復刻し、私家版(2000年7月)として出版した。私の叔父にあたる、父親のO・Kさんが、その「老童軍」の選手として、チームの監督であった久米正雄と親しくしていたということがわかったからだという。
私家版を出版する過程で、父親が鎌倉師範の野球部にいたことから、文士らの野球クラブ鎌倉老童軍に誘われ、久米正雄監督のもと、若い戦力として活躍していたことを、当時の新聞や久米家の親族の話などたどることになったという。この野球クラブには、昭和初期、1928年頃、久米をはじめ大佛次郎、里見弴、小林秀雄、今日出海などが参加していたこともわかったという。ちなみに、小谷野敦の「久米正雄詳細年表」の1928年の項に以下のような記述があるのを知った。
この頃、里見、大仏次郎(32)らと野球チーム「鎌倉老童軍」を結成、駅裏でたびたび試合。ほかに小牧近江(35)、宇野、加能、広津、邦枝、田中純、サトウハチロー、ほかに元アマの橋戸頑鉄(50)、野球記者の太田四州(48)。
1934年、東京日日新聞主催の都市対抗野球大会の地方予選では、神奈川県代表として東海予選を勝ち抜いて、神宮外苑での全国大会に出場したのである。チームメイトには、六大学野球部出身の選手も多く、一時、水原茂が在籍していたこともあった(水原は慶応大学出身だが、不祥事が重なって、野球部から除名されていた頃か)。
さらに、叔父は、職業柄、久米や里見、高浜虚子の子息たちの家庭教師を務めたいたこともわかったという。その叔父は、太平洋戦争末期、ニューギニアで戦死したことは、私も母から聞いていた。O・Hさんは私より若いはずなので、お父さんの顔を覚えていないのではないか。寡婦となった叔母はKさんと兄のTさん二人を懸命に育てた。私と同い年のTさんは、高校の野球部で活躍されたのである。Hさんは、父親の青春時代を知って、どこかほっとしたとの思いをもらしていた。
O・Hさんから送られてきた東海予選で優勝した折の切り抜きの一部(「東京日日新聞』1934年9月11日)
全国大会出場の前年、神奈川県大会で優勝、東海予選出場を決めた折の記事(『東京日日新聞』1933年6月5日)
初出:「内野光子のブログ」2024.2.5より許可を得て転載
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