関東大震災における「天譴(てんけん)説」論議 -先人は「大事件」をどう考えたか(2)-

 東日本大震災を、我欲に走った人間への天罰だ、と言った都知事石原慎太郎は世論の猛反発を受けて発言を撤回し謝罪した。東京の電力を供給する東北が大損害を受ける一方、軽微な被害で済んでいる首長のいうべき言葉ではなかった。石原の発言撤回と謝罪は当然である。その上で誤解を恐れずにいえば石原を袋叩きにすれば話は済むのかという気持は残る。
科学的に説明できる自然現象であっても、その力の大きさに茫然自失し、超越者や不条理におよぶのは人間の普遍的な思考感覚ではないだろうか。

《渋沢栄一の天譴説》
 1923年(大正12年)9月1日に起こった「関東大震災」に際しても、それを人間の力を超えたものとみる畏怖感や情念が噴出した。
たとえば「天譴(てんけん)説」である。「天人相関説」などの別称もある「天譴説」は中国前漢時代の儒学者董仲舒(とうちゅうじょ)に発するという。君主の政治的失敗に対して「天」が譴責、警告を行い反省を促すという考えである。

財界のリーダー渋沢栄一は大震災「天譴論(説)」を説いた。「大震災と経済問題」という談話で渋沢は次のように言っている。(『龍門雑誌』、23年12月)
▼日本は明治維新から僅々数十年を出でずして世界列強の班に入つた。この長足の進歩は世界の均しく驚嘆する処である。と同時に我が国民の自ら顧みて衷心聊か自負する処が尠くなかつたと思ふ。私は近頃我が国民の態度が余り泰平に狎れ過ぎはしないかと思ふ。順調に進み平穏に終始すれば、勢ひ精神の弛廃するのは已むを得ない処かも知れないが、我が国民が大戦以来所謂お調子づいて鼓腹撃壌に陥りはしなかつたか、これは私の偏見であれば幸ひであるが兎に角、今回の大震災は到底人為的のものでなく、何か神業のやうにも考へられてならない。即ち天譴といふやうな自責の悔を感じない訳には行かない。▲

さらに一年後にも「天譴を餘りに早く忘れすぎはせぬか」という発言のなかでこう言っている。(『龍門雑誌』、25年1月)
▼私は此震災を迷信的に解釈して、今時の国民は少し浮れ過ぎるから天が斯様な罰を与へたもの、謂はば天譴ではないかとも考える。/要するに新春を迎へると共に、自然の空気、一般の気合が緊張して欲しいものである。己を中心として、人の揚足取りのみを得意とする様では、夫の恐ろしい天譴を余り早く忘れ過ぎたと見ねばなるまい。吾々国民は更始一新する事が必要である。▲

実業之日本社長増田義一は、経済誌『実業之日本』の23年10月号の「天災と大教訓」と題する文章のなかで、享楽主義にかたむき危険思想がはびころうとしている今日、関東大震災こそは「天がわが国民に向って譴責し、かつ一大警鐘をならしたものというべきではあるまいか」と述べた。

《文学者による天譴説論議》
 天譴説は様々な階層から発せられた。しかしここでは文学者の言説をみていきたい。 
詩人北原白秋は「大震抄」と名付けた13首の短歌を残した。
その中から「天意下る」と名づけられた7首を掲げる。
▼・世を挙(こぞ)り心傲ると歳久し天地(あめつち)の譴怒(いかり)いただきにけり
・地は震へ轟き享(とほ)る生けらくやたちまち空しうちひしがれぬ
・大御怒(おほいかり)避くるすべなしひれ伏して揺りのまにまにまかせてぞ居る
・言挙げて世を警むる国つ聖いま顕れよ天意下りぬ
・大王(おほぎみ)は天の譴怒(いかり)と躬(み)自ら照らす御光も謙(お)しみたまへり
・国民(くにたみ)のこのまがつびは日の本し下忘れたる心ゆ来れり
・大正十二年九月ついたち国ことごと震亨(しんとほ)れりと後世(のちよ)警め▲

 作家で英文学者の坪内逍遙は「大震災より得たる教訓」(23年12月)という論文で「天譴」および「天幸」について詳しく述べている。逍遙の結論は合理的で常識的である。天譴説を支持しているとはいえない。文中に次のくだりがある。
▼常識的に観れば、今度の地震は前古未曾有の、殆ど世界の史上にも先例のなかつた程の大災といふに止まるが、或ひはやゝ皮肉に、却つて一種の天幸であつたのだと観る者もある。或ひは天譴だと観る者もある。東西、内外ともに、昔から何か大きな災厄が起ると、これを神又は天が人間の不埒を憤る余りに降す懲罰と解する例がある。/真面目に宗教的に力説された天譴説は、余りに無辜の罹災者を冷眼視した見方だといつて、一部の、殊に若い文学者連の反感を挑発した気味であったが、/天譴を自然の応報といふくらゐの意味に取って、社会的に又個人的に反省自戒する一機縁とすることには誰れしも強(あなが)ち異議もなささうである。/われわれは須からく今度の大災に教えられて、内外の自然を虐使したり拘禁したりしないで、馴致し、善用し、且常に愛、相助の生活を営むことに其最善の努力を致し、依つてわが日本の新文化に、又世界の新文化に貢献すべきである。▲

《「国民精神作興ニ関スル詔書」に隠れた天譴説》
 天譴説はついには国定イデオロギーに潜入した。
摂政裕仁が23年11月10日に発した「国民精神作興ニ関スル詔書」は震災後の物心両面の混乱からの国家・国民の回復を求めたものである。時代は、「大戦景気」・「大衆化現象」と「大正デモクラシー」・「社会運動の勃興」を、迎えつつあった。詔書に次の文言がある。太字は半澤。
▼輓近學術益々開ケ人智日ニ進ム然レトモ浮華放縱ノ習漸ク萌シ輕佻詭激ノ風モ亦生ス今ニ及ヒテ時弊ヲ革メスムハ或ハ前緖ヲ失墜セムコトヲ恐ル
・綱紀ヲ肅正シ風俗ヲ匡勵シ浮華放縱ヲ斥ケテ質實剛健ニ趨キ輕佻詭激ヲ矯メテ醇厚中正ニ歸シ人倫ヲ明ニシテ
國家興隆ノ本ハ國民精神ノ剛健ニ在リ之ヲ涵養シ之ヲ振作シテ以テ國本ヲ固クサセルヘカラス▲

直接に天譴を示す言葉はない。しかし、「大戦以来所謂お調子づいて鼓腹撃壌に陥りはしなかつたか」(渋沢)、「世を挙(こぞ)り心傲ると歳久し天地(あめつち)の譴怒(いかり)」(白秋)、「天が人間の不埒を憤る余りに降す懲罰」(逍遙)などの文脈に相通ずるところがある。天譴説は石原慎太郎の発明ではなかった。しかも袋叩きにあったわけでもない。それどころか支配層から文学者まで広範な階層の関心と論争を呼んだ。88年前の方が2011年よりも論争は自由であったと皮肉の一つも言いたくなる。それなら天譴説が支配的であったかどうか。次回は天譴論批判を紹介したい。

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