ユニークな首相夫人が登場してきた。東日本大震災の被災地で政府が進める防潮堤建設プランに異論を唱えているのだ。世に言う「夫唱婦随」に堂々と反旗を振りかざしているのだから世の関心をかき立てずには置かない。巨費を投じ、とかく税金の浪費、無駄に走る土建業に真っ向から挑戦する形となった。
首相夫人の言い分には十分な理がある。あの原発大惨事から丸3年を経たいま、夫人に軍配が上がる結果となれば、今後の国家予算の使い方、土建業のあり方が質的に改善されるきっかけになるかも知れない。そうなることを期待したい。今後の推移に目が離せない。(2014年3月13日掲載)
毎日新聞(2014年3月12日付)に興味深い記事が載っている。見出しを紹介すると、次のようである。
見直し訴える首相夫人
防潮堤 町の魅力消す
「若者の意見も聞いて」
安倍晋三首相の妻、昭恵さん(51)が毎日新聞のインタビューに応じ、東日本大震災の被災地で政府が進める防潮堤建設計画になぜ異論を唱えるかを語っている。彼女の真意はどこにあるのか。一問一答(要旨)を紹介する。
少し大きい文字問い:なぜ防潮堤建設計画の見直しを主張されているのか。
答え:昨年6月ごろから急に気になり始め、地元でフォーラムを開催したりしてきた。いろいろ調べてみると、完全に安全でもないし、あまりに巨大な物は、何の基準によるのか分からない。生態系を崩し海の見えない魅力のない町になるという意味ではマイナス面が大きい。必要以上の物を造るべきではないし、すごくお金がかかる。
問い:建設を進める宮城県の村井知事と先月意見交換したそうですね。
答え:反対運動をするつもりはなく、良い復興をしてもらいたいと伝えたかったが、平行線だった。知事は「目の前で人が亡くなり、涙を流している人をたくさん見た。二度とこういう思いを県民にしてもらいたくない」と防潮堤の必要性を主張された。私は「必ずしも皆が賛成ではないし、安全な町がつくれても魅力がなくなって若い人が出ていったら、何のための防潮堤か。若い人たちの意見も聞いてほしい」と言った。
問い:震災直後、防潮堤建設を求める声は聞きましたか。
答え:私は聞いたことがない。個々の被災者で「造ってください」という人は本当にいたのかと思う。住民合意が十分でない中で、建設計画だけが進められていったのではないか。県側も、全部県の予算でやってくださいと言ったら造らないと思う。何が一番大事かというのが、造ってもらうために見えなくなっているところもあるのではないか。原発も一緒だ。建設反対の人たちがいても、過疎の町だと原発に付随していいこともあるので、結局受け入れてしまう。
問い:地元住民の要望よりも、国から言われたものを受ける形になっていると?
答え:先日伺った愛知県岡崎市立北中学校の子どもたちは宮城県石巻市立湊中学校と交流していて、「何が必要ですか」と聞き、地元の人たちの協力で80万円を集め、部活動のいろいろな道具をそろえた。微々たるお金だが、その学校にとってはすごく大事なもので、おかげで部活動が続けられると。それを聞いて8000億円とも1兆円ともいわれる防潮堤建設費と比べてしまった。政治家の女房を何年もやりながら、そういうことに気づいていなかったが、防潮堤問題でスイッチが入ってしまった。
問い:復興と今後どう関わっていきますか。
答え:被災地復興だけではなく、多様性のある社会を目指すべきだと思う。どの地域にも「小さい東京」をつくるのではなく、それぞれの良さを生かした地域づくりをする。ここにしかないものが何か一つあると、人が集まってくる。農業もその一つで、興味を持つ若い人たちもたくさんいる。主人が(首相を)を何年やるか分からないが、辞めたら私も農業しながら生活できたらいい。震災をきっかけにボランティアに目覚めた人たちが助け合っていけたらと思う。
<安原の感想>首相夫人の優れた見識
防潮堤を残すか、残さないかは、考えようによっては巨大なテーマとも言える。なぜならそれぞれ個人の趣味、考え方、生き方に関(かか)わるだけでなく、日本国のありようにも深く関わっているからである。それを承知の上で首相夫人は「防潮堤」に否を唱えている。連れ合いの男性が一国の宰相であるにもかかわらず、それに安易に同調しないところは、並みの見識ではない。図太い神経の持ち主の鬼女というべかも知れない。優れた見識と評価したい。
しかし誤解を避けるために指摘する必要があるのは、決して頑迷な神経の持ち主ではない。むしろ柔軟な発想の持ち主である。上述の「多様性のある社会を目指すべきだ」という発言にそれが表れている。多様性と頑迷とは相反するからである。ただ注意を要するのは「多様性ある社会」とは、「それぞれの良さを生かした地域づくり」であり、ただ違っていればそれで十分、というわけではない。われわれ個人一人ひとりの生き方に応用すれば、単に他者と違っているだけでなく、それぞれの個性を生かす生き方を大切にする姿勢といえようか。この世に生をうけたからにはいのちを大切に育(はぐく)んでいく営み、いいかえれば人生と寿命を全うしていくことは当然の権利であり、同時に義務ともいえよう。
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(14年3月13日掲載)より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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