際だつ原爆詩人・栗原貞子の先駆性 -生誕百年記念冊子が出版される-

 峠三吉と並ぶヒロシマを代表する詩人であった栗原貞子(くりはら・さだこ)の生誕百年を記念する冊子『人類が滅びる前に 栗原貞子生誕百年記念』が刊行された。広島文学資料保全の会(代表・土屋時子さん)の発行で、2月8日、広島市内で出版記念会が行われる。冊子には、新たに発見された彼女の未発表作品のほか、彼女の詩に関する論考、関係者による追想などが収録されているが、これらを通じて強く印象づけられるのは、詩作活動における彼女の先駆性である。

 栗原は1913年、広島市の農家の次女に生まれた。旧姓は土居。広島県立可部高等女学校卒業。同校入学のころから短歌、詩を書き始める。1931年、アナキズム運動家の栗原唯一と結婚、広島市内で雑貨店を営む。1940年、夫唯一が徴用され、中国へ。1945年8月6日、広島で爆心地から4キロの地点で被爆。
 1946年、地域誌『中国文化』を夫唯一とともに創刊、創刊号を「原子爆弾特集号」としたところ、米国占領軍の事後検閲で発行人の唯一が占領軍に呼び出される。同年、詩歌集『黒い卵』を刊行するが、占領軍の検閲で一部の作品が削除される。1976年、詩集『ヒロシマというとき』を刊行する。
 詩や短歌を発表するかたわら、原水爆禁止運動に積極的に参加し、1982年には「文学者反核声明」の呼びかけ人に名を連ねた。2005年3月6日に死去、92歳だった。
 同年7月、『栗原貞子全詩編』が伊藤成彦編で土曜美術社出版販売から出版された。さらに、2008年には彼女が残した文学資料が広島女学院に寄贈され、広島女学院大学図書館内に「栗原貞子平和記念文庫」が開設された。

 栗原がつくった厖大な詩の中でも代表作は「生ましめんかな」とされる。被爆直後の真っ暗な地下室で被爆した若い女性が産気づき、かたわらでそれまでうめいていた重傷の産婆が「私が産ませましょう」と赤ん坊をとりあげ、自らは暁の光を待たず血まみれで死んでゆくのをうたった詩だ。1945年11月25日の作とされる。被爆直後に広島市民が置かれた悲惨な状況と、そうした絶望的な暗闇の中にあっても崇高にしてヒューマンな人間の行為があったことをうたった詩は、多くの多くの人々を感動させた。
 そのほか、栗原には原爆被爆を告発した詩や核兵器開発を糾弾する詩が多数あり、そのことから「原爆詩人」と呼ばれるようになった。

 広島文学資料保全の会によると、昨年(2013年)が栗原貞子の生誕百年に当たったため、これを記念して昨年7月、広島市で彼女の文学資料展を開いた。その準備のため同会の池田正彦事務局長らが彼女の自宅で残された資料を整理していたところ、自筆の未発表作品が出てきた。彼女がつくった詩のほとんどは『栗原貞子全詩編』に収められているとみられていただけに、同会では「彼女の詩作活動の全容を知る上で貴重な資料」として、これを広く公開し、改めて栗原の偉業を振り返るために冊子『人類が滅びる前に 栗原貞子生誕百年記念』の刊行を思い立ったという。
 冊子に収録された未発表作品は22点。『人類が滅びる前に』の冊子タイトルは、1985年の作とされる彼女の詩の題からとった。

 それにしても、冊子を通読して改めて印象づけられたのは、まず、詩人・栗原貞子の一貫性、つまり激動の時代に生きながら、終始、姿勢が変わらなかったことである。
 冊子には、水島裕雅・広島大学名誉教授の「栗原貞子とアジア」と題する論考が掲載されているが、それによると、栗原はアジア太平洋戦争中の1942年10月に「戦争とは何か」と題する次のような詩を書いていた。

 わたしは戦争の残虐を承認しない
 わたしはどんなに美しく装われた戦争からも
 みにくい悪鬼の意図を見い出す
 そして自分達だけは戦争のわ埒外にあって
 しきりに戦争を讃美し、煽る腹黒い
 人々をにくむ。
 聖戦といい正義の戦いというところで
 行われているのは何か、
 殺人。放火。強姦。強盗。
 逃げおくれた女達は敵兵の前に
 スカートを除いて手を合わせているというではないか。
 高梁が秋風にザワザワと鳴っている高梁畑では
 女に渇いた兵士達が女達を追い込んで
 百鬼夜行の様を演じるのだ。
 故国にあれば、よい父、よい兄、よい子が
 戦場という地獄の世界では
 人間性を失ってしまって
 猛獣のように荒れ狂うのだ。

 戦争中の戦地での日本軍の行為を告発した詩だ。日本がアジア太平洋戦争を始めると、ほとんどすべての詩人、例えば高村光太郎、室生犀星、三好達治、伊東静雄、大木惇夫らは競って戦争詩(戦争を讃える詩)を書いた。が、栗原は反戦詩を書いていた。まさに、彼女は詩歌の世界では稀有な存在だったと言ってよいだろう。

 
次いで印象づけられたのは、栗原が、原爆被爆問題を考えるにあたっては「被害」と「加害」の両面からみて行くべきだ、と唱えた最初の文学者であったという点である。
 栗原には、「ヒロシマというとき」という詩がある。1972年の作品で、それは、

 <ヒロシマ>というとき
 <ああヒロシマ>と
 やさしくこたえてくれるだろうか
 <ヒロシマ>といえば<パールハーバー>
 <ヒロシマ>といえば<南京虐殺>
 
 という書き出しで始まり、
 
 <ヒロシマ>といえば
 <ああ ヒロシマ>と
 やさしいこたえがかえって来るためには
 わたくしたちは
 わたくしたちの汚れた手を
 きよめねばならない
 
 というフレーズで締めくくられる。日本人は自らの加害責任を自覚すべきで、そうした自己反省がない限り、日本人がいくら反核を訴えても世界の人々は耳を傾けてくれないだろう、と訴えた詩だ。
 冊子に「栗原貞子の文学――原爆(核)文学史におけるその位置」と題する論考を寄せた文芸評論家の黒古一夫さんは、その中で「『ヒロシマというとき』が何故原爆文学史に画期をなすものであったかについて、少し角度を変えて再度言うならば、……『被害』の面を協調しがちな原爆文学表現から一歩進んで、ヒロシマ・ナガサキの『被害』が実はアジア太平洋戦争時の日本によるアジア諸国に対する『加害』の結果である、と明確に宣言した点にある」と述べている。

 印象に残ったことはまだある。彼女が「反原発」の点でも先駆者であったことだ。
 黒古さんの「栗原貞子の文学――原爆(核)文学史におけるその位置」によれば、市民団体の原爆体験を伝える会が、1975年2月10日に東京・市ヶ谷の日本YWCA会議室で開いた「核セミナー」で、栗原は次のように話していた。
 「原子力の平和利用という名目で、安全性がたしかめられぬまま、原子力発電所が次々にできまして、放射能漏れの事故などが相ついでおこり、いわゆるエネルギー源としての核による新しい被爆者ができつつある状態でございます。このように私たちは、兵器としての核と、それから日常のエネルギー源としての核の中にとりかこまれて生きております」
 東京電力福島第1原発事故から36年前のことである。当時は、いわゆる「原発神話」が花盛りで、彼女の訴えに耳を傾ける人はほとんどなかった。

 『人類が滅びる前に 栗原貞子生誕百年記念』はA5判、135ページ。頒価1000円
広島文学資料保全の会は〒730-0802 広島市中区本川2丁目1-29-301
 電話・FAX 082-291-7615

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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