雑感・自己内対話と多元主義 -第11回「復初」の集いに出て-

今回のサブタイトルは「丸山真男の原点を確認する、リレーする」だ。しっかり確認もせずに、あらぬ。方向に走って、福沢諭吉と丸山を重ね、さちに司馬遼太郎まで巻き込んで批判的ポーズで見栄をきる論者が目立つ昨今、いい勘所を押さえていると思った。

山口二郎氏の講演は「手帖」第五五号に掲載されたので、ここでは東京演劇集団「風」の酒井宗親氏の朗読で聴いた「自己内対話」と「思想の科学」の多元主義とのつながりを考えようと思う。

二十代前半まで入っていた一元的(一神教的)な党派(正義はあったが独善さと偏狭さをもつ)を肺結核が全治したあとに離れて「思想の科学研究会」に入会したのは、そこに掲げられている多元主義、アレモコレモに魅せられたからだ。それは異った立場の人間がお互いにその思想信条をぶつけあう中で。各人のさまざまなカードを出しあい、較べあって相対的に正しい事柄を探る方法である。それが気にいってから起きた私の方向転換だった。そしてこれが理論的な仕事(日本思想史)を始める動機づけともなった。

多元論的集団とは例えていえば、近代主義者、伝統主義者、アジア主義者、共産主義者、無政府主義者、自由主義者らが、一つの会の中にいて相互に討論して互いに主張と摂取を繰り広げるのが、模範的な組織論の多元主義のあり方だろう。鶴見俊輔氏が、この会には「除名がない」と誇らしく語られたことを覚えている。理論的・思索的な営為には上下関係はない。除名する究極の根拠を放棄している。

ところが、いつもうまくいくとは限らない。ある時、といっても「思想の科学総索引一九四六-一九九六」(一九九九年、思想の科学社)で調べてみたら、一九六三年一二月号で「思想の科学」が〈大東亜共栄圏〉を特集した。それを知ったある高名な歴史学者が反発し抗議の意思を表して退会された。私は特集の基調なり、特定の論文に対する反論を執筆して、それを編集部がボツにした結果の行為なら支持するが、この直情は多元主義への無理解だと思った。たしかに人間の交際における相互理解と寛容はむづかしい、佐高信氏の「加藤周一への偏見」(「週刊金曜日」第八〇九号、二〇一〇年七月三〇日)ひとつ読んでも、それを感じる。これは暫くの沈黙による時間が助けて解決してくれる、というほかない。

鶴見氏の『もうろく帖』(編集グループSURE、二〇一〇年六月)の中に「罵倒は「思想の科学」に似あう」(一三六頁)という箇所を見つけた。暴力的強制のけはいを伴わない罵倒なら、いかに厳しくても耐えられるような強靱な精神を念頭においてのことだろう。そうした堪忍がなければ人びとがそれぞれにもつ原理原則の一方的でない相互共立は成り立たない。ところで耐える限界点はどこか。氏は同じ覚え書きノートの中で、こう記している。

「論争において過剰防衛を自分に許さない。私を批判するものが、私を批判することをとおして、彼の反戦の立場からはなれないならば、私からの反批判は必要ない。彼が、私なりの反戦の立場を理解する可能性がないということを気にする必要はない」(一六二頁)と。

この境界線が氏ら九人が提唱した「九条の会」を支えた精神を表している。そしてそれぞれの思想的立場に立つ他者として人間同士の多元主義的可能性が開けるのである。

私が先日懇親会の席で挨拶した時に話したことも、この線に沿ってである。バーグマンファンの原節子の例えで、丸山からただ学ぶ一方の私のような思想史家の立場も、私より三〇歳も若い、戦後政治学の新しい世代の専門家が丸山から学んで批判する「現実を切り結ぶ政治学」の立場も、さらにはほかのあり方も多元的に共存し批判と理解を深めることが、最も実りが多いと考えたからである。

私の立場に近いのが、北京にいた中江丑吉(兆民の子)をめぐる師友の間柄にあった伊藤武雄や鈴江言一、そして師弟の関係にあった阪谷芳直(丸山と交流が深い)らの人間的・学問的ありようだろう。

多元主義には、このような自己外的な現実の層に対して、もう一つ個人の内面の層があること、それが私には最初判らなかった。それは鶴見氏がたしか六〇年安保の渦中で書いた、自分の頭の中で、いくつかの太鼓が鳴っているという言葉から気づいた。例えばある人が基本的にプラグマティストだとして、彼の中にアナーキズムやもっと古い、「封建的」な志操の音もしているだろう。この重奏が時代の危機的状況や人生の岐路での判断を左右するのだと思う。民族や階級の概念が窮屈だという近代一元論者には理解できないことだろう。

「十五年戦争のあいだにさえ

前説をふまえて後説をだす

一貫した立場をつらぬくことに

知識人は失敗した。ふたたび

そのように一貫した言説を

高度成長の中でとるのはむずかしいということに

両状況の異種同型を認め、これを現代思想史の主題と見すえる」

(「もうろく帖」三七頁)

この現代思想史の場においてプルーラリズムは丸山真男の「自己内対話」による判断の重さと重なる。

「自己内対話」について、私は既に「対話の魅力」(「みすず」一九九八年六月)で、ふれたことがある。丸山は”他者感覚をもて“とか”他者を他在において理解する“といって対応の電要性を強調している。これは自分の頭の中で、いくつかの太鼓を鳴らすための予備的前提であろう。さらに日本思想史の伝統を生かす途として、”敵から学べ”ともいっていた。「・・・・・自分のきらいなものを自分の精神のなかに位置づけ、あたかもそれがすきであるかのような自分を想定し、その立場に立って自然的自我と対話する……」(『自己内対話』二五二頁)とまでいい切る丸山に、もはや他者性の限界を超えた存在と化した全共闘の学生が立ちはだかり向かってきた。

講義の妨害を主たる関心でもって、質問の範囲を無限に拡大して詰問する学生と一時間半もの反論で答えた丸山は、まだそこに”討論〃らしいものがあると見ていた。ところが拉致されるように連れ込まれて教壇の脇に坐らされた追求集会では、その暴力と強制に対しては黙秘するのが自分のプリンシプルだといって峻拒している。これは高橋和巳が内ゲバを鎮めるために探った「戦闘者の倫理としての寛容の論理」を逸脱した振舞いと対面した場面であろう。丸山が試していた多様な相手との対話の可能性を彼らの暴力的な行為と糾弾的コトバの無理強いが切断してしまった。

自発的な自由な言論を踏みにじり、相手を屈伏させるだけの「多数」による圧迫と強制は対話そのものの否定だ。このような思想には倫理性がない。彼らには保守主義が根づいていないから「最新の動向」をキョロキョロ探しまわる、という丸山の批判は、言い得て妙である。私は九条を保守する姿勢を貫くためにも、多元主義と自己内対話に共通するものを大事にしたいと思う。

最後に余談をつけたすと、八月一五日の上京が決まっていたので、前日に倉本聴演出の「歸國」のチケットを手に入れて赤坂ACTシアターに出かけた。一時間五〇分の芝居は舞台空間と観客との緊張と感動が一つになった見事なものだった。それに較べて同じ日の午後九時から民放で放送されたテレビドラマ「歸國」を宿泊したホテルでみたが、筋立ては同じでも、コマーシャルに分断され、キレイな映像が邪魔して並の作品に堕してしまっていた、残念だ。とにかく本番の「復初」の集いに出席して、その充実ぶりに満足して帰った。今回の上京は収穫が大きかった。

初出:「丸山真男手帖 第56号」より著者の許可を得て掲載しました。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
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