*これは昨年書かれたものですが、一つの「60年安保6.15闘争の記念論評」として掲載いたしました。(編集部)
社会全体が権力的関係から教育的関係に移り、個人の発意で自由と規律が保たれるようになることが理想である。その方向へ動こうとする経験をさせてくれる社会が民主主義の学校だ。明治維新と自由民権、大正民本主義、そして敗戦後の民主化の時代経験が、それにあたる。
生半可な知識人は欧米の政治理論をかじって、すぐに限界を指摘する。優等生らしい存在証明の仕方だ。ひとそれぞれに時代的制約があることが判らず、自分だけ歴史の天辺に立っているような位置から批判する。私はこういう連中を相手にしない(鬼の首をとったように福沢諭吉・丸山真男・司馬遼太郎をやっつける連中)。
民衆が動く方向に先導しつつ同伴して専制権力を抑止しようとする政治家は民衆が抱く解放感覚に背を向けない。白人がイエローと呼ぶ人たちのなかには日露戦争でロシアに勝った日本に声援を送った。辛亥革命で第一歩を踏み出した孫文は中国革命を第二の明治維新と位置づけ、最期に革命は未だ成功していないと遺言して逝去した。これらの事実は直感的で学問的に不備だろうが、思想的にはどうか。何かを掴んでいる。
山が動く、つまり民衆が動いて現状が変わるには、時に反動に転じる何かを直観するのが肝心だ。理想をめざす革命の党派のなかに巣喰っている権力欲・支配欲の芽をつかむにも―。だがこれまでの歴史において、とくに20世紀では資本主義が生んだ帝国主義とともに「共産党」型の革命が生んだ社会帝国主義に対しても、これを未然に防ぐ人民の知恵と力が足りなかった。それが人間の本性(性悪)によるものか、だとしたら絶望的である。
戦後まもなくのころ、左翼のなかで「経験主義」と「理論拘泥主義」の二つが偏向だといわれていた。それらの偏向をのりこえるように下部に指示する上部の指導者の権威主義はひどいもので、利害関心にもとづいて分裂をくりかえし、友を排除して終始敵を利してきた。ワンマンと同じ類型の独裁者(満場一致の決議、対立候補が立てない形ばかりの選挙など)がまかりとおってきた。それを支えたのが下部(大衆)の上部(指導者)への拝脆である。それを媒介するのが中間の幹部で、中国では彼らを「土皇帝」といっているそうだ。孫文の遺言は21世紀の今も達成されず生きている。
むずかしい話はここまで。今年の六月二十日に私は肺結核を発病する以前に勤めていた下町の中学校の同窓会に招かれて出席した。わざと「下町」といったのは、私が師範学校を卒業して最初に赴任した学校は母がよく口にしていた「上町」(うわまち)の名門校で、東京高師の附属から来た校長が、何かと特別な学校だとプライドが高く、エリート意識が校風にしみこんでいた。私は下町の学校に移りたいと申し出たら、一年で変わると何か問題を起こしたと見られるからやめとけといわれたが、折れずに主張して転勤したのが港の近くの中学校である。そんな話を挨拶のときにしたら、生徒たち(といっても七十代半ば)は初めて聞いたと驚いていた。当時はまだ独立の校舎がなく、旧陸軍の憲兵隊兵舎が校舎だった。新制中学が義務教育化されたばかりの一九四九年四月の話である。
その同窓会がお開きになる前に、みんな起立して「君が代」でも校歌でもなく、「青い山脈」を四番まで斉唱した。西条八十作詞、服部良一作曲、永作幸男編曲で藤山一郎が歌った、あの歌だ。同窓会の幹事が住所録といっしょに歌詞と楽譜を印刷して配ってくれた。せっかくだから歌の文句を引いておこう。
前奏
一、若くあかるい 歌声に
雪崩は消える 花も咲く
青い山脈 雪割桜
空のはて
今日もわれらの 夢を呼ぶ
間奏
二、古い上衣よ さようなら
淋しい夢よ さようなら
青い山脈バラ色雲へ
あこがれの
旅の乙女に 鳥も啼く
間奏
三、雨にぬれてる 焼けあとの
名も無い花も ふり仰ぐ
青い山脈 かがやく嶺の
なつかしさ
見れば涙が またにじむ
間奏
四、父も夢見た 母も見た
旅路のはての その涯の
青い山脈 みどりの谷へ
旅を行く
若いわれらに 鐘が鳴る
(三分二十五秒)
音痴の私だが、みんなと歌いながら前日の『朝日新聞』の記事が浮かんだ。「昭和史再訪」の一つである。一九四七年六月九日から石坂洋次郎の「青い山脈」の連載がはじまった。この作品を「恋愛・民主主義の〈伝道師〉」と受けとめている。そして作中人物の若い校医に、こういわせている。
「新しい憲法も法律もできて、日本の国も一応新しくなった……それらの精神が日常の生活の中にしみこむためには五十年も百年もかかる」と。
もう一つのことにつなげよう。一九四七年に文部省(当時)は日本国憲法を中学生にしっかり学んでもらおうと『あたらしい憲法のはなし』という教科書を出した。私が先の中学で教えた生徒は一九四六年四月に入学して五十年三月に卒業した世代で、まさに新憲法をまともに学習したおかげを被って誕生した「憲法の申し子」のような存在だ。彼らが還暦を過ぎてから隔年に集まって十回目にも、この歌を大声で歌う光景に私は感動した。
あの歌を映画の主題歌とすることに今井正監督は最初難色を示したそうだが、結果は上々だった。いま九十二歳の池部良が先輩の若者、四十二歳で銀幕から姿を消した原節子が若き女教師、「変しい変しい」(実は恋しい)とラブレターを書いた杉葉子の女生徒、そして正義漢の校医や気っ風のいい芸者たちが、学校を牛耳る地域のボスや校長と闘うストーリーは漱石の『坊っちゃん』の系統を引いている。
歌の三番に出てくるように当時は「焼けあと」(米軍の空襲による)が、まだあちこちに残っていた。暮らしは貧しかったけれども新しい復興の息吹とともに向上心がみなぎっていた。それを反映してスクリーンから透明感のある自由な空気を観客は感じていた。
少し長くなったので、あとは、はしょりたい。
あの中学生が「若い人」(ここであえて石坂のもう一つの代表的青春小説のタイトルをあげたい。昭和八年から『三田文学』に連載されたが、軍国調の時代に文弱・柔和な作品の人間性が右翼団体から非難され、その圧迫から小説の舞台となった勤務校を石坂は退職した)に生長した一九六〇年。憲法の掲げる非武装中立に反して日米関係を軍事同盟の方向に転換する国策に反対運動が盛り上がった。しかも日本からすすんで受け入れる安保条約を、かつてA級戦犯に指名された岸信介首相が五月二十日に衆議院で強行採決した。
そこで運動は「アンポ ハンタイ」から独裁者「キシヲ タオセ」へ拡がった。石田雄さんは「政治学者としては、条約そのものの『重さ』を理解してもらおうと一所懸命、議論をしていた。けれど衆議院で強行採決が行われたことで、人々の関心は民主主義の問題へ一挙に移ってしまいました」と語っている(『朝日新聞』10・6・14)。六月十九日午前O時の自然承認によって日米安保条約は現実のものとなった。敗北という総括もあるが、日本人に憲法感覚が身についた点では、まれにみる偉大な成果だったと思う。竹内好が「民主か独裁か」という短い文章の著作権を放棄するから、どこでも誰でも印刷配布して運動に役立ててほしいといったことは、政治と思想のかかわり方に一瞬きらめいた新しい現象ではなかったか。さきに引いた石田さんが、六〇年安保の半世紀目の問いとして、抵抗した市民の内側にある格差(在日、沖縄、女性、部落差別など)について、下からの声を聞くことを通じて不断の問い直しの契機としていくこと「それができれば丸山真男さんの言う『永久革命としての民主主義』が展開されていくでしょう」と歴史を前望的に捉えている。戦後民主主義を否定し丸山を封鎖監禁した全共闘メンバーは今こそ耳を傾け問い直してほしい。不遜にも歴史の天辺に立っていると錯覚して他者の「征伐」ばかりにうつつ抜かしている論者たちも。
安保の六月は、忘れてはならない歴史の大事がおりかさなっている。六月二十三日は慰霊の日、一九四五年のこの日、沖縄で地上戦が終結した(岩波書店刊『近代日本総合年表』によると四月一日米軍が沖縄本島に上陸、六月二十三日守備隊全滅、戦死九万、一般国民の死者十万)。
樺美智子さんが亡くなった祈念の「六・一五集会」に出席された、こんの そうさんから、こんな便りをいただいた。「山脈の会」と「思想の科学研究会」のパイプが感じられる。「一〇〇名ほどの参加、渡辺一衛、山領健二、余川典子、上原会長、福田事務局長ら思想の科学メンバー。鶴見、横山両氏のメッセージ、加えて鈴木さんの長いメッセージでした。五十年の記念だからと、大分工夫された。全員発言を止め、六名ほどの登壇者が、六〇年安保、とりわけ国会南通用門の戦いを語った。東大には九〇〇名とか。鈴木さんのメッセージは最近の貧困間題にふれたもの。鶴見さんは九十七歳で五月逝去した本多立太郎さんの凛とした生き方にふれた。横山さんは六・一五で最後にまた通用門に戻った話、どれも打つものありでした。毎年出ていて、六〇安保は帰郷運動だったなあという私の実感との差もあります。」
私は依頼を「声なき声」の原稿だとばかり勘ちがいして長めに書いてしまい、それを会場で朗読していただいて恐縮している。再び貧困が戦争を待望するような私の少年時代の空気が現われ、民衆が不安に縛られて集団的に暴走する怖さを一番恐れている。
最近、鶴見俊輔さんが『活字以前』(43号、10・6)で、京都の「家の会」にあらわれた鈴木金雪氏の独学の方法を紹介して、「こういう人物があらわれて三十五年、この人とおなじサークルで考えつづけるとしたら、学術雑誌・商業雑誌で会うことのできない魅力となる。『山脈』から『思想の科学』に顔を出す白鳥邦夫、大竹勉、重永博道も、そういう人である。こういう人たちが顔を見せる場となったことが、『思想の科学』六十五年の到達点となった」(「倒敍 思想の科学 私史1」)と。
独学は在家仏教だと思う。父は「和讃講」というサークルに入り、坊さん抜きで講中の家々を毎月順ぐりに廻って仏壇の前でお経を上げ、そのあと会食と談話を楽しんでいた。漢字が読めなかった(貧農の女児、ほとんど不就学で習う機会がなかった)母はお説教を足繁く聞きに行って人生と浄土を学んでいた。
「山脈」と「声なき声」、そして「思想の科学」は声高に自分の言い分をおしつけない性格を共有して静かに持ちこたえている。残ったメンバーは称名念仏ならぬ「九条」という平和と民主主義の本尊を守り、上から教条的にでなく下から暮らしのなかに実を結ぶように念じて生きていきたい。亡き井上ひさしが「東京裁判」三部作の出演者を9人にしたのは、「戦後の焼け野原のベースボールで選手9人。もう一つ戦争放棄をうたった『憲法9条』である」とのこと(高橋豊「世界をつづる劇場」より『毎日新聞』10・6・29)。日本の敗戦に発する、このこだわりに私もあやかりたい気持ちである。
参考資料・竹内好「民主か独裁か」抄 (一九六〇年五月三十一日夕)
民主か独裁か、これが唯一最大の争点である。民主でないものは独裁であり、独裁でないものは民主である。中間はありえない。この唯一の争点に向っての態度決定が必要である。そこに安保問題をからませてはならない。安保に賛成するものと反対するものとが論争することは無益である。論争は、独裁を倒してからやればよい。今は、独裁を倒すために全国民が力を結集すべきである。(中略)
デモや座り込みだけでは独裁化に対抗できない。それは人間を物理力や精神力に還元するだけで、総力の結集にならぬからである。専門を離れてはならない。持ち場で全力を発揮するのが大切だ。活動家だけが金も時間も頭脳も負担するのはよくない。金だけを出す人、頭脳だけを出す人、力だけを出す人があってよい。それが集まって統一戦線になる。勝つことだけを目的にしてはならぬ。うまく勝つことが大切だ。へたに勝つくらいなら、うまく負けた方がよい。
初出:(「山脈」86号 10・10・5)より著者の了解を得て掲載しました。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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