本号も筆耕者がいてガリ版刷りの印刷となる。1983年10月20日発行。
本号もカットが楽しい。10歳の子供のカットが混じっている。露木裕喜夫が三芳村共同館で撮られた写真があり、中牧弘子がその横に何かの野菜を持った「先生の大きな手」と書かれたカットがある。あとは誰かの手によるカットが入りまじっている。かぶ、ジャガイモの花、しそ、ゼンマイ、ニンニク、ささげ、オクラ、なす、等。そのカットで初めて見た次のものがある。またたび、やぶれがさ。
「こっちのみーずはあーまいぞ」
本号は露木裕喜夫の遺稿集『自然に聴く』――彼の「最初にして最後のたった一冊の本」(戸谷委代)――の刊行を記念した特集号である。彼は本号発行の6年前、1977年2月20日に亡くなっていた。癌であった。この本は普通の書店では扱っていないので簡単には入手できない。現在どこの図書館で所蔵しているかも不明である。
戸谷が書いているが、「作って食べる会」の生みの親は安全食糧開発グループ(岡田米雄代表)であるが、その牛乳組織拡大路線に疑問をもった消費者が三芳の生産者とともに分離独立し、小さくとも志のある「自然の法」的な生き方を目指す。それが今日の会の出発点となる。露木はその時の技術的・精神的な指導者であった。
露木の履歴は戸谷が第9号に書いていた。それによると、露木は戦前に農学校を出てから北海道に行き、その後満州に渡って果樹園の指導をする。戦後ソ連に抑留される体験をへて帰国する。そして農協に勤め、やがて改良普及所に移って所長となる。改良普及所は普及員がいわゆる近代農業技術を農家に啓蒙指導する機関であった。でも彼は殺虫剤のおかしさに気づく。殺虫剤は害虫を殺すが、その毒は生物間の有機的なつながりをへて結局は人間にまで届くのでないかと疑う。彼は上司や同僚にそのことを説いたが、受け入れられない。この時代の先覚者はみなそのような経験をしていた。農協も学会も彼の言うことをまともにしない。そこで彼は自分で「自然農業」を実践し、「毎日毎晩、田圃を見回り、畦にしゃがみ込んで周囲の田ん圃との違いを観察」する。お百姓さんが毎日田にでて見廻ることは戦後の風景であったが――それが無くなるのは1970年代に入ってからと思う――、露木の場合はその観察の仕方がまったく違っていた。彼は「一しずくの露をなめてみて、本当に露の甘いのに驚いた」と言う。自然農業の田では本当に「ホ、ホ、ホタルコイ、あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」であったのだ。
露木は生産者に教えるようになる。有機農業はただ化学肥料や農薬を使わないのではない。今日でもそのように説く有機農業者が多い。彼は大自然の秩序は何かを知ることから始めねばならないと説く。でも生産者はそんなことを学校で教わったこともなければ、自分で考えたこともなかった。露木はその彼らに対して、概念で説くのでなく、自身で「稲の葉をかじり、その露を飲み、土を食べる」ようにして、実地で示していく。『自然に聴く』の宣伝文に「“評論家”“学者先生”には書けない実践者の真実探求の書」とあるが、その通りであった。生産者はこういう露木からそう言われればそうであるかと納得してしまう。まるで狐につままれたかのように。
荒地は荒地の力で回復する
いろいろな人が同書の読後感想文を書いている。その概要を以下に紹介する。そこから露木の考えや人となりが見えてくるだろう。
露木の考えは最初、三芳村の一般農家(精農家や篤農家でない普通のお百姓さん)にすんなりとは入らなかった。彼の話は時に「科学」的でなく神秘的であった。また生産者は話を聞いて得心しても、では具体的にどうするかとなるとさっぱり分からない。それは彼の言葉が身体にしみついていたからである。系統立てて話すことはないので、話上手とは言えない。君塚治は書いている。始めは理解できず、反発していた、と。榎杏子も言うように、近代農業で一応の実績をあげてきた農家はこれなら幾らとかこれだけコストがかかるという感覚でいたから、露木の話は「天地をひっくり返す程の驚きであった。」だからみんながっかりしてしまう。和田博之も言う。みな農学校で化学農法やNPKの3要素を叩き込まれていたから――農学校でなくても日本の中学生であればみなそう教わってきた――、露木が救世教の信者と聞いた時には「宗教」がかっていると思ってしまう。そういう受けとめかたは三芳の生産者だけに限らない。当時、有機農業に取り組みだした生産者はみなそう思ったのである。稲葉懿も座談会で言っている。こんなことをして東京の消費者にうまくやられるのでないか、そんなことをしなくても今まで通りでやっていけるのでないかと思い、家の内でも部落内でもごたごたする。
でも生産者は露木に2回目に現地で会った時、眼を覚まされる。中村一良や君塚が伝えるように、その時のこととしてよく出る話がコップでの実験である。露木がコップに土を入れる。道路の土、畑の土、土手の土、山の土と、入れていく。そこに水を入れて澄み具合を見る。すると、前から後の順で、濁りっぱなし、半濁り、すぐ澄むとなる。生産者は生きている土はこういうものと見せられる。また連作でだめになった生姜についた泥と山の畦の泥を取り、その違いを見せられる(稲葉談)。そして周りを見て、露木はこう話す。「土手の生えている葉っぱ」は「だれも手をいれてはいないし、肥料を入れてはいない。けれども立派に育っている」。「土手の草は刈っても刈っても次々と再生する」ではないか。「作物は肥料で育つものでない」。「作物自体が微生物の働きによって必要な要素を作っている」(――近代的な微生物学と植物生理学・土壌学の知識あり!)。近代農法に埋まっていた者にはこんな話や事例観察は驚くことばかりで、すっかり心をとられてしまう。自然農法では近代農法と発想がまったく違うのである。
みなが露木の言葉で印象に残っていることを話している。――「自力更生」、「荒地は荒地の力で回復する」。彼は老子の「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、路は自然に法る」を引き、その他豊富なことわざや格言を使いこなす。人間は「自然の仕組みを事実に基づいて取りついでいるに過ぎない」ようでなければならない。そうでないと人間観間の争いは絶えない(以上、戸谷談)。「自然の条件を畑場に応用して、その中で手助け」することが人間の仕事であるのに、近代農業は自然の生態系で養われた土の養分を奪い取ってしまう(以上、君塚談)。(私の補い――人間は土から奪った物を土に還してやらねばならない。これは久保栄の戯曲『火山灰地』における主人公雨宮聡が追求したことであり、マルクスがリービッヒを参照して『資本論』の「大工業と農業」の節でテーマにしたことである。ただし久保やリービッヒは「近代農業」の枠内で人間と自然との循環の仕組を見つけている。露木の自然農業の循環の考えとは少し向きが異なる。)では園芸店で売っている微生物を畑に入れることで自然農法になるか。ならない。他の条件を考えないと無駄に終わる(和田談)。露木は次のように教える。作物の病気や虫の害は作物自身が健康を取り戻すための淨化作用である、よく観察して小松菜がどんな土が好きかを見つけろ、稲はどんな草が好きかを知れ(横山隆談)。
とにかく「自然の法は農民の羅針盤」となる。露木は二宮尊徳の次の歌を好んで引用していたらしい。「声もなく香もなく常に天地は書かざる経をくり返しつつ」(古宮芳明談)。
ちょっと知識のある人であれば、そこに老子の考えがあり、祖先からの「さわり農法」の智恵が詰まっていると言うだろう。それは間違いでない。が同時に、そこに近代の科学的知識の裏づけがあることに気をつけねばならない。。
露木利治は「学者」について定義している。生産者は「作物と話ができ、動物に返事をしてやれる人の作物の数とまた消費する品々の良し悪しの見分けのつく」人であってこそ「学者」だというが、至言である。敏感な経済学史家であれば、ここでスミス分業論の例のポッター少年を思い起こすであろう。また彼のグラスゴー大学講義での「哲学者」の定義を思い起こすであろう。
横山豊子は露木の言葉を自分なりにうけとめ、次のように今日的な物質代謝論の言葉で語っている。――人間も自然の仕組みの中で生まれる空気と水を摂取し、生命体として立っている「食べもの」を摂り入れて生活しているはずだ。たんぱく質やビタミンC等というそれぞれ引き離された栄養素としてではなく。人はそういうところでこそ必要なものを必要なとき必要なだけ摂っている。現代の消費と生産はこの自然の鉄則を破っているから、そこには「真の充足」はない。
露木の教えは次第に村人に受けとめられていくが、そこには村人のなかにも近代農法に疑問をもつ者がいたという下地があった。樋口守は言う。みかんは最低4,5回消毒をしていた。最後に使ったのがきついフッソ―ル。それを使うと、イナゴやバッタを食べた犬や猫がばたばた死ぬ。こんな薬が台風などで井戸に入るとどうなるかと考え、その使用をやめることがあった。
繰り返すが、露木の教え方は学校式ではない。むしろ不親切である。どうしたらいいかは野菜に聴いてみろとか、自ら労してあみだせという式の指導であった。彼は質問されても意地が悪いくらい答を言わない。「あぁ、なんてつれないそのお言葉」と思った消費者も多かった。これではある人の経験が他人にすぐに共有されて効率よく普及することにはならない。榎も感じたように、露木には閉鎖的と思われる面もあった。かつて日本で議論された技術論争をただ頭でだけ知っている者は露木の「技術」は近代的でなく封建的な「技能」だと言うだけであろう。これを研究者馬鹿と言う。
和田は言っている。この本は人に「気持ちの落ち着いている時に腹で読みたい」と思わせる、と。またその本は三芳の生産者がこれまで10数年の経験をつんできた後でこそ、そうだ、そうだと「自分自身に相槌を打ちながらページをめくる」ことができるものである。またその本は「もともと人間のもっている本来性を掘りおこす様な本」であった。鈴木昇も同様のことを言っている。「立派な肩書を持った人の話は空しい」。露木の本を読むと、「眠っていたものを呼び起こされたような感じ」になるらしい。大学教授には穴があったら入りたくなる話である。
付随的になるが、「自然農法」では、動物性肥料を使う「有機農業」と違って、草の使い方が1つのポイントになる。和田と戸谷が次のように言っている。草は土を作る。だから草は生えさせておいた方がいい。といっても、はやしたままでもだめだ。ある野菜はある草と相性がよくて一緒に育つ。この場合は根っこ同士でお互いに肥料を作っている。福岡正信が試みたように、みかん畑の土手の草の中に大根を植えてもけっこうよいものができる。でも相性のない草では野菜が育つ邪魔になるから、その場合には取らねばならない。草取りが大変な時には藁や枯れ草や堆肥でマルチをして防いでもよい。また草を使うことの意義は分かっても、実践するのは面倒で難しいから、草を取った方が楽ではある。…この草の例でもわかるように、自然農法は放任農法・「なげやり農法」とはまったく違うものだ。
アメリカ先住民のコカヌアが草を使った農法を開発したが、それは参照に値いする。
サル・カニ合戦を「共通の広場」にもってくる
最後に露木の講話で未収録であったものが載る。昔話の「さるかに合戦」である。彼はそれを「サルとカニのはなし」と言い換える。一般に伝わっている童話では両者は合戦してはいないと言って。彼は合戦にしたのは「近代の絵本が作られる時代になってから、時代の思想に影響されて生まれたものでしょう」と推論しているが、それはいちおう検討に値する。というのは、岩波文庫『一寸法師・さるかに合戦・浦島太郎』に収録されている幾つかの地域に伝わる「さるかに合戦」(題が次のようにつけられている。「さるとかに」、「さるとひきがえる」、「さるときじ」、「南島のさるかに」)を読んでも、筋は現在の絵本に描かれているものとだいぶ違うからである。一部にずるがしこいサル――猿にはなんとも迷惑な性格づけであるが――に仕返しをして懲らしめる話はある。今日の「さるかに合戦」はそれら幾つかの筋が混ざって再構成されているのでないか。それはさておき、露木はこの童話をサルとカニの「2つの生き方」として「共通のひろ場」にくりひろげて読むことが正しいと考える。
筋は、露木の解釈が入っているが、こうである――サルとカニの間に握り飯とカニの種があった。小賢しいサルは先に握り飯を取る。おとなしいが深くものを考えるカニは柿の種を取った。カニは早く芽をだせと水をやる、そして次の年も、次の年もと、大きくなれと育てた。ついに大きな木になって実がついた。それを見たサルが、君は木に登れないからぼくが採ってやろうと申し出る。カニはではお願いしますと、実にすなおであった。サルはするするっと登っていって食べ出す。下で待つカニ君、いつまで待っても柿は落ちてこない。ぼくにも一つ下さい。サルはそれ、取れと、青い固い柿をなげつけた。それがカニにあたり、カニは死ぬ。さー、子ガニは泣くばかり。それを聞いた臼と蜂と栗が怒った。ひどい奴だ、よーし、みていろ。義憤にかられて……と、続きはもういいだろう。
露木は問う。今の人でこのカニのように柿の種の価値を知ってそれを選ぶ人は千人に何人といるだろうか、と。彼自身、自然農法の普及に努めてきたが、サルのような人間が圧倒的であったという。「手っ取り早い結論や、ソロバンをはじくやり方だけを求める人たちが圧倒的に多く、たまに、本質に共鳴する人が出ても、消極的であったり、はき違いが多くて手を焼きました。…「自然農法」の産物が出来ると先を争って奪い取るのです」。
こういうふうに「さるかに合戦」を読まされると、われわれ大人は自分の中にサル公的なものがいることに気づく。
露木がしたような編作は太宰治もやっていた。その内容は違うけれども。太宰は子供が読む昔話を大人向けの『お伽草紙』に改作している。その中の「カチカチ山」など、世の男性にとって実に怖い話である。白石加代子がそれを『百物語』の中に入れて全国をまわって朗読していた。演劇で鍛えた声が舞台と客席の空間を満たしていた。
露木は終わりにこう言う。このお話しの最後でサルは仇をとられるが、それはいま公害で痛い目にあっている日本のことではないか。
彼の「サルとカニのはなし」を聞くと、本当の文明とは何かを考えさせる。私の専門分野にひきつけてみると、本当の富や経済は何かという問題になる。これまでの経済学はみなその課題を抱えて出てきている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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