雲の出所が違う
今年もまた本格的な雨季の到来となりました。
東チモールの雨は、もちろん例外はありますが、大半は夕方4時以降に降り始めます。そして降水時間は2~3時間が目安です。したがって徒歩で町中に出る者としては行動計画が立てやすいのです。たまに例外にあたったときは、ずぶ濡れになったり帰宅困難に陥ったりします。これがわたしの抱く東チモールの雨季のイメージです。しかし今年の雨季はこのイメージからかけ離れています。
11月24日(日)は午後4時半から5時半までの1時間ほど雨が軽く降りました。この日から二週間近く雨降りの日が、2~3日除いて、つづいています。雨がほとんど降らなかった日も首都デリ(Dili、ディリ)の空は雲に覆われ、曇りのち雨の天気がつづいています。
12月7日、わたしは徒歩で町の中心部に繰り出したはよいが、いつ雨が降ってもおかしくない空模様であり、雲の色と空の明るさを気にしながら行動しなければなりませんでした。計画が立てにくい雨季なのです。雲の切れ目から太陽の日差しがさして、おっ、しばらくは雨は降らないだろうなあ……と思いながら、町を歩かないといけません。
南の山岳部方面の空からの雲が北のアタウロ島方面にゆっくり移動し、夕方になって首都の町に雨が降る、それまでは陽光まぶしい天気である、というのがこれまでの〝手順〟です。一日じゅう空全体が雲に覆われ、しかもそれが二週間近くつづいているのは東チモールの雨季らしくありません。
いまの雨季は雷がよく鳴っているのも特徴です。11月26月、ボボナロ地方(地方自治体)のマリアナで、川で魚採りをしていた14歳の男の子が雷に打たれて亡くなるという痛ましい事故が起きました。遠く雷鳴が響くとき、外で遊ぶ子どもたちを大人は避難させてあげなければなりません。
12月5日、午後4時ごろから弱く降り始めた雨は、夜7時半~8時ごろから本降りとなり、この雨が夜中から日付変わって未明4時~5時ごろまで断続的にではありますが、雷をともなって降りしきりました。雨が中断しているときでも、ネインサインのように空がピカピカと点滅していました。
通常ならば雨季の雨雲は、チモール島とオーストラリア大陸の間にあるチモール海の上に発生し、その雲が北方に移動し、チモール島を渡るときに東チモールに雨をもたらすという形式がありました。ところが二週間前から空全体を覆う雲の様子をインターネットの衛星写真を見ると、いまの雨季の雨雲は出生・生い立ちがいつもの雨季の雨雲と違います。いま首都を覆っている雲は、小スンダ列島からチモール海に至るまでの広範囲にまたがる雲の一部であり、チモール海の上に発生してチモール島を横切るように移動する雲ではありません。チモール海を一部とする広範囲に及ぶ海洋が発生させた雲がこの二週間、東チモールに覆いかぶさって雨を降らせています。これまでの雨雲とは出所が違うので、その性質も異なっているようです。
49年目の「11月28日」
1975年11月28日、インドネシア軍の全面侵略を目の前にしてフレテリン(FRETILIN=東チモール独立革命戦線)は東チモール民主共和国の独立を宣言しました。この時点でインドネシア軍はすでに東チモールに侵攻しており、全面侵略とは総仕上げという意味でした。
1974年4月25日の「カーネーション革命」によって独裁政権が倒れた宗主国ポルトガルにたいして、アフリカ人はすで独立宣言をしていました。ギニアビサウは1973年9月24日に(1974年9月10日にポルトガルは承認)、モザンビークは1975年6月25日に、カボベルデは1975年7月5日に、サントメ・プリンシペは1975年7月12日に、そしてアンゴラは1975年11月11日に、それぞれ独立を宣言し独立を果たしました。この歴史の流れからすると、ポルトガル領チモールと呼ばれていたアジアの東チモールでフレテリンがアンゴラの独立宣言日から17日後に独立宣言をしたとしても決して奇矯な行動とはいえません。当時のアメリカのキッシンジャー国務長官は「われわれがフレテリンを承認することはないだろう」と述べたようですが。
「カーネーション革命」によって民主化の歩みを始めたポルトガルから独立宣言をした東チモールは、アメリカによって後押しされたインドネシア軍に襲われ軍事占領されても、抵抗を続けインドネシア領になることを拒み続けました。1999年8月30日の住民投票でつけられた決着にはアメリカも認めざるを得なく、国連統治を経て、国際社会が認める独立を達成したのが2002年5月20日です。こうして東チモールには、「11月28日」の「独立宣言の日」と「5月20日」の「独立回復の日」、独立記念日が二つあるというわけです。
「独立宣言の日」と「独立回復の日」のそれぞれの「独立」について、どこからの「独立」なのかと問うたとき、上述した歴史をみれば「ポルトガルから」としか答えようがありません。インドネシアは東チモールがポルトガルから独立するのを24年間妨害したというのが精確な言い方ではないでしょうか。しかし「インドネシアから独立した」という表現がなぜか一般的になっているようです。最近も、「建設ラッシュに沸く東ティモールの首都ディリの光と影、『首都美しく』ASEAN加盟が目標、強制立ち退きに批判も」」という共同通信の記事(2024年11月30日)をインターネットでみましたが、この記事の中で「東ティモールは2002年、インドネシアから独立」とあっさり(?)記述されていました。これを書いた記者にお訊ねしたい。東チモールは一度もインドネシアの領土になったことがないのにどうやってインドネシアから独立できるのですか?……と。
スッキリしなかった今年の「独立宣言の日」
1975年から49年がたち今年も11月28日の「独立宣言の日」を迎えました。大統領主催の記念式典が飛び地のオイクシ地方、つまりRAEOA(ラエオア、オイクシ/アンベノ特別行政地域)で行われたのをはじめ、全国各地で「独立宣言の日」49周年記念式典が催されました。
シャナナ=グズマン首相は2025年度国家予算案が国会を通過した11月23日にRAEOA入りし、RAEOA地方祭の幕開けの音頭をとり、大統領主催の記念式典が開かれるこの地域を盛り上げました。そのシャナナ首相は11月28日にはRAEOAにはおらず、首都のベコラ刑務所広場で行われた記念式典に出席しました。ここでの式典ではマリアノ=アサナミ=サビノ=ロペス副首相が主催者なのでしょうか、演説をしていました。
さて今年の「独立宣言の日」記念式典にかかわることで、11月におこなわれた2025年度予算の国会審議の場において議論が白熱しました。ラモス=オルタ大統領が、11月12日の「サンタクルスの虐殺」の追悼式典での演説で唐突とも一方的ともいえる和解を話題にし、このときからシャナナ首相とラモス=オルタ大統領は和解を何か政治利用しようとしているのではないかという不信感が野党にもたれたのです。和解にかんして大統領は1975年の過ちから学ぶべきだという言い方をしたことで、過ちをしたと示唆されるフレテリンは面白くありません。またフレテリンからは、いまインドネシアと良好な関係にあるのでわざわざ和解をもちだすことはないという意見も国会で出ました。
東チモールで「和解」というとき、インドネシア側についた東チモール人と抵抗運動に身を投じた東チモール人のあいだの和解を一般的に意味します。しかしながら野党フレテリンのマリ=アルカテリは、指導者たちが和解を口にする前に指導者たちが和解するべきだと皮肉をいうと、シャナナ首相は、まずフレテリン内の和解が必要だ、となんだかわからない論争も繰り広げられました。しかしマリ=アルカテリは、和解は心からのものであるべきであると、なんらかの政治的な意図が潜んでいるような和解を牽制しました。野党PLP(大衆解放党)党首のタウル=マタン=ルアク前首相も心の和解を強調しました。
シャナナ首相とラモス=オルタ大統領が持ち出す和解とは、庶民の心のあり様を無視したものに思え、不自然さを感じさせます。上から下への伝達で和解は実現できないことは明らかです。
11月23日RAEOAで、そして11月28日ベコラ刑務所の広場で、シャナナ首相は将来に問題を起こさないように過去に起こったことを忘れるようにと国民に呼び掛けました。シャナナは、2000年初めの国連統治時代もこのような呼び掛け方をしています。未来のために過去に目を閉ざしてはならないというのが正論であり、過去を忘れて和解は実現不可能だとわたしは信じます。同じ過ちを犯さないためにも過去を忘れてはならないはずです。
「独立宣言の日」を前にして、ラモス=オルタ大統領がエウリコ=グテレスを記念式典に招待するのではないかと噂されましたが、大統領は式典の直前にエウリコ=グテレスは来ないと述べました。エウリコ=グテレスとは、1999年の住民投票が実施される前にインドネシア軍の支援をうけて暴れた民兵組織の頭領だった東チモール人で、現在、西チモールのクーパンで暮らしています。
なお、ラモス=オルタ大統領が主催したRAEOAでの「独立宣言の日」記念式典には、インドネシアの国防相がプラボウォ大統領の代理として出席しました。それだけではなく、ウィラント国軍司令官(当時)とキキ=シャナクリ少将(当時)という東チモールにかかわった〝錚錚たる〟顔ぶれが出席しました。インドネシア軍が過去に東チモールで何をしたか、これをシャナナがいうように忘れてしまっては、東チモールがインドネシアとの外交関係を発展し維持するための障害になるとわたしは強く思います。
12月3日の定例国会で、今年の「独立宣言の日」の記念式典はナショナリズムの内容がなかったと民主党の議員から批判の声が出ました。民主党は与党です。このことから今年の「独立宣言の日」の記念式典は連立与党内で練られたものではなく、シャナナ首相が強引に牽引したものであることが推察されます。またこの国会で野党は、「独立宣言の日」に伴う大統領恩赦が性的加害者に与えられることをとがめました。
今年の「11月28日」は、喧々諤々とまではいかないにしても、あと味のよろしくない、スッキリしない独立記念日になったような気がするのは、曇りの天候が長くつづいているからでしょうか。いや、そうではないとおもいます。
そして49年目の「12月7日」
フレテリンが独立を宣言してから9日目の1975年12月7日、アメリカのお墨付きを得たインドネシアは東チモール全面侵略を開始しました。東チモール人はこうして大規模な惨事にみまわれることになります。
フレテリンの独立宣言を認めず、大惨劇にみまわれる東チモールの人びとに心を痛めて少なくともインドネシア軍の撤退を求める国連に協力しようともしない国は多々ありましたが、日本はインドネシアのスハルト独裁政権にたいする最大の経済支援国であったことで、1975年以降に起こった東チモールの惨劇に加害国として大きな責任を負っています。
第二次世界大戦中の日本軍による東チモール占領にたいして日本は清算をしていません。1975年以降に起こったことにたいしても然りです。経済支援をしているから過去を清算していることになるのでしょうか。日本は加害国としての自覚をもち誠実に過去と向き合って東チモールと付き合っているのでしょうか。
東チモールが「11月28日」と「12月7日」を迎えるとき、日本はこのことをじっくりと考察すべきです。
青山森人の東チモールだより 第524号(2024年12月8日)より
e-mail: aoyamamorito@yahoo.com
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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