ほんの少し残った日食
4月19日に始まった選挙戦ですが、その翌日20日は皆既日食が話題の主役となり、盛り上がるはずの選挙戦は出だしからあまり熱くならなくてもすみ、いい意味で出鼻をくじかれました。4月20日は皆既日食のため学校や役所は休みとなり、政府は、「(不要不急の)外出は控えるように」と国民に呼びかけました。太陽に気をとられた前方不注意な運転手の車にひかれたりぶつかったりしてはたまりませんから。ニュースによればこの日、道路は閑散とした様子でした。道路だけでなく病院もすいていたようです。わたしもおとなしくベコラの家の自室のある二階から陽光を観察しました。
日食のピークを迎える20日の1時20分ごろの2時間ほど前から日光が弱まり始め、一大天文ショーが始まりました。残念ながら首都デリ(ディリ、Dili)は皆既日食の経路から少しずれているため、月は太陽を完全に隠しませんでした。ピーク時の午後1時20分ごろ、外は完全には暗くならず薄暗くなった程度でした。しかしその暗さとは、赤みのかかった、熱のない(トタン屋根の反射光から熱がなくなった)、まろやかな光に覆われた気分になる神秘的な明るさでした。太陽が厚い雲に覆われて暗くなったときとは明らかに異なっていました。この暗さは、天変地異の予兆を動物に感じさせることはなかったようで、犬や猫、豚、そして鳥たちがざわざわすることはありませんでした。そして住民も石で鉄柱をカーン・カーンと叩く行動には出ませんでした。ちょっと拍子抜けでした。もっともこれはわたしの滞在するベコラでのこと。ほかの区域では、石で鉄柱を打ちつけカーン・カーンと鳴らす者がいたところもあったようです。
皆既日食の経路にあったビケケ地方のベアソやラウテン地方のコムでは太陽と月が重なったようです(地球から太陽の距離は地球から月の距離の400倍、太陽の直径は月の直径の400倍なので、月と太陽の見かけの大きさが同じとなる。したがって地球上の観測の眼と月と太陽が直線上に並ぶとき皆既日食が起きる)。少し経路から外れたデリでは、極細の〝三日月〟ならぬ〝三日太陽〟になりまた。もちろんこれはわたしが直接目撃したことではありません。公共放送局RTTLで皆既日食の実況中継をしていたので、無理して直接お天道様を拝まなくてもテレビやインターネットを通して皆既日食の様子を見ることができたのです。
保健省は、太陽を直接見てはいけない、巷で売られている観測用メガネはまがい物であるから使用してはいけない、と新聞・テレビやSNSを通して周知徹底を図りました。しかしわたしの耳に入ったところでは、多くの人たちがまがい物の観測用メガネを使ったようです。深刻な眼の被害が出ないとよいのですが…。
「カーネーション革命」から49年目
皆既日食という一大イベントが終わると、その翌日4月21日(金)はイスラム教徒のためのラマダン明けの休日となり、そして週末に入りました。皆既日食の20日から東チモールは四連休でした。そして週が明けて選挙戦一色となる前に、今年も「4月25日」を迎えました(東チモールだより第459号参照)。
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2023年4月18日、ⒸAoyama Morito.
ポルトガル大使館の塀に飾られた「カーネーション革命」を祝う横断幕。
今年はブラジルの詩人・音楽家のシコ=ブアルキの詩(歌詞)が掲げられた。
「祝っているのがわかります
うれしいです
わたしがいないあいだ
わたしのためにカーネーションをとっておいてださい」。
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庶民の願いと「カーネーション革命」
1974年4月25日、ポルトガルで独裁政権を倒す軍事クーデターが勃発し、大衆が兵士の銃口にカーネーションをさして軍事クーデターを大歓迎したことから、このクーデターは「カーネーション革命」と呼ばれました。これによりポルトガル国内では独裁体制から民主化への道が、ポルトガル領アフリカ植民地には独立交渉の道が拓かれ、そしてアジアの東チモールでは自由な政治活動ができるようになり民族解放運動が本格的に始まりました。
なぜ軍事クーデターが大衆の支持を得たのでしょうか。「カーネーション革命」が勃発したポルトガルの様子を当時ポルトガルに滞在していた東チモール人であるS氏からの最近の手紙でわたしは読むことができました。
S氏は1970年代前半の4年間ポルトガルに滞在しました。1974年1月までポルトガル軍で勉強をし、訓練を受け、その後、ポルトガル軍に従事しました。同年2月すでに何かが起こるという情報があり、革命側につくかどうかの決断をすることになり、S氏は革命側につくことを選ぶと、軍事訓練校から連絡があったといいます。革命が起きると、S氏は独裁体制の弾圧機関であったPIDE(秘密警察、ピデ)の人員を、反動的な行動を阻止するため、そして庶民によるリンチから守るためにも、スペインとの国境で捕まえるという任務が与えられました。
S氏によれば革命前当時のポルトガル人の関心はアフリカでの植民地戦争にあったといいます。自分の息子が徴兵されることは、アフリカ戦場で殺(や)るか殺られるかの死を意味し、あるいは死ななくても身体不随となって残りの人生を送らなくてはならないことを意味しました。ポルトガルの人びとはアフリカでの植民地戦争を恐れ、戦争が終わることを願っていたとS氏は当時のポルトガルの状況を述べます。
アミルカル=カブラルと「カーネーション革命」
上記のことはポルトガルにとってアフリカ人が戦争で強かったことを意味します。ギニア=ビサウとカボ=ベルデの解放闘争の指導者・アミルカル=カブラル(1924年9月12日~1973年1月20日)は、ポルトガル独裁体制がアフリカ人に仕掛ける植民地戦争でポルトガル兵士と戦うことがポルトガル独裁体制に苦しめられているポルトガル人にたいする最大の連帯の意思表示であるという意味のことを述べています。S氏によればポルトガルの庶民は、アフリカ人は自由になる権利を有することは理解していたが、アフリカ人は戦争でポルトガル人兵士を躊躇することなく殺す恐ろしくて危険な存在だとも思っていた、といいます。
アフリカ(ギニア=ビサウとアンゴラそしてモザンビーク)での戦況がポルトガル軍の将校たちをして、戦争に勝つことは不可能であるという現実を直視せしめ、したがって戦争ではなく政治的な解決が必要であるという結論に達しせしめ、「4.25」のクーデター、「カーネーション革命」へとポルトガルの歴史は変革の道を歩んだのでした。カブラルはポルトガル人へ連帯の意思を最大限に示すことで、ポルトガルに変革の道を与えたことになります。アフリカからヨーロッパへ吹いた変革の風、それが「カーネーション革命」なのです。
アミルカル=カブラルが何者かの策略によって暗殺されたのは1973年1月のこと。カブラルの死について当時ポルトガル軍に所属していたS氏によれば――ポルトガル軍は相手をやっつけたことを肯定的にとらえていたが、その一方で一般庶民にしてみればアフリカ人による報復を恐れたのでポルトガル軍がアフリカ人を殺すことを望んでいなかった。とくにアミルカル=カブラルはゲリラの指導者として大きな存在であった。カブラル指導のゲリラ戦術によって大勢のポルトガル兵士が死んだ。カブラルの暗殺はPIDEによるものといわれている――このようにS氏はいいますが、カブラルの暗殺は、実行犯は捕まって処罰されているものの、誰の指示によるものなのか、いまだ不明のまま、謎のままです。
東チモールに政治活動の自由をもたらした「カーネーション革命」ですが、その後、もしも宗主国ポルトガルにしっかりと東チモールの非植民地化手続きができていたら……と考えると、素朴に「祝!カーネーション革命」と乾杯することはできません。ポルトガル植民地主義の歴史的検証はまだまだ必要です。
歴史から教訓を得て戦争を阻止しよう
S氏の記述をまとめれば、勝てない戦争には政治的解決が必要であると結論に達した軍部のクーデターは、戦争の終結を望んだ一般庶民の願いに後押しされて、「カーネーション革命」として実を結んだことになります。
歴史からわたしたちは何を学ぶことができるでしょうか。戦争を起こす前に政治的解決に取り組めば戦場で人が死ななくても済むという、いわば当たり前のことを確認できます。独裁体制にまだ日本はなっていないとは思いますが、非民主主義体制は確立されつつあり、「新たな戦前」状態になっています。一般庶民が戦争を起こさせたくないと切望し、それを結実させなければ、戦争の終結を願うという事態になってしまいます。
青山森人の東チモールだより 第487号(2023年4月25日)より
e-mail: aoyamamorito@yahoo.com
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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