青山森人の東チモールだより…オランディナさん、安らかにお眠りください

女性解放闘士、逝く

マリア・オランディナ・イザベル・カエイロ・アルベスさんが、3月31日の午前1時ごろ(マレーシア時間)、マレーシアの病院で癌のため亡くなりました。享年69歳でした(1956年3月20日~2025年3月31日)。地下活動家としてのオランディナ=カエイロさんにわたしはインドネシア軍占領下の東チモールで出遭いました。侵略軍の厳しい監視による張りつめた空気のなかでのオランディナさんとのやりとりはわたしにとって忘れることのできない体験です。

オランディナさんは1975年にフレテリン(FRETILIN、東チモール独立革命戦線)に参加した東チモールを代表する活動家であり、この国の女性の権利と自由を主張する草分けでした。

オランディナさんの死を悼む報道を参考にしてその経歴を以下、ざっとまとめてみます。1956年3月20日、エルメラ生まれ。1975年にフレテリンに参加、国内初の新聞の一つ「東チモールの声」の創設者で、解放運動が発信していたラジオ局「ラジオ マウベレ」(インドネシア軍による侵略後もしばらく機能していた)で活動しました。1975年12月に侵略したインドネシア軍によって捕まり、西チモールのクーパンに収監され、息子を獄中出産しました。森のなかで武器を執ったFALINIL(東チモール民族解放軍)の戦士である夫とは二度と会うことはできませんでした。1979年に釈放されましたが、その後もインドネシア軍に捕らえられ拷問されることがありました。その後、1989年まで、インドネシア軍占領下でインドネシアの公務員となりながら地下活動家として抵抗活動を続けます。1992年、シャナナ=グズマンがインドネシア軍に捕まってしまったことに関連し、オランディナさんも仕事や財産もすべて失ってしまいました。それでもめげずオランディアさんはその1992年、デリ(ディリ、Dili)にレストランを開店し、生活を維持しつつ抵抗運動を継続していきます。1998年、オランディナさんは暴力に反対する女性組織の代表となりました。国連暫定統治時代では、2001年、制憲議会選挙に無所属として立候補しましたが、残念ながら当選できませんでした。その後、CAVR(受容・真実・和解委員会、この委員会の公聴会における女性の証言内容の一例は拙著『東チモール 未完の肖像』[2010年、社会評論社]、124頁を参照)やCVA(真実友情委員会)などで活躍し、多岐にわたる分野で疲れを知らない活躍を見せました。2011年から、インドネシア・バリ島の初代デンパサール領事館となり外交官の道を歩みだし、2017年から4年間、マレーシア駐在東チモール大使を務め、さらに2021年12月~2024年5月、ベトナム駐在東チモール大使を務めたのです。

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2001年1月18日、テレビ画面から。

独立準備としての国連による暫定統治下で実施された制憲議会選挙に無所属で立候補したオランディナさんの政見放送。

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2003年2月18日、テレビ画面から。

CAVR(受容・真実・和解委員会)の委員として活躍していたころのオランディナさん。

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オランディナさんのレストランで

抵抗運動の最高指導者シャナナ=グズマンが侵略軍によって捕らえられた1992年から数年間、抵抗組織にとって組織再編を余儀なくされる試練の時期でした。しかしニノ=コニス=サンタナ司令官による指導態勢で新しい抵抗運動が始まろうとした時期でもあり、そしてまた都市部の地下組織にとっても試練と忍耐の時期でした。わたしがオランディナさんと出遭ったのはそのような状況下でした。

わたし(とビデオカメラン)は地下活動家にオランディナさんのレストランにいって食事するようにいわれ、そこで何度も地下活動家と接触をして情報を集めました。このレストランでのオランディナさんを含めた地下活動家たちとのやりとりは、まるでスパイ映画のなかでの出来事のようでした。直接言葉を交わすことは敵のスパイが見ているかもしれないのでもってのほか、たばこをもらうふりをして、メモを隠し入れたマッチ箱を差し出したり受け取ったりして情報交換をしなければなりませんでした。わたしたちのやりとりを地下組織の立場で監視するのがオランディナさんでした。わたしが直接オランディナさんと言葉をかすかに交わすことのできた瞬間とは、注文した料理を運んでくれたときと、わたしが手洗いに立ったときだけでした。わたしは外国からやって来た人間として、利用できるか人間か、役立たずのアホか、オランディナさんのレストランで地下組織によってじっくりと〝品定め〟をされたに違いありません。

三度目のゼロからの出発を喜んだオランディナさん

1999年12月、わたしはダーウィンからオーストラリア軍の高速船に乗り、インドネシア軍によって破壊の限りを尽くされた東チモールのデリ(ディリ, Dili)を訪れました。破壊され瓦礫の山となったとはいえ、わたしは侵略軍から解放された町を歩いて、まさにこの国が自由になったことを実感できました。その自由とは侵略軍による監視を受けない自由だけではなく、抵抗組織の規制を受けないという意味でも自由です。ともかく自由に適当に歩けることで解放感を味わったものです。そして犬も歩けば棒にあたる、誰か知り合いに会えるかもしれないと思って適当に歩いていたら、まずバッタリ会った人がオランディナさんでした。1999年9月、暴力の嵐に巻き込まれたオランディナさんの安否について、民兵が破壊活動を本格化させたときオランディナさんの家が真っ先にやられたとか、スラバヤで難民生活をしているとか、いろいろな噂を聞きましたが、無事だったのです。焼け落ちて屋根のない家の〝外〟でオランディナさんは読書をしていました。

インドネシア軍の諜報機関から目をつけられていたオランディナさんは住民投票の結果発表(1999年9月4日)後の9月7日、民兵に捕まり、その2日後にクーパンに連行されてしまいましたが、スラバヤなどを経由してジャカルタに逃れ、親戚の家にしばらく滞在し、リスボンへ飛び、さらにロンドン➝バンコク➝シドニーそしてダーウィンへと移動し、1999年11月11日、無事に東チモールへ生還したのでした。この逃避旅行で有り金を使い果たし、残ったのは焼き崩れた自宅だけだというオランディナさんは、「こんなになってしまいましたが、いまわたしはとてもうれしい」と満面の笑顔で喜び、「まさしくゼロから出発ですが、これで三度目です」と解説してくれました。一度目の「ゼロからの出発」は1975年のインドネシア軍侵略のとき、二度目は1992年にシャナナが逮捕されたことにともなって財産を失ったとき。三度目は過去の二度とはまったく違う、勝利を手にした「ゼロからの出発」でした。これからはインドネシア軍の暴力の後遺症に苦しむ女性たちのために活動をしていきたいとオランディナさんは抱負を語りました。

国連による暫定統治に入ると指導者たちは民衆から背を向け国際社会ばかりを向き始めたことから民衆の笑顔が消えていったのと同期して、オランディナさんの表情も曇っていきました。オランディナさんは、政治指導者同士の対立を馬鹿げている、CNRT(チモール民族抵抗評議会)は腐敗しているといい、怒りの表情に変わっていったのです。そして政党政治に参加することなく、オランディナさんは女性の権利を主張する活動家として人生をおくったのです。

オランディナさん、お疲れさま、どうか安らかにお眠りください。

青山森人の東チモールだより  easttimordayori.seesaa.net

第532号(2025年4月3日)より

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
〔opinion14183250405〕