東チモールの定例国会が開会
先月9月16日、ジョゼ=ラモス=オルタ大統領や控訴裁判所長など政府要人が出席して、東チモールの定例国会が開会されました。
この開会式でマリア=フェルナンダ=ライ国会議長は、アントニオ=グテレス国連事務総長とローマ教皇フランシスコの訪問にたいし模範的な歓迎ができたことに感謝し、そして祝辞を述べました。とくに若い世代へは、旧い世代の期待を越えただけでなく可能性を再定義し無限の可能性を示したと褒めたたえました。そしてライ国会議長は、東チモールが世界的な要人を厳かに迎える能力があることを示したばかりでなく、東チモールが国際的な舞台に立てることを示したと惜しみない賛辞を表現しました。
また同じこの開会式でジョゼ=ラモス=オルタ大統領は、ローマ教皇フランシスコの東チモール訪問を成功させ、各省庁間の連携とカトリック教会の使節団と東チモール市民が協働するという優れた成果をもたらしたシャナナ=グズマン首相を賛美しました。
このように東チモール政府は、アントニオ=グテレス国連事務総長(8月30日)と、そしてとりわけローマ教皇フランシスコの東チモール訪問(9月9~11日)を無事に成功させたことに安堵と自画自賛が入り交じった余韻にしばらく浸っている様子でした。
25年目の「8月30日」
東チモールの独立を国際社会に認めさせることになった国連後援による住民投票が実施されてからから(1999年8月30日投票)今年で25周年を迎えました。この25周年記念式典にアントニオ=グテレス国連事務総長が出席したのです。
東チモール国会は8月30日、アントニオ=グテレス国連事務総長(*)への名誉市民権の授与を可決・承認しました。
(*)後日、シャナナ=グズマン首相は国連総会に出席し、アントニオ=グテレス国連事務総長に名誉市民権の証書を手渡した。またグテレス国連事務総長は10月2日、イスラエル政府によって「好ましからざる人物」に指定された。
今年の「8月30日」の記念式典はいつものと違いました。それは25周年の「25」という節目になる数字がついているからではなく、続く9月9日~11日にローマ教皇フランシスコの訪問を控えていたからです。東チモー政府にとって「8月30日」の25周年記念式典は、これに主席する海外からの要人を迎え入れての式典行事を成功裏に収めることは、ローマ教皇を歓迎するための〝弾み〟をつけることになるからです。
また一方で純粋な歴史的な観点からすれば、「8月30日」とローマ教皇の訪問(*)とは、長く苦しい東チモール解放闘争史に決定的な転換を引き起こした重要な出来事であることから、この二大行事を近い日付で連続的に行うことは、東チモール人にとって自分たちの歩んできた道のりを改めて想起させることになります。アイデンティティの再確認といってよいかもしれません。
(*)1989年10月、ローマ教皇ヨハネパウロ2世がインドネシア軍事占領下にある東チモールを訪問。厳重な監視下で行われたミサの場で若者たちがデモ活動を実行した。若者たちのこの勇敢な行動が人びとを鼓舞し抵抗運動の組織化が進み、その勢いは1991年11月12日のサンタクルス墓地へのデモ行進で最高潮に達した。なんとしてでもその勢いを絶つためにインドネシア軍は無差別発砲の虐殺行為に及んだ。「サンタクルスの虐殺」である。
祝!解放軍創設49周年
「8月30日」もローマ教皇フランシスコ訪問も、もちろん大切な行事ですが、その前の「8月20日」をわたしたちは忘れてはなりません。8月20日、FALINTIL(ファリンテル:東チモール民族解放軍)創設記念式典が防衛省建物前で行われました。今年は49周年記念です。「8月30日」25周年とローマ教皇フランシスコ訪問を前にして今年の「8月20日」はちょっと影が薄かったようです。まあ、50周年となる来年は盛大に祝ってもらいましょう。
ローマ教皇フランシスコ、東チモールを訪問
普段めったにニュースにならない東チモールでも、さすがにローマ教皇フランシスコの来訪となれば国際ニュースの報道対象となりました。カトリック教会のフランシスコ教皇は9月2日に出発し、インドネシア(9月3日到着)→パプアニューギニア(9月6日到着)→東チモール(9日~11日)→シンガポール(9月11日到着)を訪問しました。
東チモールにとってローマ教皇の訪問は、独立(独立回復)した2002年以来最大の催事(祭事)といって差し支えないでしょう。そしてシャナナ=グズマン首相率いる現在の第九次立憲政府にしてみればローマ教皇の訪問を成功裡に収めることとは、自分たちの政権による権威と安定、そしてASEAN(東南アジア諸国連合)加盟に向けて国際社会における存在感を国の内外に示すことです。全神経を集中してローマ教皇の東チモール訪問を威信にかけて成功させなくてはなりません。
ローマ教皇の東チモールでの日程を以下、簡単にまとめました。
【9月9日】
14:10 東チモールに到着。
15:00 宿泊先となるローマ教皇庁大使館へ移動。
18:00~19:30 大統領府で歓迎式典。
【9月10日】
8:45 尼僧院を訪れ、障がいをもつ子どもたちと面会。
9:30~10:30 大聖堂(カテドラル)を訪問し、聖職者たちと面会。
15:30~ ローマ教皇庁大使館からタシトルへ移動。
16:30~ 18:00 タシトルに設置された特設会場でのミサ。人口130万の約半数がミサに参加。
18:30~ タシトルからローマ教皇庁大使館へ戻る。
【9月11日】
9:30~10:30 コンベンションセンターで若者たちと交流。
10:45~ 次の訪問国シンガポールへ。
要人は屋根の下、庶民は日傘をさして
タシトルで行われるミサで歌を披露する団体に属する娘(11~12歳)をもつ一家はまさに臨戦態勢の日々を送ったようです。この娘さんは家から車で10分ほどかかる音楽学校に毎日通って練習をしていましたが、ローマ教皇の来訪がいよいよ迫った9月7日からは、本番会場でリハーサルをするためタシトルに通うことになり、親はせっせと車で娘をタシトルへ送迎しなければならなくなりました。小さな赤ちゃんもいるその家族にとってこれは相当の負担になります。その家族は大聖堂があるビラベルデに住んでおり、普段ならタシトルまで20~30分かかりますが、ローマ教皇の来訪が迫るにつれ、道路は大混雑してきたといいます。時間も相当にかかったに違いありません。
この家族によれば、ローマ教皇来訪にたいする政府の対応は粗末なもので、管理運営がなっていないということです。ニュースにも報じられましたが、初めミサに参加を希望する人は事前に登録しなければならなかったのですが、結局、登録しなくてもよいことになり混乱を招きました。
そして、ローマ教皇の東チモール滞在中のニュース映像を見ればわかりますが、あたりまえですが教皇に近づけるのはごくわずかな人たちだけ、政府要人や聖職者やその関係者だけ、そして幸運な人たちだけです。はるばる地方からやって来た一般庶民の信者たちは教皇に直接祝福を受けたかったでしょうが、それは叶うはずもありません。
タシトルを会場とするミサに集まった人たちは日傘をさして炎天下の強い陽ざしから身を守る一方で、政府要人や特権的地位のある人たちは、特設会場に設置された屋根の下で椅子に腰かけることができました。一般のミサ参加者のため心地よい日陰は設置されませんでした。一般の人びとに日陰を提供しない催事の光景は、催事規模の大小にかかわらず東チモールでは通常のことです。これは催事での一般の人びとにたいする配慮に欠ける東チモール政府の弱点だとわたしは思っています。今回のタシトルのミサの光景からも、一般の信者への思いやりをもっとしてもよいのではないか、一般大衆の信者は政府要人や特権的地位のお偉いさんたちの二の次にされているのではないか、とわたしは感じました。
暴力的な浄化
長年にわたり公的な土地に不法滞在している住民にたいし、現政権は小屋・家の撤去と立ち退きを執行する強硬姿勢を今年の4月ごろから取り始めました(東チモールだより 第514号)。この強硬姿勢は一部ではローマ教皇訪問にあわせた町の浄化であるという声がある一方で、政府当局や教会はこれを否定してきました。しかしローマ教皇訪問が間近に迫るなか、政府の強硬姿勢は強暴性を帯びたのです。
当局(地名都市計画庁)が連れてきた人員がまるで暴力団のように、路上で野菜や食べ物を売る人たちを蹴散らす映像がSNSで流れました。9月の3日夜8時ごろ、路上で物売りをする人たちの屋台やリアカーをこん棒でたたいたり蹴ったりして追い払ったのです。路上で物売りをするのは貧しい人たちで生活のためにしていることです。商品となっている野菜などの食品は地面に捨てられ、小さな子どもが、「アパ~(お父ちゃ~ん)」と泣く声が聴こえます。こんな蛮行が東チモール政府のもとで行われるとは、シャナナ政権はいったい何を血迷ったのでしょうか。ローマ教皇を乗せた車が通る沿道をきれいにしたかったら、住民の協力を求めるべきであり住民を脅かすべきではありません。暴力では何も解決できない――東チモールの指導者がずっと訴えてきたことです。
表現の自由への脅威
上記の9月3日夜に起きた出来事を取材していたジャーナリスト一名が警察に一時拘束され、これは表現の自由への脅威であり憲法違反であるという抗議の声が各方面からあがりました。
「8月30日」前から、西パプア・パレスチナ・西サハラへの連帯を示す人権活動家の動きが出はじめ、治安当局は要人を迎えるにあたり緊張してきました。パレスチナと西サハラへの連帯は東チモール政府の外交方針です。西パプア問題については、インドネシア政府に外交的な忖度をしているようです。この忖度は治安当局により具体的な行動に現れました。
例えば8月29日、治安当局は西パプア・パレスチナ・西サハラへの連帯を示すポスターや横断幕を作成するオーストラリア人一人を〝確保〟しました(『インデペンデンテ』(インターネット版、2024年9月2日)。報道によれば、このオーストラリア人女性はこれらの問題をアントニオ=グテレス国連事務総長に訴えるつもりでありデモ活動をするつもりはないといい、当局はこの活動家の身元を確認したあと帰したとのことです。
また9月2日には、外交訓練を受けに東チモールに来たパプア人を空港で見送った東チモールの人権活動家二人のうち、西パプアの国旗の色をした(絵に描いた?)カバンを所持していた一人が私服警察に銃で脅されて拘束されました(『インデペンデンテ』のYouTubeニュースは警察のこの行動は憲法違反であると抗議声明を出す人権団体の映像を流した)。
国際的な要人を迎えるとき、外交問題や紛争の解決を訴える活動家を取り締まる傾向にあるのは東チモールに限ったことではないでしょうが、ポスターや横断幕を所持しているだけで警察に捕まってしまうのは、東チモール憲法の精神に反します。海外からの要人を歓迎することは自由と引き換えにして成功させるものではありません。
世界に向けて何を示した?
東チモールの「人権と正義の擁護機関」のビルジリオ=グテレス代表は、先述の9月3日の夜に起きた件について当局の蛮行を非難する記者会見のなかで、ローマ教皇の東チモール訪問は東チモールがこの国が民主主義の国であることを世界に向けて示す機会であると述べました。まさに然り。ところが実際は、悲しくも、東チモールが人権侵害や表現の自由の脅威が跋扈する国になってしまうのではないかという危惧を抱かせることが多々起こってしまったのです。
青山森人の東チモールだより 第519号(2024年10月10日)より
e-mail: aoyamamorito@yahoo.com
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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