青山森人の東チモールだより…形式ばった式典より手作りのデモがいい

大混乱の9月から20年目

「2009年8月30日、東チモールが独立を決めた住民投票から10年がたった」(漢数字は算用数字に直す)いう文章で拙著『東チモール未完の肖像』(社会評論社、2010年、)は終わりました。

今年は2019年、チモールが独立を決めた住民投票から20年がたちました。住民投票20年周年を記念する一連の行事は、住民投票日「8月30日」を頂点として大々的におこなわれ、9月に入り政府主催の最後の大きな行事として「9月20日」の記念行事へと続きました。

「9月20日」とは、インドネシア自治領案に反対票(つまり独立に賛成)を投じた東チモール人に報復の嵐を吹き荒らしたインドネシア軍を鎮めるためにオーストラリア軍を中心とする多国籍軍(INTERFET、インターフェット)が東チモールに上陸した日です。INTERFETの上陸は、これまでインドネシア軍による東チモール侵略を“陰に陽に”支援してきた国際社会が“手のひらをかえすように”東チモール人のために具体的な軍事行動をとった歴史的な転換を意味します。これによってインドネシアがどうあがこうとも東チモールの独立は国際社会の主要外交日程に組み込まれることになったのです。

20年前の今ごろ、日本の大手マスコミによるテレビ・新聞でさえもトップニュースは大混乱の渦中にある東チモールでした。当時テレビ朝日の人気ニュース番組「ニュースステーション」で、首都デリ(ディリ、Dili)近郊の山に避難するジョゼ₌ベロ君が、避難民の生活が衛生的に劣悪な環境にあることを述べたあと、大きくため息をついて、インドネシア軍による破壊活動のために何もかも失った、ゼロからの出発だ、と語る映像が流れました。語る内容は深刻でしたが、長く苦しい抵抗運動が実を結び、自由を獲得した達成感からか、心なしかジョゼ君の表情はわたしには笑顔にみえました。

当時、ジョゼ₌ベロ君の妻・マダレナさんと生まれたばかりの長男・アミジョ君は、9月16日、軍

の飛行機でダーウィンに避難し、そこで約一ケ月暮らし、その後、シドニーに移り、そこでも約一ケ月避難生活をしました。ダーウィンでは自由に出歩くことができたけど、シドニーでは家族関係者が滞在先に迎えに来なければ外を出歩くことができなかったとマダレナさんは往時を振り返ります。

あっけない「9月20日」の記念式典

2019年9月20日、9時半ごろ、タウル⁼マタン⁼ルアク首相やピーター⁼コスグローブ元INTERFET司令官などVIPやら要人の着席が司会進行役のアナウンス(一般見学の場所からは声はすれど姿は見えず)が流れ、政府庁舎広場での「9月20日」20周年記念式典が始まりました。まず国歌斉唱、そしてルオロ大統領が解放運動で倒れた犠牲者のための一分間の黙祷を来賓客や会場にいる人びとに呼びかけました。

黙祷が終わると、まず主賓であるピーター⁼コスグローブ元INTERFET司令官が英語で演説、テトゥン語の通訳がつきました。次に、東チモール人の戦争を知らない若い世代の代表として10代の女の子が英語で演説を英語でし、これには通訳がつきませんでした。次にフランシスコ⁼グテレス⁼ル⁼オロ大統領(以下、ルオロ大統領)がポルトガル語で演説し、通訳はつきませんでした。3人とも10~15分程の簡単な演説で、挨拶程度の軽い内容といって差し支えありません。演説内容をわたしは一切メモをとりませんでした。3人の演説が終わると、司会進行のアナンスは来賓客の何組かのカップルを紹介し、そのカップルは来賓席の前を歩きました。ファッションショーでもあるまいし。10時20分ごろ、式典が始まって1時間もしないうちに、「これで式典が終了しました」とナウンスが告げました。あまりにもあっさりした式典で、わたしはあっけにとられました。式典は長々とやるだけが能ではありませんが、「9月20日」の歴史的な意味をかみしめる演出・工夫がちょっとでもほしいところです。

「ゴミをでたらめに捨てるな」

式典が終わると動員された中・高校生の出番がやってきました。VIP・要人たちを先頭集団にして、元FALINTIL(東チモール民族解放軍)の司令官・兵士たちと元INTERFETの将校・兵士たち、そして多数の中・高校生がそれに続き、関係者なのかヤジ馬なのかよくわからない集団が最後尾について、昼食会の会場である旧メルカードラマにあるコンベンションセンターにぞろぞろと歩いて移動しました。わたしはヤジ馬集団に紛れ込んで歩きました。この集団移動は「平和の行進」なのだそうですが、政府庁舎からコンベンションセンターはすぐ近くです。「行進」と呼ぶには距離がちょっと短いと思います。

それはそうと、行進の途中にわりと大きな交差点があるのですが、その一角に大きなサインボードを「平和の行進」に向けて掲げている若者の小集団がいました。この式典のあり方に異議を唱える抗議活動か!?これでようやく「9月20日」記念式典も面白くなったぞ。

さあ、そのサインボードには何と書かれていたか。なんと「ゴミをでたらめに捨てるな」でした。大きなサインボード三つにそう書かれていました。式典とまるで関係のなさそうなこの訴えに、何となく気の利いたユーモア感覚を抱くのはわたしだけでしょうか。

気候変動は東チモールにとっても関心事

「ゴミをでたらめに捨てるな」は、東チモールの首都の道端あちらこちらにあふれるゴミが深刻な状態であり続けている由々しき現実を反映しています。これは東チモールにとって誰の目にも飛び込んでくる、わかりやすい環境問題です。環境問題といえば、地球温暖化に伴う気候変動が世界的な関心事です。年がら年中暑い国の東チモールにとって温暖化はピンとこないのではないかと思うかもしれませんが、大雨や強風といった自然現象がいつもの違う振る舞いを見せているので、ピンときているようです。

気候変動の危機を訴えるスウェーデンの16歳のグレタ=トゥーンベリさんの目を見張る活躍は東チモールにもその影響が及んでいます。グレタ=トゥーンベリさんが国連本部で開かれている気候行動サミットに出席した翌日、9月24日、これに呼応してのことだと思いますが、気候変動の危機を訴える賑やかなデモ活動が首都デリでも行なわれました。デモ行進は、政府庁舎前から、「B.J.ハビビ大統領橋」(20年目の「8月30日」にあわせて開通)に接する公園広場まで歩きました。16歳のグレタ=トゥーンベリさんの影響であることは間違いないでしょう、このデモ活動の主役は、10代の子どもたち・若者たちでした。かれらは、気候変動を憂慮する思い思いの手作りプラカードを手にして行進しました。「9月20日」の「平和行進」とは違い、こっちの方が本物の「平和行進」であるようにわたしには思えます。

「B.J.ハビビ大統領橋」公園広場では、制服姿の中高学校の生徒たちがステージ上で気候変動を憂慮する思いを、詩を叫んで朗読する形式で訴えました。気候変動を引き起こす大企業の資本主義打倒!と10代の子どもたち・若者たちがが叫んでいる光景は、気候変動のメカニズムをちゃんと理解しているのかなと一抹の不安はなきにしもあらずですが、とりあえず痛快なことです。

2019年9月24日午後、政府庁舎前に仲間が集まり、気候変動を憂慮するデモ行進が始まる。

ⒸAoyama Morito

楽しくガヤガヤと賑やかに歩く。

「システムを変えて。気候変動はダメ」(写真、プラカード)。

ⒸAoyama Morito

一行は「ホテル新トリズモ」前を歩く。

写真左端の人物は「サンタクルス虐殺」を撮影したマックス=スタール氏。

ⒸAoyama Morito

行進は「B.J.ハビビ大統領橋」にさしかかる。この橋の命名は、「8月30日」記念式典実行委員会のシャナナ=グズマン委員長の意向によるものだ。シャナナ委員長は、ハビビ元インドネシア大統領を式典に招き、ハビビ氏も是非参加したい意思はあったが病気で伏していたためかなわなかった。9月11日、ハビビ元大統領は83歳っで亡くなった。その前日、シャナナ氏は床に伏すハビビ元大統領を抱きしめて慰めた。独裁者スハルト大統領の後継者としてハビビ元大統領が何をしたか、しなかったか、検証して、評価する必要がある。

ⒸAoyama Morito

「B.J.ハビビ大統領橋」公園のステージで、気候変動の危機感を生徒たちが叫ぶ。

ⒸAoyama Morito

 

青山森人の東チモールだより  第400号(2019年10月05日)より

青山森人 e-mail: aoyamamorito@yahoo.com

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
〔opinion9069:190908〕