シャナナと共に歩んだマフヌが急死
2021年9月24日午後5時半、首都の国立病院で東チモール解放闘争史において極めて重要な指導者であった人物・マフヌ(*1)が亡くなりました。新型コロナウィルスに陽性を示したので隔離施設で療養し、その後陰性を示しましたが、基礎疾患により死亡したと報じられています。
マフヌ(1949年4月~2021年9月24 日)を失った東チモールは、1970年代~1990年代初期の歴史を回顧しながら、悲しみに暮れ、喪に服しました。
マフヌとは、1992年11月に解放闘争の最高指揮官・シャナナ=グズマンがインドネシア軍に捕まったのちシャナナの後継者となった人物です。残念ながらマフヌも翌1993年にインドネシア当局に捕まってしまい、マフヌの指揮は短期のうちに終了してしまいました。
1970年代、アメリカの支援を受けて圧倒的な軍事力を有するインドネシア軍を相手にして東チモールの解放闘争は軍事敗北を帰してしまいました。この敗北からシャナナが立て直した抵抗組織の体制はCOMDOP(コムドップ、Comando Operacional)と呼ばれました。シャナナとマフヌが捕らえられたことによって、1970年代から解放運動の主導的役割を担ってきたフレテリン(FRETILIN、東チモール独立革命戦線)中央委員会の生存者が解放闘争の現場から完全に姿を消し、COMDOP体制も崩壊し、闘争現場は新しい世代に委ねられるという新段階に突入したのでした。
シャナナとマフヌという二人の指導者が立て続けに敵の手に落ちたことにより、東チモールの抵抗組織は軍管区同士の連絡が困難になり、そして混乱し、危険な状態に陥りました。闘争現場を引継ぐのは本来ならばタウル=マタン=ルアク参謀長(現在の首相)であったのですが、当時、タウル=マタン=ルアク死去の情報が流れ、指導者たちはこの情報を確認することが出来なく混乱に陥ったのです。間髪を入れずに抵抗組織の再建に着手しなければならないという責任感に抗することができないコニス=サンタナ司令官が闘争の指揮を執り始めました。これが1993年に起こったことです。因みにわたしが初めて東チモールの地を踏んだのもこの年でした。
1993年以降のマフヌ
マフヌは1993年以降、インドネシア当局の監視下に置かれましたが、地下活動で抵抗運動を継続しました。同じような監視下に置かれていた重要人物にマフドゥがいます。解放闘争時代、わたしはマフドゥとは面会できましたが、マフヌとは残念ながら面会できませんでした。インドネシア当局による強力な監視下にあるマフヌに会うことは、山のゲリラを取材しようとするわたしがすべきことではないと地下活動家たちに止められました。なお、マフドゥは1999年、国連による住民投票をめぐる大混乱のなか、おそらくインドネシアの準軍である民兵組織に殺害されたと思われますが、行方不明になったままです。
1999年以降のマフヌ
マフヌは、東チモールが住民投票で独立を決定づけた1999年、卒中に襲われ、車椅子の生活を余儀なくされました。ダーウィンで療養するマフヌを姿をわたしの友人(日本人)が目撃しています。その後、マフヌは杖をついて一人で歩けるまで回復しました。時々、集会や町角でわたしはよくマフヌを見かけたもので、一瞥するとその風貌は西洋人のそれでした。
シャナナ=グズマンがフレテリンに対抗する政党CNRT(東チモール再建国民会議)を2007年に立ち上げたとき、シャナナが党首、マフヌが副党首となり、フレテリン中央委員会の出身者2人という謂わばフレテリンの核が現在のフレテリンに対抗するという政治対立軸が生まれ、現在に至っています。
政党CNRTの副党首となったマフヌですが、象徴的な存在であったように思えます。マフヌは解放闘争以降、政治の表舞台には登場しませんでした。解放闘争の指導者だった人物が独立後、政治の表舞台に登場しないというのは東チモールでは珍しいとえます。卒中の後遺症のせいなのか、政治理念によるものなのか、わかりません。
独立後の政治を指導しなかったとはいえ、フレテリン中央委員会の構成員であり、しかもシャナナとともに武装闘争の指揮を執った人物であるマフヌは、東チモール解放闘争の一時代を築いた人物であることに間違いありません。
タウル=マタン=ルアク首相の哀悼文
(保健省のFACEBOOKから)
「第八次立憲政府、そしてわたし個人とわたしの妻の名において、2021年9月24日、突然、神の御許に召された親愛なる故・マフヌ=ブレレク=カラタヤノのご家族・同僚・友人に深い哀悼の意を表します。彼の魂に安らぎを。タウル マタン ルアク首相」。
ルオロ大統領による哀悼の辞
「親愛なる東チモールのみなさん、
きのう(2021年9月24日)、東チモール民族解放闘争の特別な戦士をまた失いました。
なぜ特別かというと独立運動の創設を担ったからです。
マフヌ=ブレレク=カラタヤノという名の戦士は、祖国解放闘争の歴史において、ASDT(*2)創設者として、フレテリン中央委員会の構成員として、武装戦線軍事政治評議会の長として、フレテリン指導委員会の書記長として、FALINTIL(東チモール民族解放軍)の司令官として、第三管区の書記長として、村落の、東チモールの、そしてインドネシアのなかにいる地下組織の若者たちを感化する偉大な指導者でした。
1992年、闘争の最高指導者シャナナ=グズマン司令官がインドネシア軍によって捕まった困難なとき、多くの人びとは闘争は終わったと思ったのです。
しかしマフヌが抵抗運動を指導して闘争が続きました。
1993年3月(*3)、占領軍はこの指導者を捕らえ投獄しましたが、彼の愛国精神は死にませんでした。
村落部において、マフヌはマフドゥとともにインドネシアによる占領と闘うために若者たちを動員し続けた。マフヌは抵抗運動を強化し、地下闘争に身を捧げ、地下戦線は東チモール独立への最前線となりました。
創設者マフヌは逝ってしまいました。わたしたちは偉大な指導者を失い、悲しみにくれています。しかしわたしたちは彼を忘れることはありません。彼の思い出が自由と独立の東チモールに残されたからです。闘争の価値と原理がわたしたちとともに育ちつづけるとき、マフヌの業績はわたしたちの日々の生活のなかで永遠となるのです。
大統領として、喪に服しているテレジニャ=ビエガス夫人・お子様方・ご家族そして抵抗運動の家族(深い絆で結ばれた仲間・同僚の意)に深い哀悼の意を表します。
ご家族の皆様に抱擁を!
ありがとうございました」(カッコ内は青山)。
マリ=アルカテリの哀悼の意
マフヌはフレテリンとCNRTの二大政党にとって創設に携わった人物であるので、それぞれの党本部でマフヌとの別れが告げられました。フレテリンのマリ=アルカテリ書記長はマフヌの柩を囲む人びとの前で涙ぐみながらこう述べました。
「マフヌの魂は神のもとに帰った。神は聖なる宮殿で彼を迎え、われわれはいつの日か再会することを望んでいる。しかしマフヌの業績・闘争の記憶はこの家から始まり、この家にずっといるのだ。好むと好まざるとにかかわらず、それが現実だ。彼の業績はこの家この政党から始まり、ずっとわれわれと共にいて、すべての人びとと共にいるのである。そして前に進み未来へ向かうのである。マフヌがわれわれに遺した責務をわれわれが遂行していくのだ」(『タトリ』、2021年9月26日)。
シャナナ=グズマンの哀悼の意
CNRT本部では、シャナナ党首が飛び地・RAEOA(オイクシ/アンベノ特別行政地域)に出張中であるため、シャナナのメッセージを党幹部が読み上げました。
「きょう、わたしは弟を失ってしまった。マフヌ=ブレレク=カラタヤノとわたしはフレテリン中央委員会の生き残りであった。1980年からわれわれは武装抵抗の再編に取り組み、1981年3月、第一回目の国民会議をラリネで開いた。ラリネの会議で、CRRN(民族抵抗革命評議会)という新しい構造の組織をつくり、それは1986年のCNRM(マウベレ民族抵抗評議会)の創設につながった。この組織の中で、マフヌとマフドゥそしてニノ=コニス=サンタナは政治委員となった。1975年のフレテリン中央委員会の出身者で投降せず生き残ったのはマフヌとわたしの2人だけだった。しかしきょうマフヌは逝ってしまった。CNRT党首としてわたしは党幹部とすべての党員の名においてCNRT創設者に敬意を示したい。党首そして個人として、わたしはテレジニャ=ビエガス夫人はじめとするご家族全員に哀悼の意を表する。神は彼を聖なる宮殿に迎え、彼に言うであろう、この困難な状況にいるわれわれみんなを見守るようにと」(『タトリ』、2021年9月26日)。
(*1)わたしはこれまで拙著の中で「マウフヌ」と表記してきましたが、最近の報道ではMa’Hunoという表記が定着しているので、それにあわせて「マフヌ」と記すことにする。
(*2)ASDT=チモール社会民主協会、フレテリンの前身となった政党。
(*3)ルオロ大統領はここで「3月」といっているが、一般には4月といわれている。
青山森人の東チモールだより 第443号(2021年09月30日)より
青山森人 e-mail: aoyamamorito@yahoo.co
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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