「独立宣言の日」にW杯の横やり
11月20日から始まったサッカーのワールドカップは、開催前は東チモールでもあまり盛り上がっていないようでしたが、路上でのヨーロッパや南米の国ぐにの旗売りがポツリポツリと出現し、そして増えてくるにつれ、しだいに盛り上がってきました。
旗売り場ではポルトガルやアルゼンチンそしてブラジルの国旗が――これらの国のチームが人気なのでしょう――大半を占めています。車やバイクはこれらの国旗――とくにポルトガルの国旗が多く見うけられる――をくくりつけられて走っています。
同じアジアの国である日本や韓国の国旗は――人気がないのでしょう――売られているのをわたしは見ていません。日の丸を目にしないのはよいとして、東チモールのサッカー界は韓国と深い関係にあることを考えれば、韓国を応援する雰囲気が少しは出てきてもよさそうですが、韓国の国旗も路上で売られていません。
わたしの近所の子どもたちは、自転車にポルトガルの国旗をくくりつけて走ったり、応援用のラッパを鳴らしたりで、大会が始まるとワイワイガヤガヤしてきました。そしてアルゼンチンやポルトガルの試合には深夜12時を回った時間帯にもかかわらず近所同士集まって歓声と騒音をたてて応援しています。安眠妨害もいいところです。
子どもたちは学校の試験が終了したというので11月21日からしばらく休みが続きます。これだけで十分な祭りなのに、これにサッカーのワールドカップが加わり祭り気分に拍車がかかっているありさまです。
政府も来年度国家予算案が11月17日に国会を通したことで一息つける状態となり、休日モードに入りました。アタウロ島で21日から24日まで音楽文化祭が開催され、大統領と首相を含めて政府要人がアタウロ島を訪問しました。これが終わると大統領と首相や政府要人は、首都の海岸沿いに建設される五つ星のリゾートホテルの工事開催式典に出席し、そのあとタウル=マタン=ルアク首相は飛び地・オイクシを訪れています。そして「独立宣言の日」である「11月28日」が待ち受けており、政府も「11月28日」まで祝日気分を味わっているようです。
この祝日気分を醸し出す主体は政府としてはあくまでも「11月28日」ですので、東チモールの国旗を掲げて「独立宣言の日」を祝い歴史に思いを馳せましょう、と「11月28日」式典実行委員会や各地方の行政関係者は住民に呼び掛けています。ところが一般庶民とくに若者や子どもたちにしてみれば、この祝日気分を醸し出してくれるのはなんといってもサッカーのワールドカップです。掲げるべき国旗とは応援する国の国旗なのです。
11月25日(金)、首都デリ(Dili、ディリ)の中心街を歩いてみたかぎりでは、東チモール国旗を揚げる民家や商店が目立ってきましたが、車やバイクとなると東チモール国旗よりサッカー・ワールドカップ応援国の国旗をはためかせて走っています。
自国の国旗を掲げて祝うはずの歴史的な日が、欧州・南米の旗がはためくサッカーのワールドカップのお祭り気分に圧倒されているという妙な状況に陥っており、政府関係者が嘆いています。なお、残念ながら東チモールではワールドカップの開催国カタールの人権状況を憂慮する動きは出ていません。
2022年11月18日、政府庁舎前広場にて。
ここでは東チモール国旗がはためくが……。
ⒸAoyama Morito.
2022年11月21日、政府庁舎近くの旗売り場。
ポルトガルやブラジルなどサッカー強国の国旗が首都の町を彩る。
ⒸAoyama Morito.
2022年11月25日、政府庁舎近くの旗売り場。
首都の町に東チモール国旗も目立ってきたが、
旗売り場では少数派だ。
ⒸAoyama Morito.
独立宣言から47年
47年前の11月28日、フレテリン(東チモール独立革命戦線)は、迫りくる大インドネシア軍の侵攻を前にして独立を宣言しました。「11月28日」は東チモールの国民の祝日と定められています。
47年前の独立宣言を承認した国もあります。けっして独りよがりの独立宣言ではありませんでした。東チモールはどこからの独立を宣言したのか。もちろん植民地支配国である宗主国ポルトガルから、です。そして独立宣言からわずか9日後の12月7日、大インドネシア軍による東チモール全面侵略が開始されたのでした。
アメリカの支援を受けたインドネシア軍の圧倒的な軍事力を前に東チモールは軍事占領を防ぐことはできませんでした。しかし侵略軍にたいする抵抗運動は続き、東チモールは一度もインドネシアの併合(27番目の州)を認めることはありませんでした。併合はインドネシアが勝手にしたことであり、これを承認したのはオーストラリアだけです。事実上インドネシアの併合を支援する欧米諸国・日本でさえも併合を公式に認めることはせず、国連の動向を見守る(偽善的な)立場をとりました。国連は東チモールの施政国はポルトガルのままであるという立場を貫き、ポルトガルも東チモールの施政国は自国であるという立場を変えませんでした。そしてこの国際紛争に決着をつけるべく1999年の住民投票の実施⇒独立の決定⇒国連暫定統治⇒2002年5月20日の「独立回復」へと歴史は流れたわけです。
このように1975年11月28日の「独立宣言の日」から2002年5月20日の「独立回復の日」までの歴史をたどってみると、東チモールのポルトガルからの独立はインドネシアによって24年間妨害されたということができます。
つまり東チモールはポルトガルから独立したのであってインドネシアからではない、このことを「独立宣言の日」は改めてわたしたちに教えてくれます。いまだに東チモールをインドネシアから独立した国という人・報道機関は、なぜ東チモールは「独立の日」を「11月28日」と「5月20日」の二回祝うのか、よく考えてほしいと思います。
今年の大統領主催による「独立宣言の日」の式典はマナトゥトゥ地方で開催され、各地方にて分散型で祝われています。タウル=マタン=ルアク首相はオイクシの滞在を続け、そこで祝います。シャナナ=グズマンは海外に出かけました。指導者たちも分散してそれぞれで祝っています。
2022年11月25日、首都の町角にて。
「独立宣言の日」を祝う看板。
ⒸAoyama Morito.
青山森人の東チモールだより 第476号(2022年11月28日)より
e-mail: aoyamamorito@yahoo.com
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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