47年目の「12月7日」
47年前の1975年12月7日、インドネシア軍は東チモール全面侵略を開始しました。すでに東チモールを越境攻撃しつづけてきたインドネシア軍が侵略の総仕上げとして首都デリ(Dili,ディリ)に上陸し総攻撃したのがこの日でした。
1975年12月5~6日、つまりインドネシア軍が東チモール侵略を開始する直前、アメリカのフォード大統領とキンシンジャー国務長官がインドネシアを訪れ、東チモール侵略にお墨付きを与えたこととアメリカによるインドネシアへの軍事支援は、東チモールの悲劇の歴史を考えるうえでの本質的な問題であり、そのアメリカに従ってインドネシア独裁体制を経済支援してきたことは日本人にとっては加害者側として避けて通れない問題点です。
それから47年後の2022年12月7日、明け方の前にサッカーW杯のポルトガル対スイスの試合でポルトガルを応援した余韻で子ども・若者たちは寝静まったからかもしれませんが、この日は休日となっていることから人の往来が少なく、またここ数日、チモール海上空には雨雲が発生せず、雨季ながらも雨の心配がない穏やか日々が続くなかで、首都デリでは静かな時間が流れていました。
「12月7日」は「国民英雄の日」と定められ、休日となっています。休日は8日(木)まで続き、先月からの休日モードが続いています。
2022年12月7日、政府庁舎前。
ポルトガルの国旗がちらほらと見えるのどかな風景。
47年前、ここは地獄と化した。
ⒸAoyama Morito.
2022年12月7日、クリスマスの飾りつけをする政府庁舎の敷地内。
12月に入ってクリスマスの雰囲気が加速されて醸し出されてきた。
ⒸAoyama Morito.
ジル=ジョリフ、永眠
「12月7日」のインドネシア軍による首都攻撃シーンを現地ロケで撮ったオーストラリア映画『バリボ』(2009年)は、1975年10月越境攻撃するインドネシア軍によって殺されたオーストラリアの取材班5名(いわゆる“バリボ5”)とかれらを追うジャーナリストを描いた映画でしたが、この原作になったのはジル=ジョリフ著の『Caver Up』という本でした。ジル=ジョリフは東チモールを描く著作を数多く手がけたオーストラリア人ジャーナリストでしたが、12月2日、永眠しました (1945年 ~2022年12月2日) 。
1991年11月12日の「サンタクルスの虐殺」につながったインドネシア軍によるサバスチャン=ゴメスの殺害事件は、東チモールの若者たちが期待していたポルトガル議員団による東チモール訪問が中止になり、ポルトガル議員団を迎え入れるために秘密活動をしていた若者たちへのインドネシア軍による弾圧のかなで起こった事件でした。そしてポルトガル議員団の東チモール訪問がなぜ中止になったかというと、ポルトガル側がジル=ジョリフの随行を要求したのにたいしインドネシア側が断固これを拒絶したからでした。
またジル=ジョリフは1994年インドネシア軍に捕まったことがあります。このとき彼女の案内役であったアントニオ=ゴベイアが逮捕・投獄されました。アントニオは刑務所から釈放されてからも厳しく監視され、身の危険を感じたアントニオは1995年、船でオーストラリアのダーウィンに脱出した18人のうちの一人となったのでした。わたしはそのアントニオに会うためにダーウィンを訪れました(拙著『東チモール 抵抗するは勝利なり』、社会評論社、1999年)。それが縁となり、インドネシア軍が去ったのちの1999年の暮れごろから、わたしはアントニオの母親パルミラの家にお世話になり、2006年までそこの部屋を借りました。アントニオ=ゴベイアの家族・親戚とは今でも付き合いが続いていることから、わたしはジル=ジョリフと会ったことはありませんが、何かしらの縁を感じるしだいです。
ジル=ジョリフが初めて東チモールを訪れたのは1974年といいますから、東チモール問題を書く人物として重鎮といえます。また彼女は1975年11月28日の「独立宣言」を録音し、11月29日にシャビエル=ド=アマラル大統領にインタビューし、11月30日の閣僚就任式に居合せた人物でした(『インデペンデンテ』、2022年12月5日)。
長らくジル=ジョリフはアルツハイマー病を患い、メルボルンの施設で余生を送っていました。東チモールの指導者が見舞いに訪れても、彼女はその人物が誰なのかを憶えていないという状態でした。そして12月2日心臓の病で、去年10月のマックス=スタールに引き続き(東チモールだより 第444号)、東チモール問題を追ってきた著名なジャーナリストがまた逝ってしまいました。
シャナナによる連帯支援
ジル=ジョリフの訃報を知ったシャナナ=グズマンはその時、ドイツに居ました。シャナナはドイツから哀悼の意を表する声明を出しています。
さてシャナナ=グズマンは11月26日、ドイツに発ちました。ベルリンで開催されるEUCOCO(西サハラ人民に連帯・支援ヨーロッパ会議)という組織の集会に参加するためです。出発する前にシャナナは在東チモールの西サハラ大使館を訪れています。
上記の会議が始まる前の11月27日、シャナナはベルリンの街頭で行われたパレスチナ人の集会に参加しました。その模様がTVニュースで流れました。シャナナはパレスチナの旗を振りながら、一人一人パレスチナ人(と思しき)集会参加者に握手を求め、自己紹介するように「ひがし・チモール」と自分がどこから来たかを説明すると、その相手はシャナナのことを知らないのであろう、「おお、ひがし・チモール、それはいい」とややキョトンとしながら応じていました。
そして今月2日と3日に開かれたEUCOCOの会議にシャナナは出席しました。東チモールからこの会議に出席したのは名誉招待者としてのシャナナだけではありません。東チモール国会からも与党・フレテリン(東チモール独立革命戦線)からソモツォ議員をはじめとして、与党・KHUNTO(チモール国民統一強化)、そして野党からもCNRT(東チモール再建国民会議)と改革戦線からそれぞれ一人ずつ代表を派遣し、東チモールは国を挙げて西サハラへの連帯と支援の意思を示したのです。
このたびのベルリンでのシャナナの活動をみて、シャナナ=グズマンという人物の能力は国際紛争の仲介役として発揮されるべきであろうと感じました。シャナナだけではなく、東チモールの他の指導者たち一人一人が国際紛争一つ一つをそれぞれ担当する仲介役のような平和特使となり、大国主導とはまた違ったかたちでの紛争解決に寄与するという外交路線を東チモールが独自に展開するというのは悪い相談ではないとわたしは考えます。このことにより紛争当事(者)国に幅広く解決の機会を与えることができ、平和への道を拓くことができるかもしれません。東チモールにはその資格があるはずです。
青山森人の東チモールだより 第477号(2022年12月08日)より
e-mail: aoyamamorito@yahoo.com
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion12622:221210〕