命日の3.11
3月11日は日本にとって「東日本大震災」で亡くなった大勢の人びとを供養する日です。3月11日は東チモールにとって解放闘争の指導者であった故・ニノ=コニス=サンタナ司令官を偲ぶ日です。
3月11日の朝9時ちょっと過ぎ、わたしは首都デリ市内から車で東へ30分くらい走らせたところにある英雄墓地に着きました。メティナロという村にあるこの英雄墓地は山の斜面を切り拓きながらいまも拡大工事中の霊園です。小高いここからは海をすぐ下に見ることができます。
3月9日からデリ(Dili、ディリ)地方は日中、高気圧におおわれ青空に恵まれるという好天が続いてます。空と海の青が美しく映え、アタウロ島だけでなくその右隣(東側)にあるインドネシア領の島(ウェルタ島の一部か?)もまた見ることができました。ここにコニス=サンタナ司令官ゆかりの人たちが集まり、墓に献花をするなどして、愛される亡き解放軍司令官を追悼しました。
英雄墓地から海を望む。写真中央の小さく見える門構えは英雄墓地の入り口。二人の人物、左がソモツォ、右がジョゼ=ベロ。正面やや左側の島はアタウロ島。アタウロ島は最近、一つの地方自治体に格上げされた。右側に見える島はインドネシア領である。
2022年3月11日、ⒸAoyama Morito.
わたしとジョゼ=ベロ(RTTL[東チモールラジオテレビ公共放送局]会長)が到着してからほどなくして国会議員のソモツォが到着しました。ソモツォは国会に設置されている分科会のうち治安問題などを取り扱う「B委員会」の委員長でもあり、マリ=アルカテリが現在指導しているフレテリン(東チモール独立革命戦線)の次なる指導者になるといわれている人物です。しかしわたしにとってソモツォとは、常にコニス=サンタナ司令官の傍にいて人を笑わせていたゲリラ書記官です。
ソモツォが霊園に到着したとき、車のなかにいるわたしたちに気づくことなく、自分の車から降りると真っ先に去年9月24日に亡くなったフレテリン中央委員会の一人であった歴史的指導者マフヌ(東チモールだより第443号)の墓を参拝しました。わたしはソモツォがマフヌの参拝が終わるのを待って車から出て、ソモツォと再会の挨拶をしました。
マフヌの墓。この墓はおそらくまだ仮の姿であろう。
2022年3月11日、ⒸAoyama Morito.
時間がたつにつれコニス=サンタナの家族が三々五々霊園に姿を現してきました。そうこうしていると抵抗博物館のハマール所長が多数の博物館職員らとともにやって来ました。ハマールとソモツォ、この二人は常にコニス=サンタナ司令官の傍にいた山のゲリラでした。そして地下活動家としてコニス=サンタナ司令官の連絡要員であったジョゼ=ベロ。この三人がわたしの前で揃ったのは、わたしがコニス=サンタナ司令官と会っていたとき(1997年2月)以来のことです。日本では家族・親戚が亡くなると何年も会っていなかった家族・親戚が集まり久し振りに会ったり連絡を取り合ったりすることがありますが、それに似たような感覚を今回の「3.11」で味わいました。
ジョゼ=ベロは公共放送の会長、ソモツォは国会議員でフレテリンの次期指導者と目される人物(本当か?)、ハマールは抵抗博物館の所長、それにしても三人ともよくぞ生き残ってくれたもので、しかもかくも偉くなったものです。
コニス=サンタナ司令官を偲び、殉教者を祈る
さていつのまにやら多数の参拝者が集まってきました。コニス=サンタナ司令官の家族の代表格であるジョアキン=フォンセカが11時近くになってようやく到着しました。そしてみんなはコニス=サンタナの墓へと移動しました。ジョアキン=フォンセカはちょっと前まで在イギリス東チモール大使を務めていました。帰国したのはごく最近です。「フォンセカ」とはコニス=サンタナの母方の家族名です。
みんながコニス=サンタナ司令官の墓を囲むと、献花式が始まりました。司会者のようにこの場を仕切ったのがハマールです。まずソモツォに挨拶の辞を求めました。「コニス=サンタナ司令官が亡くなってからきょうで24年目になりました」。「コニス=サンタナ司令官は解放のために重責を担い任務遂行しました」などとソモツォは述べました。コニス=サンタナ司令官の命日にあたる今日この日……というくだりで「3月11日」というべきところを「3月13日」と何回も繰り返して間違ったので、注意と笑いを誘いました。解放闘争時代から変わらないソモツォの楽しい性格です。
コニス=サンタナ司令官の墓に献花。
中央やや右のサングラスがハマール。
2022年3月11日、ⒸAoyama Morito.
ハマールは、挨拶を終えたソモツォにまずはじめに献花するように促し、その次にわたしに献花するよう促しました。全員が献花を終えると参拝に来た全員が墓の周りに立って記念写真を撮りました。
コニス=サンタナ司令官の墓を囲んで記念写真。
2022年3月11日、ⒸAoyama Morito.
記念撮影が終わるとみんなは階段を下りて霊園敷地内の中央にある大きな十字架へと移動しました。自由のために命を落としたすべての殉教者のために十字架のもとにローソクを灯し冥福を祈りました。
殉教者のために祈りを捧げるコニスサンタナ司令官ゆかりの人たち。
2022年3月11日、ⒸAoyama Morito.
RTTL局のインタビューを受けるソモツォ議員。
背中右端はジョゼ=ベロRTTL局会長。
2022年3月11日、ⒸAoyama Morito.
現在ウクライナで起こっている惨劇に匹敵するといってもよい惨劇にみまわれた東チモールで、美しい青空のもと、和やかなひとときをすごしている家族や友人たちを見て、コニス=サンタナ司令官も喜んでくれていることでしょう。
ウクライナへ人道援助をする東チモール
3月3日は、「ベテラーノ(元戦士)国民の日」でした。「3.11」もそうでしたが、解放闘争に命を捧げた人びとや指導者を追悼する行事は、大統領選挙運動期間に重なったために大々的に催すことはできません。「元戦士の日」は国防軍本部建物内で集会が開かれただけでした。
この集会の挨拶に立ったタウル=マタン=ルアク首相は、元戦士は国の発展のために寄与しなければならないと述べるとともに、「わたしはロシアが侵攻したウクライナの人びとへ連帯の意思を表明したい。東チモールは侵略をうけた経験のある国としていかなる占領にたいしても反対する。それは人びとに、とりわけ女性・子ども・高齢者たちに、多大なる苦痛をもたらすからだ」とロシアによるウクライナ侵攻にたいして明確に反対を表明しました。
東チモールではウクライナ問題は国際ニュースとしてテレビニュースの後半に報道されていましたが、3日のタウル首相のこの発言が4日に報じられてからは国内の話題としてもよく報じられるようになりました。
東チモール解放闘争の指導者たちは、自分たちを直接侵略したのはインドネシア軍であってもその背後にアメリカがいることなどは百も承知です。ウクライナ問題についてもアメリカが不安定化工作に暗躍していることも承知のはずです。アメリカがウクライナでしてきた不安定化工作は東チモールが1970年代にされたことを想起させます。アメリカは東チモールへの軍事侵攻に自らの駒であるインドネシア軍を使ったのにたいし、今回アメリカはロシアを追い詰めて軍事侵攻させたように見えるといえば言い過ぎでしょうか。いまアメリカはここぞとばかりロシアを孤立化させ弱体化させようとしています。プーチン大統領はやってはいけないことをやってしまったとはいえ、ロシアにたいするこのような政治ゲームは核兵器使用の可能性を高める危険なゲームです。アメリカもやってはいけないことをやっています。
国連や国際諸機関は本当に平和を望むなら、アメリカが暗躍する国によって軍事侵略・軍事占領をうけた経験のある東チモールの指導者たちに、ウクライナ問題の状況分析や、さらに戦争を終わらせるための戦略について知恵を拝借してはいかがでしょうか。ただしその場合、アメリカやその同盟諸国による嫌がらせを東チモールがうけないように配慮しなければなりません。
東チモール政府は3月9日、国連WFP(世界食糧計画)を通じてウクライナの人びとに150万ドルの人道支援を送ることを決定しました。大雨の被害で苦しむ自国民が大勢いるなかでの海外援助には批判があるかもしれませんが、戦争で苦しむ他国の人びとをとても他人とは思えないのでしょう。
青山森人の東チモールだより 第453号(2022年03月12日)より
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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