不自然に湧いた和解の話題
時間を少し遡ります。ジョゼ=ラモス=オルタ大統領は、7月18日~25日、インドネシアを訪問しました。数人の政府要人が同行する本格的な隣国への訪問でした。ラモス=オルタ大統領は帰国前に西チモールのクーパンに寄りました。エウリコ=グテレスと会うためでした。エウリコ=グテレスとは、1999年当時、最も目立ったといってよい民兵組織の指導者です。この人物はまた、1999年以来23年間クーパンに滞在している”インドネシ統合派”だった東チモール人の一人であるという言い方もできます。
ラモス=オルタ大統領がエウリコ=グテレスと面談する予定であったことは、わたしは事前に聞いて知っていましたが、まるで論争や批判を避けるかのように、ラモス=オルタ大統領のインドネシア訪問前には広く報知されませんでした。本来ならば、東チモール大統領と民兵組織の指導者が面談することについては、その是非や話し合われるべき内容などについて東チモール国内で活発な意見のやりとりがあって然るべきでした。今にして思えばそれはまるで、隠していたわけでないが周知されることはなかった、8月20日のラモス=オルタ大統領によるヘンドロプリヨノへの勲章授与と似たような雰囲気だったということができます。
7月24日、ラモス=オルタ大統領とエウリコ=グテレスの面談は非公開で行われました。「日曜日の夜、エウリコ=グテレスやジョアニコ、そのほか名前を覚えていないが、かれらは1999年の結果としてそこに(ク-パン)にいるのだが、1999年とは違って変化しているわれわれの気持ちや感情を示すことができて、会合はうまく進んだ。かれらもこの会合に満足していた」とラモス=オルタ大統領は述べましたが(『テンポチモール』、2022年8月12日)、実際のところ何が話し合われたのか知る由もありません。
この面談をきっかけにして和解が話題となり、インドネシアにいる東チモール人の東チモールへの帰還の是非が新聞などで取り沙汰されるようになりました。『テンポチモール』(2022年8月12日)の記事では、ラモス=オルタ大統領によるエウリコ=グテレスの訪問は「シャナナによる政治に基づいて」行われたというタウル=マタン=ルアク首相の見解を紹介しました。首相のその見解によれば、今回の両者の面談は未来と発展に向けて東チモール人はいかに一緒になっていくかを考えているシャナナの政治に基づいたものである、ということなのです。
いい話のように聞こえますが要するに、ラモス=オルタ大統領はシャナナ=グズマンにいわれてエウリコ=グテレスを訪問した、ということをタウル=マタン=ルアク首相は間接的に述べたのだとわたしは解釈します。ラモス=オルタは大統領に就任して以来、シャナナ=グズマンCNRT(東チモール再建国民会議)党首のために働いている大統領であることを隠そうとしていません。
勲章授与にはどのような意図が隠されているのか?
ここでもう一度、ヘンドロプリヨノにたいする勲章授与について振り返ってみます。
8月20日、FALINTIL(東チモール民族解放軍、ファリンテル)の創設47周年記念式典で、ラモス=オルタ大統領が、インドネシア国軍のアンディカ=ペルカサ司令官、オーストラリア軍のアンガス=キャンベル司令官、ポルトガル軍からはアルミランテ=アントニオ=シルバ=リベイロ司令官に勲章を与えたまではよかったのですが、インドネシア国軍の元特殊部隊の諜報活動で暗躍していた人物で人権弾圧に関与したといわれる人物・ヘンドロプリヨノ退役将軍にも勲章を与えたことに人権団体から強い反発が生じました(東チモールだより470号)。
勲章授与の責任は大統領が担っているにもかかわらず、反発が噴出するやラモス=オルタ大統領はそれは国防軍のファルル=ラテ=ラエク司令官の提案なのだからファルル司令官にきいてくれと責任を国防軍に押し付け、国防軍はありきたりの説明をしました。またファルル=ラテ=ラエク司令官自身もGMN(国民メディアグループ)のインタビューで自分の提案であると応えました。
インドネシア国軍のアンディカ=ペルカサ司令官はヘンドロプリヨノの義理の息子にあたるので、この〝親子〟関係からペルカサ司令官が、ぜひウチの義父にも勲章を……なんていう依頼があって断り切れなかったのかもしれません。しかし、もしヘンドロプリヨノへの勲章授与が東チモール側からの発想であるとしたら、いかなる〝利益〟を期待してのことなのか、そしてそれは誰が期待することなのか?……どうしてもわたしは気になってしまいます。
押し付けの〝和解〟は真の和解でない
ラモス=オルタ大統領とエウリコ=グテレスとの面談を振り返ると、ヘンドロプリヨノへの勲章授与と繋がっているように見えます。
和解、つまりインドネシア統合派だった東チモール人の帰還を促進したいというシャナナの政治に基づいて、ヘンドロプリヨノに勲章が授与されたのではないかとついついわたしは邪推したくなります。もしそうならばファルル=ラテ=ラエク司令官は事実を隠していたことになり、由々しきことです。しかしわたしの邪推は邪推でしかありません。
それにしても和解とは少なくとも悪いことではないはずであり、むしろ国の未来と発展のために促進されるべき良いことのはずです。そうであるならば世論の合意を諮りながら進めていくべきです。しかし今回の話題となった和解の動きには正々堂々とした公明正大さが影をひそめ訝しさが感じられます。
もし仮にシャナナあるいは一部の指導者が目論む和解に政治的な利益に絡めようとする狙いがあるとしたら――例えば、かつて悪い事をした者たちに和解の名のもと恩赦を与え政治的な取り引きをしようとする狙い――そんな〝和解〟は真の「和解」とはほど遠く、東チモール人の心の傷をますます深くするだけです。心の傷を癒してこそ、真の「和解」のはずです。手練手管を駆使して強引に押しつけられる〝和解〟は心の傷口を化膿させるだけで、国の将来と発展にたいする足枷となってしまいます。
1999年9月
住民投票が行われた1999年はインドネシア軍を背後にして民兵組織による破壊活動が吹き荒れた年でした。自由を求める東チモール人は暴力に屈することなく、1999年8月30日に実施された住民投票によりその意思を示しました。
1999年9月4日、住民投票の結果が発表され、東チモールの独立が決定したのです。その一方で予想(予告)されたとおり、インドネシア軍そして民兵組織は東チモール全土で破壊の限りを尽くし、20~30万規模の東チモール人を連れてまるで人質をとるかのように西チモールへと逃げたのでした。
民兵組織が暴れている光景を見て「東チモール人同士が争っている」、大勢の東チモール人が西チモールへ移動している光景を見て「大勢の東チモール人が避難民となっている」、つまり「内戦が起こっている」というイメージを侵略側が八百長的な下手な芝居をうって国際社会に与えようとしたことが1999年9月に起こったことであることは一目瞭然でした。
しかし下手な芝居であっても、国際社会が騙され、あるいは騙されたフリをして、1970年代の〝デジャブ〟にならないともかぎりませんでした。そうならないために、囚われの指導者・シャナナ=グズマンは解放軍の総司令官としてインドネシア軍・民兵組織にたいする反撃を禁じたのです。
23年前のこの9月、荒れ狂う暴力の嵐から住民を守れなかった当時の現場指揮を執っていたタウル=マタン=ルアク解放軍参謀長(現在の首相)はさぞ辛かったことでしょう。シャナナの命令は正しかったのか?シャナナの命令に従った自分は正しかったのか?住民の命を守るため何かできなかったのか? …… タウル=マタン=ルアクは今でも自問自答していることでしょう。そして多くの東チモール人も、なぜ大勢の東チモール人が23年前のこの9月に死ななければならなかったのか?と自問自答していることでしょう。誰一人として納得のいく解答を得られることなく、納得のいかない現状のなかで、心の傷に苦しんでいるのが東チモールなのです。
9月とは東チモール人にとって、勝利を手にした月であり、勝利のために犠牲となった人びとを追悼する月でもあります。
サンダー=ロバート=ソーンズの慰霊碑。
ベコラにて、2022年9月21日、
ⒸAoyama Morito.
1999年9月に命を落としたのは東チモール人だけではない。
外国人ジャーナリストもインドネシア軍に殺された。
若きオランダ人ジャーナリスト、
サンダー=ロバート=ソーンズもその一人。
9月 21日、ベコラでかれの遺体が発見された。
「真実追及の中で殺された
ジャーナリスト・サンダー=ロバート=ソーンズ
1968年11月7日~1999年9月21日
を追悼する」(碑文)。
サンダー=ロバート=ソーンズの命日、
東チモール人の有志たちが集まって
慰霊碑に花をたむけ、灯をともし、供養をする。
かれの顔写真を大型の映画ポスター並みに拡大して
壁に貼ってある雑貨店がこの近くにある。
サンダー=ロバート=ソーンズは
ここベコラでは生きているのだ。
ベコラにて、2022年9月21日、
ⒸAoyama Morito.
青山森人の東チモールだより 第472号(2022年09月23日)より
e-mail: aoyamamorito@yahoo.com
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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