勝利を決めた「8月30日」
20年前の1999年8月30日、東チモールの独立を決定付けた住民投票が実施されました。1975年からインドネシア軍の侵略をうけてきたポルトガル植民地である東チモールの帰属問題を、この住民投票で決着を付けたのです。インドネシア軍の占領下では、東チモールの領土は「沈黙の壁」に囲まれ、東チモールの民はまるで拉致監禁状態でしたが、この住民投票によって東チモールは解放されたのです。
「8月30日」に至る数ヶ月間、侵略軍は「沈黙の壁」が崩れていくなかで民兵という準軍組織を隠れ蓑にし殺害を含む暴力のかぎりを尽くし、そして「8月30日」後の数週間、破壊の嵐が吹き荒れました。この試練に耐え抜いた東チモールは、翌月9月20日、多国籍軍の上陸を迎えることができ、10月31日インドネシア軍が撤退、東チモールの抵抗運動が実を結びました。そして東チモールは国連による暫定統治下に入り独立の準備をし、2002年5月20日、独立(1975年11月の独立宣言が重んじられる現在は[独立回復]と呼ばれる)を達成したのです。
今年の「8月30日」は特別な意味をもつ
2002年5月20日、独立したその日、東チモールとオーストラリアはチモール海の「共同開発区域」における利益配分(東チモール90%、オーストラリア10%)などを定めた条約に調印し、東チモールは独立国家として歩み出しました。チモール海の資源から得られる収益の90%を国づくりの資金として得られるのだから東チモールは順風満帆の船出をしたかに見えます。しかし二カ国間のチモール海に中間線を引くと「共同開発区域」はすっぽりと東チモール側に入るのです。それに東チモールがインドネシア軍に占領されているあいだ、オーストラリアはインドネシアと“勝手”に調印を交わし、「チモールギャップ」(「共同開発区域」と呼ばれる前の名称)からたっぷりと資源を採掘したのです。しかもオーストラリアは東チモールの独立前に、国際海洋法にかんする国際裁判所の管轄から離脱し、国際法に基づく領海の境界線を東チモールに引かせない手段をとったのです。貧しい小国を相手にそこまでするか!といいたくなりますが、これはまだほんの序の口でした。
チモール海東端部に位置する未開発のガス田「グレーターサンライズ」(これも領海に中間線を引くと東チモール側におさまる)の開発をめぐりオーストラリアは、国家運営という初体験をしている東チモール人指導者たちを相手に交渉で優位に立とうと、独立したての政府の会議室に盗聴器をしかけたのでした。
2006年、オーストラリアの工作が功を奏したのか、東チモールとこのガス田からの収益を半々に分けるという合意を得て、オーストラリアは50-50に分けるというイメージで東チモール人を喜ばせました。しかし合意に達した条約CMATS(チモール海における海洋諸協定にかんする条約)には、2007年から50年間、両国は領海について議論しないという内容が盛り込まれています。オーストラリアは今後半世紀のあいだチモール海に中間境界線を引かせないことにまんまと成功したのでした。
それにしてもオーストラリアが盗聴器を役立てたのは果たしてガス田開発交渉においてだけでしょうか? CMATS調印のすぐ後、「東チモール危機」が勃発、東チモールの秩序は崩壊、首都は騒乱状態に陥り、オーストラリア軍と国連平和維持軍が再び東チモールに上陸する事態となりました(独立から[危機]に至った経緯は、拙著『東チモール 未完の肖像』[社会評論社、2010年]を参照されたい)。首相兼防衛大臣だったシャナナ=グズマン氏は2010年、限りなく直接的な表現で「危機」にオーストラリアが関与したことをほのめかしています(東チモールだよリ 第154号)。
この盗聴器の存在が明らかになったのは、盗聴器を仕掛けたオーストラリア諜報部の内部告発からでした。シャナナ首相(当時)はオーストラリアのジュリア=ギラード首相(当時)に、CMATSの見直しを求めましたが、オーストラリア政府は聞く耳を持たず、東チモール政府は2013年、交渉中の2004年にオーストラリアによるスパイ活動の不正行為があったとして国際司法裁判所にCMATSにたいする調停の手続きを開始したとオーストラリアへ通達したのです。
ところがオーストラリア当局は2013年12月、国際司法裁判所に証人として出廷するはずの内部告発者(証人Kとオーストラリアでは呼ばれる)を拘束し、東チモール側のベルナルド=コラリー弁護士の事務所も家宅捜査をし、盗聴器の証人と証拠を差し押さえました。シャナナ首相率いる東チモール政府は激怒し、国際司法裁判所を舞台にしてオーストラリアにたいする本格的な攻勢を高額な国際弁護士を雇って仕掛けていくことになります。
国際司法裁判所の仲介と交渉を通じて東チモールは最終的にチモール海に中間境界線を引くことでオーストラリアの合意を獲り、ついに2018年3月、両国は領海画定条約に調印したのでした。両国はそれぞれの国会で今年7月にこの条約を批准、住民投票から20年目の節目を迎えた今年の8月30日、オーストラリアのスコット=モリソン首相が東チモールを訪問し、東チモールのタウル=マタン=ルアク首相と領海画定条約に基づく外交文書を交わしたのです。オーストラリアの首相が東チモールに迎えられるのは2007年以来、実に12年振りのことです。
先月7月23日、オーストラリアとの領海画定条約が東チモール国会で批准された日、シャナナ=グズマン領海交渉団長は独立闘争で死んでいった英雄たちの名のもと自分の最後の義務が果たされたと想いを語っています(ポルトガル通信社[ルザ]の記事、2019年7月23日)。2002年5月20日の独立日に領土が解放され、今年8月30日で領海が解放されたのです。
なお、東チモールとオーストラリアの市民団体は、証人Kとコラリー弁護士は英雄であるとして、諜報部の秘密を漏らした容疑で裁判にかけられている両氏の起訴を取り下げるようオーストラリア当局に求める声を「8月30日」の祝賀ムードのなかで挙げました。
それとこれとは別
最大与党の党首であるシャナナ=グズマン領海交渉団長が率いる政権は、オーストラリアとの領海画定条約の批准に伴う法改正案を国会に提出・通過させました。これらは、チモール海の「共同開発区域」(領海画定条約が施行されればすべて東チモールに属する空間だ)で収益をあげる「バユ ウンダン」油田にかんする税法そして労働管理・特別移住の法律の変更と、「石油基金法」と「石油活動法」の変更です。これら改正案が国会から大統領府に送られ、公布か拒否権行使かの権限をもつフランシスコ=グテレス=ルオロ大統領の判断が、とくに「石油基金法」と「石油活動法」にかんして注目されました。この二つの法律変更によって、国営「チモールギャップ」社が「石油基金」から国会を通さずに資金を引き出せるという、国家運営を左右しかねない大きな権限を得るからです。
アラン=ノエ国会議長などは、上記の改正四法案は一括法案であるとし、まとめて公布しなければ8月30日オーストラリアと外交文書が取り交わせない趣旨の発言をしました。ルオロ大統領は8月22日、「バユ ウンダン」油田にかんする諸法律を発布し、領海画定条約の批准を発表しました。この時点で、「石油基金法」と「石油活動法」の改正案にたいする違憲性を諮っている控訴裁判所の判断に注目されましたが(前号の東チモールだより)、控訴裁判所の判断がどう出ようと、また判断が遅れようとも、8月30日にオーストラリアと交わされる外交文書の障害にならないという発言が政府内から出たのです。アラン=ノエ国会議長も、予想以上に早く領海画定条約の批准を発表した大統領に感謝し、これで8月30日にオーストラリアと外交文書を取り交わすことができると喜びました。前の発言と趣が随分と違います。やはり、領海画定条約の批准と、「石油基金法」と「石油活動法」の変更、これらは別々の話であったようです。
そして8月27日、控訴裁判所の判断が出ました。「違憲」です。アラン=ノエ国会議長は、控訴裁判所は一部違憲といっているだけで全部ではないと述べ平静を装いました。アジオ=ペレイラ内閣長官も控訴裁判所の判断はオーストラリアとの文書取り交わしには影響しないと述べました。これまで「一括」を強調していた政府内からの発言は一体何だったのでしょうか、疑問が残ります。
控訴裁判所の判断をうけ、ルオロ大統領は8月28日、「石油基金法」と「石油活動法」の改正案にたいして拒否権を使い、国会へ差し戻しました(「テンポ チモール」2019年8月28日)。
独立闘争で死んでいった英雄たちの名のもとオーストラリアとの領海画定に最後の義務を感じていた解放闘争の最高指導者・シャナナ=グズマン氏につい感情移入をしてしまいますが、ガス田開発に前のめりになりすぎる姿勢にはわたしは共感できません。海の解放、巨大開発、それとこれとは別です。
青山森人の東チモールだより 第399号(2019年8月31日)より
青山森人 e-mail: aoyamamorito@yahoo.com
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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