青木昌彦の訃報が安保法案強行採決と時をおなじくして伝えられ、そこになにか因縁めいたものを感じまたある種の感慨に襲われるのは一人私だけだろうか。むろん私は60年安保世代とは遥かに後代のものであり、青木の姫岡玲治時代をリアルタイムで知るものではない。青木の名は68-69全国大学闘争時、ご多分にもれず京都大学も学生による知的権威否定運動に覆われる中、ただ一人その追求の矛先をかわしている教官がいて、それが青木昌彦だという記事がなにかの週刊誌の記事で触れられたのを目にして、初めて私の知るところになったのだから、都立高校3年時だったのだと思う。その記事によれば青木はいわゆる造反教官というのではないが、要は彼の姫岡玲治としてのキャリアに学生の方がなんとなく遠慮してしまったというような経緯だとされていた。がその時は青木の研究内容だとかはまったく触れられておらず、運動の退潮とともに彼の名も世に出ることはなくなり、私の記憶からも消えかかっていた。
あれは、私が東C学生社研に在籍していた初年度だから1973年のことだったろうか。駒場祭に誰か講演者を呼ぼうということになって、同僚の今をときめく池田信夫からちょうど2年ほど前に上梓され評判を呼んだ「組織と計画の経済理論」著者青木昌彦を呼ぼうじゃないかと提起されたことで再び私の意識に上って来たのだった。書店でその著作を手にしたことはあったが内容が数理的手法を駆使した超ハードなものでちょっとその頃の私では咀嚼しかねることもあり、もうちょっと思想系の演者にしたい気もあったが池田の押しに負けて青木で行こうということになった。当時の社研はノンセクトを含めた各党派寄り合い所帯で、協会派のI、第四インターで東北大院から科史科哲に転籍してきた佐々木力とM、半年で全員内ゲバの犠牲者となったZのS、U、N、ノンセクトはT、Tn、そうして池田、私という顔ぶれでときたまOBの後年マクロの権威になった吉川洋が顔を出すといった、今から思うと豪華メンバーだった。Zの面々からはブルジョア経済学への転向者である青木を呼ぶことには強い抵抗があり、彼らの協力を当てには出来なかったが、言ってみればそれは想定内で開催にはさしたる障害はなかったし、講演は多くの聴衆が詰めかけ200人くらいの収容数のある教室が一杯になるほどだった。ただ内容の方は私には??ではあった。が青木を囲んだ打ち上げで青木の語ったことはそれ自体きわめて印象的でかつその後の今に至る私の思考に極めて強いインパクトを与えることになったのだった。
どんな流れで語られたのかはよく順番も覚えていないが、大体以下のような内容だった。
宇野理論を世に広めたのは自分(青木)である。
宇野三段階論の基本構造は近経の方でも高く評価する者もいて、ミクロ理論と現状分析の媒介項として段階論的な理論領域、今思えば後年の比較制度分析に結実して行ったものの原型、が有効である。
マルクス経済学はとっくに限界に来ていて、伊藤誠さんもそれを感じてラディカル派に接近するために海外遊学しているのだ。
自分(青木)がマルクス経済学から近経へ転じたのは、とくにはっきりしたきっかけがあったわけでなく段々とそうなって言った。(この辺は「私の履歴書 人生越境ゲーム」でマルクス派の知的退廃云々とは聊か異なる)
ブラックリストに未だに乗っているため渡米するたびにアメ大に裁判所からの書類を提出しなければならないのが鬱陶しい。
自分(青木)が触れることの出来た学部時代の宇野理論陣営の中では、のちに成蹊大学の教官となり「マルクスの経済学」などの著作を出した竹内靖雄が抜群の秀才で、竹内が労働価値説批判を数理的手法で鈴木鴻一郎の面前で黒板に披露して以来、鈴木ゼミでは数学ご法度となった。
などなど。
宇野三段階論を評価しているのは青木自身で、それは近年の著書や対談の中で繰り返し語られた。また公文俊平も近経に転じたのちも中野正へのオマージュやら含めて同様の発言をしている。青木はゲーム理論を取り入れつつ比較制度分析へと突き進むのだが、私自身も原理論―段階論の関連をつける上でのメタ理論としてゲーム理論が有効であろうと近年目星をつけるようになってきている。
私は「伊藤誠さん云々」があって本郷進学時には伊藤の演習に参加することになった。ただ伊藤の実績としては共編の「欧米マルクス経済学の新展開」などの紹介まででとどまり、もちろん人的な交流が深まったのは評価に値するが、理論面で摂取・深化するところがあったかどうか。弁証法と数理的手法の相互浸透の難しさが露呈したというところだろうか。
竹内靖雄にはついに相まみえることはなかったが、「マルクス価格理論の再検討」「マルクスの経済学」「経済学とイデオロギー」などを通じでの労働価値説批判には同意せざるを得ない強力な論理を感じたし、中野正「価値形態論」の解題での価値形態論批判からは圧倒的な影響を受け取ることとなった。「再検討」における竹内論文には後年ローマーらが唱える「一般化された商品搾取定理」が既に示唆されており、竹内の先駆性がよく現れていると思う。
青木との邂逅はこの一度きりで、打ち上げも2時間くらいの短い接触ではあったが、あれから40年余経過してもそのインパクトは私の内部で響き続けていると確言できる。
近年もスタンフォードと日本とを幾度となく往復して、講演やらオルガナイザーやらで活躍を続けていた印象であり、病床にあるとは思いもかけず、訃報に接して一瞬言葉を失った。そうそう、目下不正会計で大揺れの東芝でその責任の一端を云々されてその名がしばしば挙げられる相談役の西田厚聡にもこれまた、ただ一度だけことばを交わす機会が西田の欧州時代にあり、その強烈な尊大不遜さに圧倒された覚えがある。そのごの私の人生の指針として確かに反面教師となった。
青木と西田というまったくタイプの異なるしかし私の人生に大きな絵以上を及ぼした二人の名を一瞠のもとに目にするのもこれもまた何かの因縁なのだろうか。
2015年7月18日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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