音楽と余裕

著者: 木村洋平 きむらようへい : 翻訳家、作家、アイデア・ライター
タグ: , ,

最近、僕は、札幌で、三日ほど、地元のミュージシャンたちが活躍するLIVEを観た。みな、手売りで自主制作CDを売っているような若者たち。Ustreamでインターネット配信したり、路上で演奏したり。とても活気がある。楽しかった。

ここでは、今昔取り混ぜて音楽シーンを思い浮かべながら、ある時代に生まれる音楽と、制作や鑑賞する僕らの心の余裕について、考えてみよう。

タルカスは、衝撃的な音がする。エマーソン・レイク・アンド・パーマーというバンドが、1971年に発売したアルバムで「プログレ」(=プログレッシブ・ロック)と呼ばれるジャンルの音楽となる。「タルカス」は、アルバムの名前で、そのジャケットに描かれた、戦車とアルマジロを組み合わせた、へんてこな化け物の名前でもある。意味はない、らしい。

ビートルズが活動したのは、1960年代のほぼ10年間だったけれども、彼らもさまざまな音楽を残した。サイケデリックなミュージックも、シャウトするロックンロールも、コンセプト・アルバムも、意味の分からない歌詞を連ねたような音楽も。巷では、イエスタデイ、レット・イット・ビーやヘイ・ジュードといったメロディアスな歌が、もっぱら有名かもしれないが。

ビートルズが好きだった若者たちには、ヒッピー的な傾向も見られた。東洋的な、なんとなく神秘主義で、文明から距離を置く、そういう生活に憧れたヒッピーたち。実際、ビートルズ自身がインドへ旅している。たしか、メンバーのリンゴは食べ物が合わなくて、早くに帰国したような。日本では、沢木耕太郎の『深夜特急』(インドの場面から始まる。)が、旅する人たちの間で「バイブル」的な扱いをされていたのを、いまの若い世代も知っている。彼のユーラシア横断は、1970年代だった。

やっと日本へ話が戻ってきた。もちろん、日本の音楽シーンをまとめるような仕事は、とてもできないが、ひと言、ふた言、なにかを言いたい。90年代は、J-POPの音楽環境の全体に、活気があったように思える。「よい音楽」が生まれた、かどうかは、言えないけれど、少なくとも経済的には音楽業界は、潤っていた。小室哲哉さんは、何億も稼いで話題になった。中高生も、CDを買うことが一つのかっこよさ(ステータス)であり、抵抗なんてなかったように思う。

2000年代になって、そのどこで区切ればよいのかわからないが、CDが売れなくなった。YouTubeで音楽が聴けるし、TSUTAYAやゲオで、1枚200円~でCDが借りられる。携帯音楽プレイヤーの「iPod」が流行って、パソコンに取り込まれた音楽が消費される。CD文化は、レコード文化のように、衰退しているのかもしれない。(パソコンへの取り込みを防ぐ「コピーガード」は、支持を得られずになくなっていったし、音質のいいSACD(スーパーオーディオCD)も、あまり出回っていない気がする。むしろ、音質の悪いMP3ほかのデータ形式で十分、という人が圧倒的な多数派になった。)

2011年のCDランキングは、「AKB48」と「嵐」の2グループが、ほとんど制覇する形になったが、彼らの本業はバンドではなく、タレントだろう。テレビで見られる、生で観られる、というアイドルたちへの親しみを込めて、CDを買うような文化に、音楽業界も移りつつあるのだと思う。(ちなみに、それは、有名なアイドルにかぎらず、手売りでCDを売るインディーズのアーティストたちも同じだと思われる。)こんな風に、CDという媒体を取り巻く状況、音楽を聴く場面(たとえば、iPodの登場。YouTubeによる視聴。)が、変わりつつある。

そういうわけで、日本の音楽シーンは、ここ10数年で大きな「環境」の変化を経験した。だから、ここで重要なことは、「音楽の質」について云々するのは、だいぶ難しいということ。また、それは音楽シーンの変遷に関する、大きな原因にはなりにくいかもしれない、ということ。たとえば、「90年代には、「すぐれた」アーティストが、「新しい」音楽を作り続けていたのに、それに比べて、いまは……」といった議論は、できない。いろいろな条件をつけて、特定の視点から解釈しなければ、そういう結論をすぐには、導けない。今のアーティストが悪くて、昔のアーティストが良い、という話にはならない。

けれども、音楽の質について、一つのことが言えるように思える。それは、「J-POPという音楽から、心の余裕(のようなもの)がなくなってきている」ということ。タルカスのような、挑戦的な、聞き手を払いのける戦車のような音楽が注目されることもないし、ヒッピー的な、世の中から外れていく音楽も、受けていない気がする。(ただ、不思議な感じのする音楽、必ずしも、歌詞が意味の分かるものではない音楽は、ある程度、支持を集めているように見える。)

実際、ELP(エマーソン・レイク・アンド・パーマー)であれ、ビートルズの風変わりな音楽であれ、なんでもよいのだが、前衛的なものを受け入れる余裕が、聴衆の側になくなっているのではないだろうか。または、「前衛」にかぎらず、まったく新しいものを待望する心持ち、になれないのではないだろうか、アーティストも、聴く側も。耳に馴染むもの、そっとしておいてくれるもの、ふんわりしたもの、やわらかいもの、刺激が強すぎないもの。そういうものを音楽に対して欲するほど、聴く行為に、余裕がなくなってきているのではないだろうか……。

「AKB」も「嵐」も、顔の見える、メディアで親しみのある、笑顔のやさしい、話せば楽しい、アイドルたちである。彼らが、可愛く、または、格好良く、歌を歌ってくれる。一つのパフォーマンスとして。その欠片としてのCD。他方、アイドルではなく、音楽業界の中で活況を呈しているのは、ミスチル(Mr.Children)あたりだろうが、彼らの音楽は、初期から一貫して、心の襞に分け入るような音楽、直接的な表現も、やんわりした表現も、両方を用いながら、そっと凝りを解きほぐして、撫でてくれるような、音楽である。ヒューマンな(人間味にあふれて、寄り添ってくれるような)音楽。「心地よい音楽」。(……少なくとも、僕にはそう聞こえる。)

2010年に前後する僕らは、もはや「革新的な」音楽を、「前衛的な」「変な」あるいは「古典的な」etc. 音楽を求められないのかもしれない。音楽を聴く心に、それだけの余裕がなくなって。こう言うと、批評家のニーチェ主義者なら、「心地よいものばかり欲する、飼い慣らされた現代人め!」と吐き捨てるところだろうが、僕が言いたいのは、そういうことではない。これは好みだけの問題ではなくて、精神的にも、経済的にも「余裕」がないような、社会状況を鏡のように映す問題である、と思われるから。

札幌のLIVEで僕が聴いた音楽も、「心地よいもの」が多かった。中には、反対に、死に物狂いでなにもかも否定するようなアーティストもいたけれど、それはそれで、やはり余裕のなさの表れではないのか。彼らは、音づくりにも、歌い方にも、工夫しながら、僕にも、いろんな意味でいいな、と思える音楽を作っていた。けれど、そうだとしても、根底には、そういう流れを共有しているように、思えた。心に余裕のない時代の音楽、という……。

そろそろ結論の段になったけれども、どうだろう。僕らにできることは、それでも、マイナーなところで、ちがう流れを探り、たどっていくことなのだろう。ちなみに、僕は30歳前後だけれど、もっと年配の方々からは、「ジャズが心の余裕から生まれたと思ってんのか? 1960年代がベトナム戦争の時代だって、わかっているのか?」といったお叱りを受けるかもしれない。「それでも、時代の逆境に耐えて、彼らは「よい」「新しい」音楽を作ったんだぜ?」と。そう、僕らにもいろいろなことができるだろう……。とりあえず、音楽を聴こう。音楽をやろう。音楽を見よう。そこから、音楽が芽吹く。

初出:ブログ「珈琲ブレイク」/ http://idea-writer.blogspot.jp/

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study535:120721〕