鯰絵と民衆の意識

 8月の中頃、白山にある大学の図書館で金石範に関する本を数冊借りた時、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館で、7月13日から9月5日まで行われていた鯰絵の展覧会に関するフライヤーが棚に置かれているのが目に入った。着物を着た鯰の姿がコミカルであり、「鯰絵のイマジネーション」という展覧会のタイトルにも興味が湧いた。だが私はこの時期、雑務に追われていて、また、7月の終りには翻訳の仕事がまとめて入ったために、展覧会に行く時間を見つけることができなかった。8月の後半になって翻訳仕事を終わらせる目途がついた私は気になっていたこの展覧会にやっと行くことができた。

 今回特別展示された鯰絵は浮世絵研究家・収集家である佐藤光信の個人コレクションである黄雀文庫の200点余りの作品であるが、先ず、鯰絵とはどのようなものであるかという点について語らなければならない。この点に関しては展覧会の入り口に掲げられた「鯰絵とは」というパネルの中に簡潔な説明がなされていた。そこには「安政江戸地震の後に摺りだされた多種多様の刷物の中に、今日「鯰絵」と呼ばれるものがある。錦絵や墨一色の一枚摺りの戯画として理解されるもので、多くは地震の元凶と信じられた大鯰をモチーフとしているが、鯰を制する側の鹿島神や要石などを題材にしたもの、被災して損害を被った富裕者たちを風刺した絵など、より広い画題のものも含んでいる。当時は定まった呼び名はなく、「鯰絵」の語が広く定着するのは、1979年に翻訳の出たコルネリウス・アウエハントの『鯰絵―民衆的想像力の世界』(小松和彦ほか訳) 以降である」(アウエハントの著作については以後、『鯰絵1』と表記する)と書かれていた。

 鯰絵展は非常に興味深く、この展覧会の図録も購入したが、やはり、アウエハントの鯰絵に関する著作を読む必要性を強く感じ、市立図書館でこの本を借り、可能な限り注意深く読んでみた。彼の研究書は多角的な探究が提示されており、数多くの資料への詳細な言及もあり、様々な側面からの貴重な示唆もあったが、私は民族学者でも、歴史研究家でもなく、記号学者である。それゆえ、ここではアウエハントの著作を参考にしながら、今回の展覧会について記号学的視点から見て気づいた問題を検討していきたいと思う。

 記号学的視点と言っても具体的に如何なる側面から鯰絵を探究するのかという点に関して最初に述べておく必要がある。記号学的分析を行う場合の最大の特徴は分析対象が、ある記号体系内で如何なる働きをしているかという考察を行う点にある。それは対象のシニフィアンとシニフィエ (以後、それぞれSAとSEと表す) とによって二重に構造化された記号の二つの側面を見つめようとするものである。だが、こう述べたとしてもその考察範囲はまだ広く、曖昧であり、より厳密に分析の方向性を決定していかなければならない。

 アウエハントの『鯰絵』においてもいくつかの記号学的な分析が提示されていた。例えば、鯰絵の中にしばしば登場する鯰、鹿島神、要石という三つの要素の関係性への検討などは十分に記号学的な視点であり、興味深い分析が行われている。それゆえ、アウエハントがすでに行った記号学的視点からの研究と同様な分析は重複を避けるためにこのテクストでは行わずに、以下の点の検討を行っていきたい。それは鯰という特別な生物を表現することと民衆の意識及びその意識の政治的方向性の関係という問題である。この探究課題に対して、ここでは「民衆の志向性」、「鯰絵のスタイル」、「政治性の欠如」という三つの側面から記号学をベースした検討を行っていく。

 

民衆の志向性

 先程引用した展覧会のパネルの説明にもあるように、鯰絵は安政の大地震の直後に急激に広まった。この地震は1855年に起き、推定震度M6.9、推定死者約1万人、推定倒壊家屋約2万軒という被害状況であった。当時の人々は未曽有の天災に恐怖し、怒り、悲しみ、絶望した。江戸という都市に住んでいた人々の受けた衝撃は激烈なものであったと想像することは容易であるが、自然災害の不条理さに対して、廃墟となった街を前にして人々がどのような意識を持ったのかという点について考えることは重要な問題ではないだろうか。

 フェルディナン・ド・ソシュールの言語学概念としてのSAとSEは音と意味 (ソシュールは当初この二分割概念を聴覚映像と概念と述べている) との関係がラングの法則に基づきア・プリオリに決定されている学術用語である。それゆえ、ソシュール理論におけるSAとSEとの関係性はラング内の意味的規範性の下に提示されるものであり (音声言語体系内の二重分節構造は音と意味とのレベルであるが、他の記号体系においてはそうはならない。例えば、交通標識においては、図像がSAでその意味がSEである)、記号的意味の広がりと大衆の意識といった問題は探究の対象から外されてしまう。しかし、ここで行おうと思う考察ではこうした記号の二重分節構造における基本図式を中心とした探究は二義的なものとなる。このテクストにおける探究課題は鯰と地震の連関性という自然科学的には根拠のないものが何故当時の民衆に重視され、信じられ、鯰絵が流行していったのかという問題である。それは記号学的アプローチによって当時の民衆の政治意識を知ることも可能にするものである。

 ところで、鯰と地震を関連づける考え方や鯰に特別な意味を付与させる見方は日本に特有のものではない。宮田登・高田衛監修の『鯰絵―震災と日本文化』(以下『鯰絵2』と表記する) の中に掲載されている民俗学者の小島瓔禮の「中国の大地の鯰」には、東南アジア全体に鯰と大地や海との関係、あるいは、地震との連関性について語った事例が多数存在していることが指摘されている。また。これも『鯰絵2』に収められている哲学者のエルマー・ヴァインマイヤーの「ドイツ鯰考」では、ドイツ人の鯰観について「(…) ドイツにおいて、鯰は支配力 (…) そして大自然の脅威、というふたつのイメージで捉えられてきたのである」という記述がなされている。ヴァインマイヤーはドイツ人の鯰観にしか触れていないが、アジア人だけではなくヨーロッパ人においても鯰が特別な魚であることが示されている点で興味深い論考である。

 このように鯰を聖なるもの、あるいは、邪悪なものとして特別視する考え方は日本だけではなく、世界中に存在していると述べ得る。だが、鯰と地震を結びつけ、それがイラスト化され、その主要テーマがシリーズ化され、ある時代のある時期に大量に生産された例は日本の安政の大地震の後の数年間しか存在してはいないのである。それゆえ、鯰絵は特異な現象であり、特異であるゆえに民俗学、歴史学にとって貴重な研究対象となるだけではなく、記号学的にも極めて示唆に富んだ研究対象となり、記号学からのアプローチによっても当時の民衆の政治的な意識の解明が可能になると考えられるのである。

 

鯰絵のスタイル

 しかしながら、民衆の政治意識の分析と言っても、その範疇も方向性も単純に一つに集約できるものではない。また、詳細に分析するためにはアウエハントの著述したような本格的な研究書を書かざるを得ないが、今の私にその時間的余裕も能力もない。それゆえ、ここでは安政の大地震当時の民衆の政治意識の問題を鯰絵の絵画的スタイルという視点から見ていきながら、記号学的分析を行っていきたいと思う。鯰絵全体を概観しただけでも、パロディ、擬人法、アレゴリー、アイロニー、迂言法、ユーモア、誇張法、キアスムといった様々な表現スタイルが用いられていることがすぐに了解できる。それも一枚の鯰絵が一つのスタイルによってのみ描かれているのではなく、ある鯰絵の中に、例えば、パロディと擬人法が同時に示される場合も多々あるのだ (もちろん、二つのスタイルが混在しているだけではなく、もっと多くのスタイルが混在している場合も存在している)。こうした複合的スタイルの分析もスタイルという視点に立てば無視できないものであるが、このテクストにおける探究課題である絵画的スタイルと民衆の政治意識という問題を検討するためには、この複合性の分析は煩雑さを増すことになるため、こうした側面からの分析は行わない。また、鯰絵の中に見られる多種多様なスタイル全体を分析することも同様に煩雑さを増すゆえに行わないこととする。ここでは鯰絵と政治意識という問題を最も明確に分析可能であるパロディ、擬人法、アレゴリーという三つのスタイルに絞って考察していく。

 今回の展覧会の図録の第四章は「パロディ」となっており、その章に掲載されている約70枚の絵すべてはパロディというスタイルの下に描かれた作品であるが、図録の他の章の中に掲載されている絵画番号16「ゑんまの子」や79の「鯰に金銀を吐かされる持丸」や95「生捕ました三度の地震」もパロディと見做し得る。もちろん、他にもパロディ的要素を持った作品は多数ある。擬人法は今回の鯰絵の多くの作品に使われているスタイルである。鯰は武士、町人、力士、僧侶、遊女、芸人など様々な階層の人間の姿をして表現されている。アレゴリーのスタイルを持つ鯰絵も多数展示されていた。元々、鯰絵は絵画だけではなく絵画テーマに関する説明が文字で書かれているため、見方によってはすべての鯰絵がアレゴリー的特性を持つものであると述べることも可能である。こうして観察していくと、この三つの絵画スタイルが鯰絵の中心的な表現機能を担っていることが理解できるのではないだろうか。

 では、この三つのスタイルによって表現された鯰絵が指し示す民衆の意識とはどのようなものであろうか。それは端的に言うならば、地震とその後の世相及び悲惨な状況下での民衆の現実に対する合理化作業と現状批判の精神を象徴化していると述べ得るように思われる。『鯰絵1』でアウエハントは、鯰絵の厳密な分析を通して解明した当時の日本の宗教性や鯰のトリックスターとしての役割は非常に大きなものであると述べている。それは当時の民衆が過去と現在との関係性や、宗教イデオロギー的なものとして、あるいは、現実の過酷さを克服ために作りだした装置としての鯰絵の社会、歴史、文化的構造内での機能を明確化しているからである。だが、悲惨な現状を如何に変えていこうとするのかという意識の欠如に対しては、言わば、現在から未来に向かうためにどのように現状を変化させていくべきかという意識 (それは政治的な行動を内包するアンガージュマンの意識と語り得るものであるが)、そうした意識が鯰絵の制作者にはあまりにも希薄である。また、この政治性の欠如という点に対する分析をアウエハントは十分行っていないように思われる。それゆえ、次のセクションではこの点を詳しく検討していきたい。

 

政治性の欠如

 今回の展覧会で提示された解説シートの一つ「鯰絵に政治風刺はあったか?」の中には、「鯰絵には、災禍を洒落や滑稽さで笑い飛ばし、貧富の差などの社会的な矛盾を平したい(世直り) という「その日暮らし」の人びとの願望や不満が表現されているが、「世直し」(「世直り」) ということばは頻出しても、変革へと向かう民衆運動にはならなかった」という言葉が見出せる。『鯰絵1』の中で、アウエハントも、確かに鯰絵に対して、「(…) こうした鯰絵は人々をある行動へと扇動するものではなかったし、体制の根底をゆさぶるものともほとんどなり得なかったと思われる」という指摘を行っている。しかしながら、何故こうした政治意識の欠如が起きたのかという点や、鯰絵が何故政治的意識形成に寄与しなかったのかという点は問われていない。

 この重要な問題に対して、ここでは先程提示したパロディ、擬人法、アレゴリーという鯰絵の三つの中心的スタイルを分析装置として考察していこうと思う。この三つのスタイルはアウエハントが上記した著作で分析しているように、善と悪、聖と俗、創造と破滅、豊饒と災禍、正と負、英雄と怪物、肯定的と否定的、解放的と破壊的といった鯰の持つ両義性を鮮明に提示する表現方法であったように考えられる。アウエハントは鯰という存在が当時の民衆にとってトリックスターであったと主張しているが、この意見は正当なものであるが、そのトリックスター性は民間伝承の研究だけではなく、鯰絵の表現スタイルによっても、特にパロディ、擬人法、アレゴリーという鯰絵の三つの主要スタイルによっても明確に示すことができるものではないだろうか。

 ここで少し視点を変えよう。この鯰の持つと信じられていた両義性及びトリックスター性は政治意識の欠如という問題を表わしてはいないだろうか。モーリス・メルロ=ポンティの用語にあるように両義性は曖昧性を帯びる概念である場合も多々存在する (彼は両義性を表すためにしばしば、一般的には「曖昧さ」を示す «ambiguïté» という語を用いた)。両義性におけるこうした側面は、そこに二律離反を超えようとする思想があるというよりも、相互交換性と決定的な選択を避けるという方向性が見られるのではないだろうか。ある特定の自由な主体が自らの名の下に、所与の問題に対してはっきりと意見を述べるという近代的な方向性とは真逆な方向性がそこに見出されるのではないだろうか。鯰絵の作者の匿名性もこの問題と深く係わっている。近代的な政治的発言や政治的表現を行う場合、そこには個人としての主体が確立されていなければならず、また、その発言や表現には何らかの記名がなされていなければならない。鯰絵にはそれが完全に欠如しているのである。

 もちろん、もしもこの点だけを強調したとすれば、鯰絵は前近代的だという点を強調しているに過ぎず、そこには深い意味はない。だが、この問題に対して、ジャン=リュック・ナンシーが『フクシマの後で―破局・技術・民主主義』(以下、副題は省略する) の中で語っている「近代の転換期に先立って、その前触れが出はじめていた時代、破壊というモティーフはすでに両義的な位置を占めていたのであり、すでに、解体された構築物が、自らの喪失の記念碑のようにして陰鬱とした魅力を示していたのである」(渡名喜傭哲訳) という言葉を導入したならば、状況は変わるのではないだろうか。そこには、近代とは何かという問いや政治的であるとはどのようなことなのかという問いが孕まれるからである。この問題の探究意義は大きい。次のセクションでは今述べたナンシーの言葉に基づきながら、鯰絵の問題を再検討していこうと思う。

 

無名性、集積、政治的なもの

 ナンシーの言葉と鯰絵の関係と言っても何らかの分析装置がなければ明確な探究は不可能である。それゆえここでは無記名性、集積 (struction)、政治的なものという三つの分析装置を使い、鯰絵の問題を再検討していきたい。だが先ず、先程挙げたナンシーの言葉の検討を行わなければならない。彼はこの破壊というモティーフを「破壊の中で恍惚となり、残酷さの中で若返るのだ!」というアルチュール・ランボーの「寓話」にある詩句を引用しながら語っているのだが、それは時代的秩序の大転換のために必要不可欠な破壊と創造の両義性である。この問題はアウエハントが鯰絵と世直しとの関係の中で指摘した問題と同種ものである。だが、時代的大転回と事件性の関係について探究しなければならない場合、引用されたランボーの詩句を検討するよりもシリーズ化した鯰絵を観察した方がより多くの事象を理解できるに違いない。では、三つの分析装置を用いて鯰絵をもう一度考察していこう。

 無記名性の問題に対しては、先ず、はエマニュエル・レヴィナスが『固有名』の中で語っている「人物の名を語ること・・・・、それは顔を表現することである。ありとあらゆる名詞や常套句の只中にあって、固有名は意味の解体に抵抗し、私たちの発語を支えてくれるのではないだろうか」(合田正人訳、強調は作者によるもの) という言葉を引用して、考察を始めよう。この発言は鯰絵の作者の名前が明示されていないという問題の分析に光を当てるからである。作者の名前を語ることは個々の主体の存在性が認められ、個人の重要性が認められた近代以降に重視される行為である。この言語行為が行われていない鯰絵は前近代的であると述べ得る。そして更に、それはこの時代の民主主義性的精神の欠如と、前近代的あるいは封建制の支配力の強さを示してもいる。レヴィナスの言い方を援用すれば、顔を見せれば、支配者のよって断罪される恐れがあるのである。だがそれだけではなく、それは作品制作において作者という個人の意義が認められなかった時代性という側面も提示している。作者が前面に押し出され、芸術の意義が叫ばれる以前の共同作業によって作られたもの、絵画であって、更には、現代的視点から言えば情報伝達装置としての新聞という機能も持った癒合されたジャンルの構築物として鯰絵は存在していたことが理解できるのではないだろうか。それは新しい時代が築かれる前の、固有名が語られる前の、黎明期の社会、文化運動として捉えられるものではないだろうか。

 集積はナンシーが『フクシマの後で』の中で提唱している概念であり、それは「(…) 諸々の事物ないし存在の連係秩序なき同時性、それらの共属関係の偶然性、おびただしい数の位相、種類、力、形態、緊張、意図 (衝動、欲動、企図、跳躍) の散逸である。こうしたおびただしさにおいては、いかなる秩序も、ほかの秩序よりも上位の価値のものとして現れることはない」のである。ナンシーの集積という概念に対する定義を鯰絵に対する定義と見做すことも可能であると私には思える。何故なら、時代性と社会性の中で、鯰絵は構築されており、そこには統一されたイデオロギー性が希薄であるからだ。それだけではなく、鯰絵は大量に印刷され、広められることに重点が置かれていた印刷物であるが、それが民衆の確固とした政治意識の形成に寄与していたとは言えず、流行の波の中で、消えて行かざるを得ないものであったのだ。しかしながら、鯰絵の持つこの軽妙性、遊戯性、一過性、飛躍性、通俗性、軽薄さ、逸脱性といった側面はネガティブな側面だけを担ったものではなく、解体される前の前近代の矛盾点に照明を当てて新時代の確立の準備を促すというポジティブな側面も担っていたのではないだろうか。この側面も強調する必要があるように私には思われる。

 政治的なものについては、金石範が『金石範《火山島》小説世界を語る!―済州島四・三事件/在日朝鮮人/政治と文学を巡る物語』の中で語っている問題を取り上げ、鯰絵と比較を行いたい。文学と絵画とをもちろん単純に比較することはできず、時代が異なる事象も単純に比較できないことは当然のことであるが、先程指摘したように鯰絵は図像のみのメッセージが表示されているのではなく、文字による説明もなされており、それが純粋に絵画と呼ばれるものではないこのジャンルの絵画の社会性も示す大きな要因となっている。それゆえ、鯰絵は安政という時代の社会・政治批判の側面を有しているのである。また、ミハイル・バフチンが言うように、時代的にも、地理的にも異なった言説でも、テーマ的な繋がりだけでも対話関係を構築できるのだ。しかし、当時の大惨事の後の混乱を迅速に収めることができなかった江戸幕府の政策に対する鯰絵が表している批判精神は、金石範の政治意識に比べてあまりにも脆弱である。「(…) 悪いことをしなくても政治は、権力は弾圧してくるんです。反権力が問題じゃないんです。人間の自由をどのように確立するか、ということです。政治による弾圧は人間を破壊するんです」という彼の発言に耳を傾けよう。そこには政治的意識が毅然と表明されている。こうした断固とした政治発言性は、鯰絵には存在していない。それはもちろん鯰絵の前近代を示すものであるが、前近代的特性の中でも政治意識の欠如という問題は核心的なものである。だが、近代的主体が確立することなく、政治性は確立できるのかという点は熟慮しなければならない。多分、われわれが一般的に考えている政治性とは近代が発明した装置である。それゆえ、鯰絵は現代的意味での政治的意識とは無縁であると述べ得る。だが、鯰絵は上記したような様々な表現スタイルを通して、また、その流行性を通して公的オピニオン形成の前段階の様相を表明したことも事実である。それは政治性がという近代の中核的思想装置が形成されるための一過程を表しているように私には思われるのだ。

 

 鯰絵は擬人法にせよ、パロディにせよ、アレゴリーにせよ、こうしたスタイルによって、悲劇的現実を喜劇的表現しただけではなく、笑いの持つ逞しさによって悲劇性を乗り越えようとする生の力を提示している。鯰絵を描いた人々はレアリズムを用いることで大地震を描写しなかった。そこに現実逃避や卑俗性や軽薄さといったものだけを見てはならないのではないだろうか。そこには現実の出来事があまりにも強烈であったゆえにそれを何とか理解し、現状を乗り越えようとする生の肯定や、生活状況をよい方向に前進させようとする民衆的意識が存在していた点も忘れてはならないのだ。

 日仏会館・フランス国立日本研究センター編集による『震災とヒューマニズム―3・11後の破局をめぐって』に掲載されている「風土、縁起、そして自然的かつ人間的な災害」の中で、哲学者・地理学者のオギュスタン・ベルクは自然災害とカタストロフィーとの差異について言及している。如何なる大地震であろうが人間の関与が殆どなければ、それは自然災害であってもカタストロフィーとは呼ばれないという点をベルクは的確に指摘している。文明化の名の下に行われる社会、経済、政治的な都市開発がカタストロフィーを生むという彼の考えは注目すべきものである。効率性や利便さに還元された文明的活動は自然や顔のある他者との共存を切り捨てた抽象化であるという問題点を強調しながら、ベルクは「3・11というカタストロフィーの根源は、抽象化が津波よりも先んじて生じていた以上、津波というよりは、むしろこの抽象化なのだといわねばなるまい。津波はただ、この抽象化を露呈したにすぎない」(岩澤雅利、園山千晶訳) と主張している。一般的な考察視点に立てば、この主張は西洋近代精神への批判として読むことはできる。だが、前近代においても都市化は進んでおり、こうした抽象化現象を批判するよりも、アウエハントが述べたようにトリックスターとしての鯰をテーマ化することで、カタストロフィーが民衆の意識の中で昇華されていったという側面で、鯰絵の歴史的意味の大きさを認めるべきなのではないだろうか。この側面でも鯰絵は貴重な考察対象としての価値を持っているのだ。

 もう一つ付け加えたい問題がある。それは大震災後に生き残った人によって鯰絵が描かれたという点である。ジャック・デリダは『生きることを学ぶ、終に』の中で、「生き残りとは生の彼方の生、生以上の生のことであり、私が展開する言説は死とれあうようなものではありません。反対にそれは、死よりも生きることの、すなわち生き残ることのほうを好む生者の肯定なのです。というのも、生き残りとは、単に残るもののことではなく、可能なかぎり強烈な生のことなのですから」(鵜飼哲訳) という言葉を語っているが、こうした生きる意志はアンガージュマンの方向へと、政治発言への方向へとわれわれを導いて行くものではないだろうか (デリダのこの発言と金石範の発言が共鳴していると感じるのは私だけだろうか?)。鯰絵にこうした生の強烈な肯定や社会参加への決意といったものを感じることはできない。しかしながら、新たな世界の可能性への模索は示されているのではないだろうか。それが世直しという曖昧な変革への願望であったとしても、過去へと向かいながらも、そうではない方向を探ろうとする志向性、過去の呪縛から何とか抜け出そうとする時代精神が微かに見えるのではないだろうか。それは新しい時代の前兆と言ってもよいかもしれない。

 現実と対峙することなく、完結した物語として大地震を捉えることで、現実の悲惨さは昇華され、時間の経過と共に復興していく都市の姿を見ることで鯰絵は忘れ去られていった。それと共に現実に存在する権力者との対峙も行われずに消えて行った一群の絵画作品であった鯰絵。確かに、それは一過性の現象であったが、シリーズとして鯰絵が残ることによって、近代の夜明けを予感させる民衆の意識 (それは無意識だったかもしれないが) を感じることもできるのではないだろうか。日本の近代は突然やって来たものではなく、様々な歴史過程、あるいは、事件があり、その事件を民衆が実際に体験し、実感したことを通して、近代に向かう道筋ができていったのだ。その一つの過程を、鯰絵の考察は教えてくれるように私には思われるのだ。それが鯰絵という対象の探究に基づく記号横断性によって私が見つめることができた最も大きな成果であった。

 

初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
宇波彰現代哲学研究所 鯰絵と民衆の意識 (fc2.com)