9月16日から11月12日まで、東京ステーションギャラリーで、「春陽会誕生100年 それぞれの戦い 岸田劉生、中川一政から岡鹿之助」という展覧会が開催されていた。10月の最終週、平日の午後、予定されていた授業が体育祭によって休講となった私は東京駅に向かった。
この展覧会のフライヤーを見た時、私は木村荘八の「私のラバさん」(1934:以後タイトルの後の数字は制作年) が気になった。この絵に描かれた女性たちの姿がキース・ヴァン・ドンゲンの描いた縦に細長く伸びた女性の像と酷似していると思い、木村とヴァン・ドンゲンの絵の影響関係を私は確かめたいと考えたのだ。しかし、この絵を実際に見ると類似点よりも相違点の方が大きいように思われた。ヴァン・ドンゲンの女性像の縦長にデフォルメされた女性像にはエレガントさが感じられるが、木村のこの絵の女性たちには何処か野暮ったさを感じたからである。私は実際の絵と、フライヤーや画集によって見る絵との驚く程の違いを味わった。こうした相違を私は何度も経験しているにも拘わらず、いつも何処か騙されたような印象を持ってしまう。フライヤーや画集に載せられたものが実際の作品を忠実に複製したものであるという哀れな臆見から、私はいつまでも逃れることができないのかもしれない。
小さな失望はあったが、この展覧会で、私はそれよりももっと大きな収穫を得た。鳥海青児が描いた「水田」と「信州の畠(一)」(両作品共に制昨年は1936年だが、後者については、同じ構図でトーンの違う(一)と(二)がある) とを目の前で見ることができたからである。画集に載ったこの二枚の絵の様相、二枚の絵に対する批評を読んだ時に了解した事柄とはかなり異なった印象を持ったからだ。三重県立美術館で1994年に開かれた鳥海青児展の『図録』の中に書かれた「1936年頃の鳥海青児」において、この美術館員の森本孝は、これらの二枚の絵を中心とした1936年に春陽会展に展示された鳥海の絵に関する多くの批評を提示している。そこには、「(…) 分厚く塗った顔料の中からは別段、何も発見することは出来ない」(「春陽会第14回展」in『中央美術1936年第34号』) という評や、「鳥海青児氏の絵は黒ずんだ絵の具の重なりが美しさに成り切って居ない。無意味に画面をよごした様な感じで、一人で反抗して居る様な息苦しさをさえ感じる」(益田義信、「春陽会を観る」in『みずゑ1934年6月号』) というような評が並んでいる。だがこうした批評に反して、二つの作品は私のイマージュをかなり刺激するものであった。厚塗りされた重く暗い画面の中に、はっきりとした何らかの物体の形態を見出すことはできないが、私はその荒々しく叩きつけられたタッチの向こう側に、泥の中を前進する兵士たちの姿があるように見えたのである。このテクストでは、この印象についてイマージュの広がりという視点から検討していこうと思う。
しかし、それは厳密な実証的な考察ではない。何故なら、上記した二枚の絵が示す形態が何を表しているかを明確に規定することができないからだ。鳥海青児は何を描いているのかが判らない絵を多数制作しているが、その全てに対して、兵士の像が見えるという印象を私が抱くことはない。何故この二枚の絵に対して、こうした印象を感じたのであろうか。私がこのテクストを書こうと考えたのは、この疑問があったからである。前置きはこのくらいにして本論に入ろうと思うが、一点だけ最初に述べておかなければならない事柄がある。それはここで私が書こうと思っている問題は鳥海の作品全体に関する絵画論といったものではなく、あくまで、鳥海が1936年に描いた上記した二枚の絵から私が思い浮かべたものに関するイマージュの問題だということである。この点を強調して本論に移ろうと思う。
三つの概念装置を導き糸として
先程、私は実証的な考察ではないと書いたが、それならば恣意的にこのテクストを書くのかと言えば、そうではない。何の探究方向性もなく、印象だけを示したいのならば、そうしたエクリチュールによる語りを前置きなく開始すればよいだろう。だが、そうしただけでは、何故、厚く塗られたマティエール (matière) の向こうに兵士の姿があると私が思ったのかが理解できない。それゆえ、ここではこの問題を考えるために、三つの導き糸を導入する。
一つ目はガストン・バシュラールの提唱する「物質的想像力 (imagination matérielle)」であり、二つ目はジグムント・フロイトとジャック・ラカンの基本概念である「事後性 (Nachträglichkeit [独]、après-coup [仏])」であり、三つ目はミハイル・バフチンの対話理論の中心概念の「ポリフォニー (polyphonie)」である。これら三つの概念装置を使いながら、「水田」と「信州の畠(一)」の持つ絵画的及び記号学的特質について探求していくことが、このテクストの主要研究方向性である。だが、これらの三つの概念装置を用いた検討を始める前に、それぞれの概念に対する簡単な解説と各概念をこのテクストの中でどのように用いていくかを示す必要性がある。
先ず、物質的想像力はバシュラールの詩学を支える根底的な問題設定 (problématique) である。イマージュを形成する火、水、大気、土という四つの基本元素の一つとしての土という元素のイマージュの広がりは、鳥海の二枚の絵に対する探究にとって非常に有効な分析装置となり得ると考えられる。事後性に関して言えば、それはフロイトの精神分析学における主要概念の一つであり、ラカンも重要視した用語であるが、この概念について、哲学者の宇波彰氏は『ラカン的思考』の中で、「フロイト、ラカンのいう「事後性」は過去のできごとないし経験を、「あとから」修正したり、補ったりすることであり、ばあいによっては、過去においてなかったものをあとから作り上げてしまうことである」と述べている。つまり、事後性は時間系列の問題であるだけでなく、想像的な問題でもあり、それゆえにそれは絵画の作り手と見手とのイマージュの生成と深く関係する考察概念ともなり得るものなのである。バフチンのポリフォニーは彼の対話理論の中核となる用語であるが、対話性は時空を超える問題となり、その中核にある様々声の交流であるポリフォニーは言語記号の問題に止まらず、あらゆる記号が交差するイマージュの源泉ともなり得るものである。
以上の理由によって、ここでは物質的想像力、事後性、ポリフォニーという三つの分析概念を導き糸として、鳥海の上記した二つの絵を詳しく分析していくが、次のセクションでは、考察対象となるこの二つの絵の特徴に関する検討を行っていく。
マティエールの向こう側
「水田」と「信州の畠(一)」という作品は先程も書いたように、いずれも1936年に制作された作品である。鳥海青児は1902年に生まれ、1972年に死去しているので、人生の半ばに描かれた作品であると言うことができるが、それだけではなく、彼の作品の主要オリジナリティーの一つである厚塗りと描かれた対象の不明瞭さというものが端的に示された作品でもある。タイトルから判断すれば、この二枚の絵は風景画であると考えられるが、何層にも塗り固められた素材、重く暗い色調、対象の形態を圧倒する盛り上がった絵具によって、この二枚の作品の見手は、それらが具体的に何かを描いているというよりも抽象画であるような印象を受けるに違いない。
タイトルからの乖離は見手を、現実世界を描写したものとして二枚の絵を見つめる作業からはるかに遠くの世界へ、物質的想像力の世界へと導いていく。この二枚の絵の前に立って、じっと見つめていても、私には水田の風景も、信州の畠の風景もまったく見えてこなかった。見る位置や角度を変えてはどうかと思い、私は横から見たり、少し離れたりして、二枚の絵を見た。するとある時、「信州の畠(一)」の中に泥の中を歩いて行く兵士たちの姿が見えた気がした。おや、と思い、左側から見た位置を右側に変えた。そこには泥の中を進む複数の兵士の姿があった。しかし、それははっきりと視覚によって捉えられた姿ではなかった。視覚によって実際に見つめられた作品の形態と、それから想起されたイマージュとが重なり合って作り出した像であった。
この残像を抱いたまま、今度は「水田」を見つめた。厚く塗り固めた太い横線の間に、私は泥に隠れた兵士たちが見えたような気がした。この絵に対しても位置を変えてみてみる。「信州の畠(一)」の時とは異なり、兵士たちの姿はなくなったように感じたが、兵士たちが水田に隠れて、じっとこちらを伺っているという思いを消し去ることができなかった。この奇妙な感覚は何であろうか。私は戸惑った。展覧会後に読んだ上記した「1936年頃の鳥海青児」の中で、森田孝は「風景画家の最も心すべき水平線を、心憎い迄に愛用し、活用して居る、黄ばんだ、人物の居ないのに人を感じる《信州の畑》[※ママ] の如きは私の最も好きな作品である」と述べている。それが兵士の姿ではなかったとしても、「信州の畠」の中に人物の影を感じたのは私だけではなかったことを知った。
数年前、埼玉県立近代美術館で瑛九の「田園」という作品を見た時、無数に並べられた点の向こうに、朧げに田園風景が見えるように思われ、それをきっかけとして、点描とマルチチュードと連関性に対する考察を拙論「瑛九の点描画」の中で展開した。確かに、「田園」の中で浮かび上がる形態も知覚そのものが捉えたものではなく、私の知覚とイマージュが合成されて作り上げた像であった。それゆえ、それはバシュラールの語っている物質的想像力を通して検討される問題であると思われる。「(…) われわれは想像力の支配する領域において、物質的想像力が、火か、大気か、水か、土の、いずれかに結びつくことによって、多様な物質的想像力を分類する四大元素の法則を定めることが可能だと思っているのである」(及川馥訳) と『水と夢 物質的想像力試論』の中で、バシュラールは書いている。このテクストで取り上げる鳥海の二枚の絵もバシュラールの提唱する物質的想像力を通して考察できる問題性を孕んでいる。だが、二枚の絵に描かれているものは無数の点ではなく、厚塗りされた太い線、いや、そう言うよりも盛り上がった絵の具の山である。このようにマティエールの隆起した形態が作り上げているものをどのように把握すればよいのか。それは無数の点からある像を想起することとはまったく別のイマージュ生成を必要とするように思われた。
私の前にある二枚の絵から何かのイマージュを引き出そうとした私は、この二枚の絵の中に泥の中を進む兵士たちの像が見えると感じたのだ。だが何故そう感じたのか。このような想像は私だけが抱く、恣意的なものではないにしろ、それは実証的に分析できるものではいだろう。だが、そこには何か根源的な問題が内在している。この問題を解明するために、私は新たな想像力の冒険を開始しなければならないと考えた。
1936年:年号が語るもの
イマージュの源泉は見つめられた対象の中だけにあるものではない。もちろん、見つめられた対象が最も大きな源泉であるのは確かではあるが、われわれがある対象を見る時、われわれはその対象を単に見るのではない。その対象が何であるかによって温かさを感じたり、寒さを感じたり、胸が高鳴ったり、痛んだりもする。すなわち、共感覚 (synesthésie) の問題が存在する点を注記できる。また、対象が様々な情報をわれわれに与える以上、ジェームズ・ギブソンが提唱したアフォーダンス (affordance) についても指摘可能である。つまり、ある対象を見つめただけでも、それが有益である、あるいは、攻撃的であるといった判断をわれわれは持ってしまうのである。こうした視点から、鳥海の二枚の絵を考察することも可能であろうが、そのためには多大なページが必要となる。それゆえ、このテクストでは上記した三つの考察視点のみを重視し、検討していく。
ここで注目したい点がある。二枚の絵を私が見た時にイマージュの源泉となったと思われるものは絵だけではないという点である。対象と私との関係性も問わなければ、この問題を上手く探究することはできないのだ。場の雰囲気、自分の周りにいる人々、絵の配列、その日の天気や気分や体調など、イマージュを思い描いたのは私である以上、こういった事象も考慮に入れなければならない。しかし、こうした事象全てを対象にすることは今の私には不可能である。それゆえ、ここでは、共通知 (savoir-partagé) の視点から、「水田」と「信州の畠(一)」の制作年度である1936年という年号に特に注目し、考察を進めていきたい。
1936年は第二次上海事件の前年である。1932年の第一次上海事件と満州国の成立以降、日中間系は緊張状態が続いていたが、その緊張の糸が切れる前年が1936年である。私はそのことを共通知として確かに知っている。そして、1936年以降の日中戦争が「泥沼の戦争」と形容されていることも知っている。そうした共通知を通して、私はこの二枚の絵を見たのに違いない。それだけではない。絵のタイトルにある「水田」や「畠」という言葉も私のイマージュ構成に影響を与えたと考えられる。こうした様々な共通知が絵のマティエールである厚塗りされた絵の具の層と、そこから浮かび上がるはっきりとしてはいないが何かの形を示そうとするような兆しとでも言い得るものとが混じり合って、兵士たちの像を私にもたらしたのだ。
このイマージュの形成にとって「信州の畠(一)」を見た後に、「水田」を見たという時間的な順番にも意味があるように思われる。前者は水平方向への太い線が並んでいるだけではなく、垂直方向に短い曲線も点在している。この太く盛り上がった水平線を遮るように点在する垂直線は、絵の具のトーンの暗さゆえに明瞭であるとは言えないが、痕跡のように描かれた短い曲線は何かの存在性を私に想起させた。それが兵士たちの歩む姿であった。このイマージュの形成にはタイトルよりも「1936年」という年号の方が強く機能したように考えられる。そして、「信州の畠(一)」を見た後に「水田」を見た私は、水平線だけで描かれて、山のように隆起した複数の太い線から構成されている後者の絵の、太い線の間に、誰かが隠れていると感じたのだ。二枚の絵が並べられて置かれ、同じ年に書かれていたという事実と上記した共通知が複合された結果、私はそこに隠れている兵士たちの姿を「水田」の中に見たと思ったのではないだろうか。そう判断した私は「事後性」と「ポリフォニー」という視点からこの問題を更に検討しようと考えた。
事後性とポリフォニー
前のセクションで語った「1936年」とそれに続く日中戦争への展開という共通知は、事後性の問題を生じさせている。二枚の絵の作者である鳥海に戦争の開始への明確な意識があったと述べることはできないが、私がその後の日本の歴史展開を知っている以上、この二枚の絵の中にある厚塗りされたマティエールの向こう側に兵士たちの姿を思い浮かべる可能性は少なくはないはずである。
また、私はこのテクストを書く直前に『鳥海青児 絵を耕す』の中で原田光が「闘牛」(1932)、「信州の畠」と「水田」と「紀南風景」(1936)、「塹壕のある風景」(1939) との連続性について語っているのを読んだが、この連続性には戦争の臭いがするように私には思われた。また、この本の中で田中は「水田」について、「描いたというよりも、出現してくるイメージに手をかしている。(…) 離れて見ると、異様なくらいに、泥濘大地のイメージが存在感をもって立ち上がる」と語り、また、「信州の畠」や「紀南風景」に関しても同様に述べ得ると語っているが、そこには「泥」、「戦争」、「暗いトーンの画面」といった要素が複合されてイマージュの形成の基盤となっており、更にそこには歴史的な問題としての事後性が介在しているのではないだろうか。
「闘牛」、「信州の畠」、「水田」、「紀南風景」、「塹壕のある風景」という厚塗りの太い線が並び、暗いトーンで描かれた作品群のポリフォニー性という問題に対しても、言及する必要がある。バフチンは彼の対話理論において、時間的にも空間的にも離れた二つの言表が、テーマや語り口といった何らかの共通性によって対話関係を結ぶことがある点を強調した。彼の発言は言語行為のみを対象にしたものであるが、この対話関係を、われわれが行う記号行為全般に適応することも可能であると私は考える。何故なら、ある画家の作品の連続性、同じタイトルの絵と音楽の類縁性といったものは、将に対話的と言い得るポリフォニー性を構築するからである。
上記した鳥海の作品群のポリフォニーについて考察してみよう。テーマ、表現方法、画面構成で、これらの作品群に共通する側面は多々存在しているが、ここではこの全ての作品の比較を行う余裕はないゆえに、「水田」と「信州の畠(一)」に対する共通点の比較検討のみを行ってみたい。二枚の作品の共通点は大きく分けて、(1)「太く隆起した水平線を中心とした画面構成」、(2)「暗いトーンによる描かれた対象が極めて曖昧である表現方法」、(3)「大地、特に泥を全面に押し出した描写」という三つの点にある。(1)の隆起した太い水平線は、それが線というよりも層になって盛り上がっているために、山のようになっている。そこに暴力性を感じてしまうのは私だけの印象であろうか。隆起した絵の具が塗り固められた絵として、私は香月泰男のシベリア・シリーズが思い浮かんでくる。だが、香月のこのシリーズにある作品の中での盛り上がった絵具はまるで墓石を表すように感じられるが、鳥海の上記した作品群では全く違う暴力性を感じてしまう。そこには「塹壕のある風景」に向かう作品群の一連の連続性があるように思われる (香月の絵については、拙論「過去の出来事が織りなす声の響き」で言及している)。(2)の暗いトーンも、泥の重さや荒々しさが強調されているために、シベリア・シリーズのような静寂はまったく感じられず、不気味な動態性を感じてしまうのではないだろうか。(3)の大地の描写に関しては、土の持つ堅固さや頑なさといったものに、水による粘着性と執拗さが加わった物質性によって、苦悩と戦いのイマージュが私には想起される。それゆえ、この三つの共通点から導き出された私のイマージュ、それは戦争の場面、それも、泥に足を取られながらやっと前進して行く兵士たちの姿だったのではないだろうか。イマージュのポリフォニー性が、そこには確かに存在している。
イマージュの世界の考察の一つの試みとして、ここでは、鳥海青児の二枚の絵とその絵に対して私が抱いたイマージュへの検討を行ったが、このテクストを終えるに当たって、絵画の内包する想像性の問題を現代絵画における遠近法からの逸脱という側面から探究してみたい。また、この探究と共に、西洋の近代化の大きな支柱となった理性中心主義の崩壊という点についても併せて検討してみようと思う。しかしながら、今挙げた二つの問題はあまりにも広大な範囲の究明課題であり、この短いテクストでは十分に論究するかことは不可能である。それゆえ、ここでは、この二つの問題に対する私のいくつかの見解を提示するだけに止める。
遠近法は西洋近代絵画を飛躍的に発展させた。この絵画技法は画面の構図に秩序を持たせ、統一された一つの視点を通して世界を開示させた。思想史と連係させるならば、その視点は理性の視点であると見做すことができる。この絵画表現方法は古代ヨーロッパから知られていたが、この方法が絵画表現方法の主流となるのはルネサンス期以降であり、その後、約半世紀、西洋絵画の根本原理として君臨した歴史がある。消失点を中心として世界把握し、表現する方法が最も正当な物体描写技法であるとされていった歴史がある。また、思想史の点から見れば、このルネサンスの期には人間中心主義としてのヒューマニズムの礎が構築され、それが後の理性中心主義としてのデカルト主義確立を準備することとなる。比喩的に語るならば、遠近法の消失点は理性的世界の中心点であったと語ることも可能である。
遠近法によって、あるいは、理性によって秩序付けられた宇宙は普遍的に正しいものであると考えるのが理性中心主義である。マックス・ホルクハイマーは『理性の腐蝕』の中で、西洋近代のあらゆる正統的思想家が、「(…) 理性は事物の本性のなかに自己自身を認めるであろうこと、人間の正しい態度はそうした洞察からこそ生まれるのだということを強調した 」(山口裕弘訳) と述べ、更に、「(…) 知性を授けられたあらゆる主体にとって、倫理的態度と事物の洞察の論理的連関が理論的に明白であれば、そうした洞察は普遍的なものである」とも述べているが、この思想の堅固な基盤が19世紀後半から崩壊していくのである。科学技術の急激な発展、欲望の果てしない増大、自然への侮蔑、資本主義の絶対化、意識の哲学の限界といった予想不能の驚嘆すべき事柄が次々に起こり、盤石であると思われた基盤はその存在根拠をぐらつかせたのである。
こうした歴史的展開の中で絵画においても遠近法という絶対的方法への疑念が生じ、対象への別な接近法が近代の終わり以降、求められていった。そこで登場したものの一つが印象派から生じた点描という方法である。例えば、スーラの点描は線によることなく、点を組み合わせることによって、ある具体的な形態を造り上げる絵画手法であるが、その手法は別な方向にも発展していった。それが、例えば、前述した瑛九の「田園」に代表される作品である。瑛九の用いた点による表現は具体的な形態を提示せず、オブジェとイマージュとの結合によって何かを表現しようとした。そこに絵画におけるマルチチュードの可能性があることは「瑛九の点描画」の中で考察したゆえに、ここではこの点を指摘するだけに止める。
印象派の他の画家は点描とは別の方法によっても遠近法を超えようとした。それがヴァン・ゴッホに代表される厚塗りのタッチである。だが、ゴッホにおいてもスーラと同様にオブジェの形態は抽象化されてはいない。この手法もその後様々な発展をみせていったが、その一つの発展形態が鳥海青児の「水田」と「信州の畠(一)」を含む先程指摘した一連の作品群の中に見られるものであると見做すことができるが、そこで問題となる点はマルチチュードではなく、重層決定 (surdétermination) であるように私には思われる。厚塗りされた絵の具の層は線によって単層的に表現され、形態を与える絵画技法とは違い、その厚さによってすでに垂直方向への超越性を繰り広げているからである。
「水田」と「信州の畠(一)」の問題に戻ろう。遠近法によってだけでは、オブジェの示す多様な特性を表現し切ることはできない。絵画芸術が平面描写の制約を受けている以上、線による描写が最もよくオブジェの形態を表現できるように考えられ、その最も有効な描写方法が遠近法であるように考えられてきた。だが、それはあくまでも視界内にあるオブジェの形態の描写に関してであり、オブジェのより深く隠された特質は描き切ることはできない。オブジェの有する存在性の内奥までを表現したいと思ったのならば、別の方法が必要となる。それが点描であり、厚塗りされた絵の具による表現方法であった。『鳥海青児 絵を耕す』において原田は鳥海の絵について、「厚塗りのなかからあらわれてくる色、形、それはただ、色面の配合や造形的構成として定義するのではない。生成変化して絵を生かす。絵を生かすことによって,いっそう活発に生成変化する。いや、色と形のたえまない生成変化が、厚塗りを生むのである」と書いている。この発言は絵画論範疇の問題を指摘しただけのものでも、厚塗りされた鳥海の作品への指摘をしただけのものでもない。具体的な形態を拒絶するために塗り重ねられたマティエールは、その重層決定性ゆえに、遠近法では決して表すことのできない存在性を獲得する。それは点描による遠近法が線を分解し、最小化して、新たに何かを創造するという解体構築 (déconstruction) であるのとは別な解体構築である。厚塗りされた絵の具はその隆起した層の積み重ねによって、山のような力強さを示す。それは多層であるがゆえに水平の方向性を乗り越える力としての重層決定性である。この重層決定性も遠近法を求め続け、硬直してしまった近代絵画の解体に大きく寄与した絵画技法であり、印象派から現代美術へと向かった美術の流れにおける新たな世界開示への一つの答えであった。そして、その流れ中で、誕生した絵画が鳥海青児のここで考察した二枚の絵であると私には思われるのだ。
遠近法の拒否は、近代という時代の終わりを告げる。それは安定した世界の破壊の歴史でもある。鳥海の二枚の絵の持つ事後性、ポリフォニー性の向こう側に、多くの絵の具の層が盛り上がった力動性を有する重層決定性が潜んでいるからこそ、私はこの二枚の絵を見た時に泥の中を前進する兵士たちの像を見たのだ。ニーチェの『悦ばしき知識』の中には、「神は死んだ!神は死んだままだ!そして、われわれが神を殺したのだ!」という言葉がある。ここで示された「神」は西洋合理主義の根源としての理性という支配概念でもある。神を否定したわれわれは新たな時代を築かなければならなくなった。時代を作り出すには古い秩序を壊さなければならない。解体構築が必要なのだ。解体構築はイデオロギー上の問題に止まらない。絵画においても時代性を乗り越えるために解体構築は行われる。鳥海青児の二枚の絵に対するイマージュの考察から始まった私の冒険。それは近代を超えるための時代精神の葛藤の確認のための冒険でもあった。このことを確信した私は一旦筆を起き、新たな冒険の準備を始めようと思った。
初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
宇波彰現代哲学研究所 鳥海青児の二枚の絵 (fc2.com)
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