(その5)20世紀の歴史的省察と教育的独立としての真の政党政治と民主主義の確立について

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緊急市民シンポジウム「税金を払わない巨大企業~公正な税制で社会保障の充実を~」

https://chikyuza.net/archives/50809

 

こちらの内容は、以下のページで確認できます。

(動画)宇都宮けんじさんと希望のまち東京を!

http://twitcasting.tv/teamutsuken/movie/142514114

150人の会場に300人集まった。立ち見もあったとの事ですが一過性のもので終わらせないためにはどうしたら良いのか。

持続的な運動としていくには何が必要であるのかを問い続けなくてはなりません。

安倍自民党は、巨大与党であり、政治は、独裁されていると言う危機感を共有のものとしていかねばなりませんが、官僚とアメリカの支配下の日本とっては、「何も決められない」民主党政権政治であっても民主主義が真の意味では成立して来なかった昭和戦後史の中の自民党派閥史の中からの延長でしかなく、絶望の中から「資本主義=帝国主義」との戦いは、開始されていた事に立ち戻らなくてはなりません。

それぞれが、ヘーゲル観念論ではなく、キルケゴールの単独者として巨悪に立ち向かう連帯でなくてはならないはずです。

昭和から何も変わっていない。ただただ、喪われた20年があるだけである確認から開始されねばならないのです。

 

税を巡る戦いは、ピケティ氏のグローバル累進課税、「ちきゅう的規模での累進課税」の導入と言う発想とも合致しているのでしょうが、しかし、ちきゅうは、まだまだ世界政府、平和憲法のちきゅう的規模での普遍恒久性にもまだまだ辿り着いていないのですから一歩一歩現実に即して、唯物的に、見つめなおさなくてはならないわけです。

 

まずは、日本国内の事としての安倍内閣の独裁をどうするかの問題へと戻って考察が必要なのですが、経済が問題であるのも確かなのですが、憲法破壊の問題などなどもあるのですが、市民、県民は、大多数でありながら連帯して、民主主義的に自身の居場所を確保できず、政党として、巨大与党安倍自民党に対抗できないでマイノリティ政党である民主党とのシーソーゲームに甘んじずにいるしかないのは、戦後官僚的教育=教条性教育としての独立性を確保できていなかったからであり、官僚の教育要領の中で、価値観の支配まで受けているからであり、貧困としての庶民、国民の大部分の場としては、排斥されたままの状況であり、政治から遠ざけられている事が、低投票率の問題としても現れていること、衣食住の格差以上に、教育格差として貧困は現れているのだと言う事が、ピケティ氏の指摘からも遠いものではない事を今では、周知のモノとして理解が若干であっても広がりつつあるチャンスを利用しないわけにはいかないはずです。

 

上記、

緊急市民シンポジウム「税金を払わない巨大企業~公正な税制で社会保障の充実を~」

こちらもその延長上の市民的訴えであり、連帯の呼びかけであった事に理解が届くのではないかと思います。

 

しかし、宮沢賢治的発想、世界政府的累進課税など出来るはずもなく、ブルジョワ性、観念性は、まだまだ仏エリート秀才ピケティ氏にも限界としてあるのであり、資本主義との戦い、帝国主義との戦いは、血みどろの階級闘争からしか勝ち取れようないこと、それによって、やはり、僕らは、19世紀のマルクスの発想へと戻されるのであり、

 

マルクスを学びなおすと言うより「資本主義とは何か」「資本主義の歴史とは何か」の官僚的支配を受けない「教育」「学習会」の場の独立を必要としているのであり、真の意味での「独立」としての視点へと多くの国民へと問いただしていかなくてはならない事を今更のように語りなおさねばならない事が残念でならないわけです。

 

血みどろの戦い、階級闘争からしかピケティ氏の言う「税」の理想も勝ち取れないだろうと述べていますが、しかし、物理的戦争を思考しているのではなく、また、市民蜂起的一揆的市民デモの拡大のみを言うのではなく、

《民主主義的に「マイノリティ政党である民主党=連合とのシーソーゲーム」ではない、本来の多数派、としてのマジョリティ政党である国民教育としての官僚独立の基盤を、真の学習会とテキストたる出版物革命としての基盤を広げていく事に他なりません。》

 

くだらない本は買うな。不買運動。0円運動として、まずは、インターネット「ちきゅう座」の活用があり、対話、会話の可能性は、この場でまず、開示されているわけです。

 

真に必要なる実経済としての糧である衣食住以上のものとしての「知性批判」もしくは、「知性理性批判」としての連帯は何によって可能であるのか?

それを明確にしていかねばなりません。

 

2・26学術シンポジウム「マルクス研究の最前線」 -ミヒャエル・ハインリッヒとケヴィン・アンダーソンを迎えて-

https://chikyuza.net/archives/50750

 

今回もあまり、時間がない。「貧乏暇なし」なわけでもあるのですが、この様にマルクスを問う学習会もありますので、ピケティ=ブルジョワ性、マルクス=プロレタリア(貧乏性)についての新たな弁証法的唯物論の地平を模索するとするなら、21世紀マルクス論としては、二つの事をしなくてはならないと言うことです。

 

それは、大部分の教育弱者としての非政治的基盤に追いやられている日本国民に対して、わかりやすく、19世紀、20世紀、そして、21世紀資本主義の段階をわかり易く、興味深く、説明する事であり、(それは、既に、レーニン、毛沢東も戯画化や語録などで行っていたが、新たなる教条主義としての弊害もあったこともあります。)

 

そして、もう一つは、知っての通り最前線としてのマルクス学的乗り越えであり、ポストモダンや新自由主義などなどの乗り越えとしての20世紀社会主義国家論の乗り越えとしての「失敗学」的体系化の問題としてあるのだと思うのです。

その全体が、新たな弁証法として、一人一人の人間の可能性との対話として完成していかねばならないマルクス生誕200年祭までの三ヵ年社会主義計画経済的「時間」の幅を共有するところから開始しなくてはならないと言う事、これなのです。

 

ピケティ「21世紀の資本」と新「資本論」体系の刷新について(その6)に続く