補償を受けられる傾斜マンション住民裏側の苦悩
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-741b.html
今、話題のこちらを植草ブログは、取り上げている。
これは、何故、起こったのか?搾取されるのは、労働者だけではなく、材料費としても削減され、利潤に結び付けたいとしている資本主義的構造の問題である事が、理解されるであろう。
危ない大学を自治体は引き受けてはならない
https://chikyuza.net/archives/57480
ちきゅう座にて幾ら知的喚起を促していたとしても教育体制がしっかりしていないと「地に足の着いたもの」とならないので、大学と言わず、「生涯教育体制」は必要であるのだ。
しかし、教育内容の考察に入る以前に、資本主義的商品としての大学があり、形式化形骸化している問題の指摘がある。
押し売りとして自治体に売りつけようとする商品、それは、国民の血税または、赤字財政の一部として先延ばしにしようとする行為であり、この根本も「搾取」構造となる。
「だいたい、若年人口の急速な減少が推測できたにもかかわらず、安易な経営拡大をしたあげく、「定員割れだから自治体が引受けてくれ」というのは筋の通らない、あつかましい要求である。どこの世間に「赤字続きだから私の会社を救ってくれ」と、県や市町村に泣きつく経営者がいるだろうか。数年連続で入学定員を充足できない大学は、傷が大きくならないうちに廃校にすべきである。すでに長野経済短大は09年に廃校とした。」
経営破たんした経営者が、個人的に自殺率をあげるのか?または、解体する費用さえない空家問題として放置されるのか、ブルジョワ資本主義経済に踊り、「アメリカンドリーム」に踊った夢の跡としての資本主義淘汰であるならそれも良いのであるが、実際は、「悪い奴はよく眠る」状態であり、巨悪は、残っており、それが、国家財政赤字として残っており、東京電力、官僚の悪逃れ構造である事を追及しているのが、「ちきゅう座」の本領であると言う事である。
血税を有効に使うのなら良いが、大部分の現在の資本主義的形骸化した大学の印象を「遊びに行っているのか勉強をしに行っているのかわからない」その様に考えている状況となっている故に、血税は、教育に回らない事の方が、問題である。
競争原理が、本当の意味で、機能していない社会が、独占資本段階における帝国主義、資本主義批判の根本である。
故に、官僚は、「競争原理に晒されていない」「特権性」「ブルジョワ階級」として批判されて来た問題に立ち戻るべきであるのだ。
教育体制は、国富としての豊かな社会に必要であるが、資本主義は、階級支配化する事によって、真の意味での「努力」も報われず「競争原理」も機能していない事の根本が、社会主義段階へと日本を押し上げる事を阻んでいる根本的問題である事をそろそろ明確にしていかねばならないはずである。
教育体制は、上記の様な形式化形骸化したる資本主義的商品としての大学経営としての「実」のないブルジョワ性によって、破壊されている、安倍政治の言葉だけの空虚なる「一億総活躍」同様に、同じ形骸化の中で、実に迫れないそれぞれの断片があるのだ。
教育は、建物でするものではない雁屋哲『男大空』があり、手塚治虫、白土三平よりも学べない権威主義、形式主義となる「官僚主義」的大学そのものに希望がなくなっている事が問題であり、それの乗り越えこそが、社会主義的段階としての創造的労働協働社会に他ならない事を論理体系化再構築して示していかねばならない。
73歳男性“事故直前に立ち往生”宮崎暴走
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20151030-00000055-nnn-soci
こちらの問題も「自動運転」を急がねばとは滑稽なコメントであるテレビが横行している。
本当の意味での医療知識が、大衆化しているキューバ的社会であるなら最大限防げるものであり、人間の身体的基本なる知識について国民が、「生涯教育」的に受け取れない「孤立=プライベート牢獄教育」「奴隷無知化」の結果の悲劇であると考える。
中国「一人っ子政策」の廃止決定、国民の間に戸惑い広がる
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20151030-00000023-jnn-int
中国も同じ、高齢化の問題を持っている。
本が売れぬのは図書館のせい? 新刊貸し出し「待った」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151029-00000013-asahi-soci
さて、実際の「商品」論としての展開としての社会主義研究の現状とは何か?を今回考えたいとしている訳であるが、大学が、機能不全したブルジョワ性商品社会である故に、本当の意味での社会科学研究は、停滞したままとなって放置されている問題がある。
佐藤優氏が、マルクス、共産主義、廣松渉などを昨今取り扱っているが、新しいものではなく、解説書に留まらざる負えない状況であるのは、残念なことだ。
佐藤優氏は、著作を連発しているが、売れているのだろうか?
それ以上に、その意図は、広がっているのだろうか?読まれる本を観て考えてもらえる「映画」『1900年』の精神としての商品の広がりをそれぞれに求めているのだが、
僕としては、
落選運動の戦略【4】
「もともと自民・公明に投票していない人同士が話しても金と時間の無駄だ。」に同意するものであり、外部に伝える方法論を模索している。それが、三世代革命論であり、どぶ板選挙であり、更に、大学を越えた生涯教育体制社会であるのだが、
第三世代的SEALDsへの期待ともなっている。
「SEALDsは来年の参院選で解散しようと思ってる」 学生メンバーが活動計画を発表
http://www.asyura2.com/15/senkyo195/msg/601.html
『共産主義を読みとく』いまこそ廣松渉を読み直す『エンゲルス論』ノート
佐藤優 世界書院
2011年6月
http://revolutio.exblog.jp/22433525/
p18
⒎宇野弘蔵、黒田寛一との対比
《宇野は、科学とイデオロギー、理論と実践の峻別をしつこいほど強調した上で、自らが社会主義者でないことを強調した。
これは、むしろ宇野の社会主義革命に対する期待が過剰であるから生じたのである。
宇野は、戦前、人民戦線事件で治安維持法違反容疑で逮捕されたが、最終的に無罪を言い渡された。
しかし、大学には復職できず、一旦、アカデミズムで生きることを諦めた経緯がある。
国家権力の暴力性、恣意性を宇野は皮膚感覚で理解した。
そして、このような暴力措置である国家と対峙して革命を行うためには、革命政党が不可欠と考えた。
革命党に加わり、特別な訓練を受けた職業革命家が党の指令に従って、引き起こすのが実践運動であり、そのような実践運動に参加してはじめて社会主義者と言えると考えたのである。
そして、漠然と「社会主義の方がいい」と考えるくらいの知識人には社会主義者を名乗る資格がないと考えた。
そして、宇野自身は、純粋な資本主義社会における資本主義の内在的論理の解明に知的エネルギーのほとんどを注いだ。
その背景には、革命への情熱が控えている。
革命の対象となる資本主義システムを完全に把握することができるならば、その脱構築に資することになると宇野は考えたのである。
革命は、人間によってなされる事柄であるので、そこには超越的なドグマは必要とされない。
第三者的に見た場合、宇野は、カトリック的な日本共産党の「革命の神学」のドグマから、革命を真摯に考える人々を解放したのである。》
廣松渉、宇野、黒田寛一に共通するものは、社会主義革命の為の党を作りたかった事だろう。
キリスト教的展開の日本の社会主義思想に不満だ。
日本共産党さえカトリック的。
ドライで、東洋的ではない、西洋的合理主義の中で考えたいとしていたのだろうか?
黒田寛一は、組織は、作ったが、軍隊的であり、硬直化した限界があり、日本帝国軍人の模倣的硬直、半スターリン主義としての批判が、論理としての廣松渉にも言える事で、話者として登場する大下氏も理解していたと述べる。
フォイエルバッハの超克が最終章であるが、不完全燃焼であるのは、佐藤優氏が、神学の範囲に引き戻そうとしている部分である。
宗教と神学、更に、人間主義の超克がフォイエルバッハの超克として主題であろうけれども。
革命と時間と暴力について
ドストエフスキーも革命を望んでいたと考える。
実際は、キリスト教に依拠しているかどうかは、どちらでも良い事なのだ。
革命にとって、ツアーは、ロシア正教は何であるかの問題として、かつてのロシア革命はあったであろうし、ロマンローランの戦時共産主義の擁護もそれぞれの歴史的段階であったのだろう。
<中野@貴州>さん、こちらに不完全ですが、少し全体像に迫る一文があります。
花崎皋平ピープルネスとは何か
http://s.webry.info/sp/tu-ta.at.webry.info/200511/article_11.html
花崎皋平氏のキリスト教とは、「宗教」としてのもので、佐藤優氏の様な神学教義的な意味ではない様に感じるが、
キリスト教と社会主義のつながりは、日本の社会主義展開に深い関係にあるのは、両方とも西洋的な発祥として反日本的でもある要素でもある。
では、日本的とは何かの問題があるのであるが、それは、王朝かそれとも民衆であるのかの構造として再度問われていくものだろう。
宇野弘蔵ウィキペディアにあった
《ちなみに宇野自身は自著で「自分をマルクス主義者とはもちろんのこと、広い意味での社会主義者とも考えたことはありません」(『資本論の世界』)と語っている。》
この部分について、佐藤氏の解説的には、まだ社会主義者に辿り着けていない、それほどに「革命に対する期待が過剰であるから生じたのである」で少し、腑に落ちるものがあったかな。
佐藤優氏の「神学的良心」の発露としての社会主義思想解説に読みやすさと期待をしながらもまだまだ読み足りない不満も感じる。
門外漢的分析を秀でたる新しい社会主義研究の連帯をちきゅう座発で始めて頂きたいものである。
続く。