今年・2017年は、ロシア革命から100週年の年である。
その年の十月革命から内戦を経て1922年にソビエト連邦が成立した。各国からの干渉戦争を乗り越え、ナチスドイツとの大戦に勝利して、戦後はアメリカ合衆国と対峙する超大国として世界に君臨したが、結局は官僚独裁の弊によって1991年に崩壊した。崩壊はしたが、資本主義の矛盾を克服しようとする人類史上の壮大な試みとして、その意義を否定することはできない。
若いころの私には、マルクスもレーニンも毛沢東もそしてカストロも、輝く魅力にあふれる存在だった。社会主義陣営にこそヒューマニズムがあり未来があるものと感じていた。必ずや「東風が西風を圧する」ものと思いこんでもいた。
否応なく自分の身の回りに見える資本主義社会の矛盾は明らかだった。社会には大きな経済格差があり貧困があった。多くの人々が、低賃金や失業や生活の不安におののいていた。資本の利益に適うとされる限りで、人は人たるに値する処遇を期待することができるが、資本の利益に資することのないとされる人は、切り捨てられ見捨てられる。
人は、人として遇されるのではない。資本に利潤をもたらす労働力としてのみ価値あるものとされる。そのことを当然とし馴らされた国民が保守政党を支持することで、この国の政治が成り立っている。政党政治も民主主義も醜悪な欺瞞以外のなにものでもないと映った。
これに比較して、資本主義の矛盾を克服する試みとしての、社会主義の理念の正しさに疑いはなく、ソ連や中国の社会主義もまぶしいものに見えた。スターリンの粛正も、毛沢東の経済政策の失敗も、当時はよく知らなかった。あるいは、よく知ろうとはしなかったというべきだろう。結局は、ソ連や中国の実態に触れることのないままの観念的な思い込みに過ぎなかった。
中国はいち早く「改革開放」という名の資本主義化に舵を切り、さらにソ連が崩壊するに至って、社会主義の壮大な実験の失敗が明らかとなった。
現実の社会主義建設の試みは失敗したが、そのことによって、克服すべき資本主義の矛盾が解決されたわけではない。むしろ、競争者がなくなったことで、資本主義の傲りは著しいものになったと言えよう。
資本主義の矛盾への対処は、革命というドラスティックな処方が唯一のものではない。資本主義という猛獣を退治しようとしたのが社会主義革命だが、退治するのではなく、その牙を抜き訓育しようという種々の策が各国で試みられている。民主主義的政治原理で、経済の制度や運用をコントロールしようという試みといってよい。ここには、法や人権の観念が大きな役割を果たすことが期待されている。
資本主義の原初の姿が、搾取の容認であり競争の放任である。すべてを市場の原理に任せて良しとするのだ。その破綻は、既に誰の目にも明らかであって、資本の放縦への規制が必要なのだ。資本の行動に枠をはめ、まずは労働者の保護と公正な市場の管理が不可欠なのだ。そして、資本の回転の各過程で、下請け企業の保護や消費者の保護、環境の保護などが必要となる。
ところが、今また、規制を排し資本に無限の自由を与えようという、新自由主義の潮流がはびこっているではないか。労働者の使い捨ては容認され、格差はますます拡がり、貧困はさらに深刻の度を深めている。100年前のロシア革命は、「人間を大切した社会主義」の樹立に成功しなかったが、それに代わって眼前にあるのは「人間を大切にしない野放図な資本主義」である。
私は、人間の尊厳こそが最優先の価値と考える。民主々義的政治過程によって資本を規制することを通じて、「人間を大切にした節度ある社会」を目指したいと思う。ロシア革命は失敗したが、人類は資本主義の基本構造の変革という現実の選択肢をもっているとを示した点に、その意義を見出すべきだろう。
(2017年1月3日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.01.03より許可を得て転載
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