1000年前の同窓会の詩に思う。

著者: 澤藤統一郎 さわふじとういちろう : 弁護士
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北宋に韓維という詩人がいた。
科挙の合格掲示板「榜」に名を連ねた同榜の友人たちと心許す仲だったという。

とりわけ同郷の者と親しく、8人で「八老会」なるグループを作っていた。その、8名の宴席の様子が、「卞仲謀八老会」という七言絶句として残されている。
1000年前の同窓会の詩。老境での同窓会の雰囲気が、今に変わらないのが面白い。

 同榜同僚同里客
 班毛素髪入華筵
 三杯耳熱歌声発
 猶喜歓情似少年

読み下しは以下のとおりかと思う。

 同榜 同僚 同里の客
 班毛 素髪 華筵に入る
 三杯 耳熱くして歌声発す
 猶お喜ぶ 歓情の少年に似たるを
(班毛はまだらに白いごま塩頭。素髪は白髪頭。いずれも老人を指す)

拙訳ではこんなところ。

 若いあの頃袖触れ合った
 古い仲間と宴の席に
 飲んで歌ってはしゃいで熱い
 おれもおまえも変わらない

原意に沿えば…。

 あの頃は紅顔の少年だった仲間たち
 今は、髪も白くなっての宴の席に。
 わずかの酒で身体がほてり、
 あの頃の懐かしい歌も出る。
 ああ、あの頃の情熱は失せていない。

一海知義の著書からたまたま見つけたこの詩を、学生時代の同窓会の案内文に使ってみた。訳は、勝手な我流である。入学から数えると55年も昔の仲間。

60年安保直後のあの頃。私の周りのどの学生も反体制だった。誰も彼もが、反自民であり、反安保であった。当然のごとくに護憲であり反戦平和であった。問われたのは、その本気度であったり、口先だけでなくどう行動するかであった。

あの頃、水か川上から川下に流れるごとく、若者は自然に革新の立場となった。問題は、就職し職業をもって、世のしがらみを身につけるうちに、妥協せざるを得なくなっていくことだ。

おそらくは、班毛・素髪で華筵に入り、酒の三杯で耳を熱くして歌声発すれば、世のしがらみを身につける前の「本当の自分」を思い出すことになる。だから、老境の同窓会は、楽しくもあり、ほろ苦くもあるのだ。

それにつけても、である。若者の投票行動が、老人よりも保守的だという報道に仰天せざるを得ない。理想を追うはずの若者が、どうしてこの矛盾だらけの今の世を「これでもいいじゃないか」と言っておられるのか。どうして、正義に敏感な若者が格差を広げる経済政策を看過するのか。どうして、洋々たる未来を生きる若者がかくも危険な原発再稼働を容認できるのか。どうして、自由や平等や平和の理念を謳う憲法に対する攻撃を、我が身への敵対行為ととらえられないのか。どうして、金で動かされている政治と社会に反吐が出るほどの怒りを燃やさないのか。どうして、潔癖なはずの若者がかくも醜悪なアベ晋三を許しておけるのか…。

子供は無邪気でいられない。
青年は潔癖ではいられない。
壮年は自分の意思では動けない。
そんな世にあって、
老人だけが、昔みた夢の中に生き続けている…、
のかも知れない。

だから、明日(11月3日)の「怒りの10万人集会」に、
まずは老体が出かけよう。だから、若者も出ておいで。

「安倍9条改憲NO! 全国市民アクション 11.3国会包囲大行動」

 日時:11月3日(金・休)14時~
 場所:国会議事堂周辺
 主催:安倍9条改憲NO!全国市民アクション/戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会
(2017年11月2日)

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.11.02より許可を得て転載

http://article9.jp/wordpress/?p=9422

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/

〔opinion7077:171103〕