小熊英二による〈提起〉に次いで、今回は鼎談本体の紹介である。
四六判で26頁にわたる長文を要約するのは難儀だった。分かりやすいようにと心懸けたが、自分で読んでも分かりにくい。更に興味をもつ読者は原文に当たられたい。
《問題提起に沿って議論は進む》
鼎談のタイトルは『「1968年」再考―日米独の比較から―』である。
小熊の三つの提起の順に討論が進む。
「メディアの台頭」が、運動の相互性を強調につながったとともに、「周辺と位置づけられていた学生、エスニック・マイノリティ、女性、第三世界など」への注目が特徴的だったと小熊はいう。国家対国家、資本対労働といった「正規軍」同士の対決よりも、運動・文化・非暴力の示威的行動などの「ゲリラ」的対応への注目であったともいう。
これに対して井関正久は、ドイツにおいては1848年革命が参照され「社会主義」が目標となったことを言い、梅崎透は、「1968年」を「グローバリズム」の文脈のなかに位置づける議論に対して〈社会運動は国家や企業との対決〉であるとして、疑問を呈している。実際、「1968年」の呼称が生まれたのは、同時期より10年も後であるとするのが研究者の共通認識らしい。日本で同時代のテーマは「70年安保」であった。そして、大衆は「反戦」「反安保」までは理解したが、「マルクス」が出てくると理解不能となった。共産党と新左翼の対立はさらに理解不能だった。佐藤栄作日記にもそれが出てくるという。
《近代化の進展に関する討論》
次の「近代化の進展」に関しては、近代批判がどのように出てきたかが問題となる。
これは日本と米独で対照的な違いがあったことが論じられる。
ダニエル・ベルが1973年に『脱工業社会の将来』を書いた。小熊は、製造業就業者数のピーク時期が、アメリカで60年代後半、日本では92年だったことを挙げて、この「時差」が彼我の運動の性格に差異をもたらしたという。欧米は、製造業の衰退期と「1968年」が重なり、日本はそれに遅れ、消費社会に陰りが出るのは90年代以降である。
グローバルにみると、「1968年」は英米ではカウンターカルチュアの時代であった。日本では、「カウンターカルチュア」の隆盛と社会運動には距離があった。日本の運動は、山本義隆に代表される硬派のそれであり、「近代批判」の色が強かった。アメリカでは、冷戦リベラリズムに対抗する「参加民主主義」が主な思潮となり、ドイツでは問題が世代間対立から始まり、近代化批判論の出現は遅れた。
このほか、大学の自治、学生・知識人の権威意識、自治大学の成果、労学共同の可能性と成否、日本における「共産党」の特異な位置などが論じられている。詳述の紙数がないが、それぞれ今日に続く重要なテーマである。
三つ目は「冷戦体制」との関連である。
小熊は「1968年」における米国覇権の揺らぎを強調して、その「シャッフル」が出たというが、井関は同じ視点からは同じだが、むしろ強度の大きい「クラッシュ」だったという。米ソ主導の戦後秩序の制度疲労があり、ドイツは経済成長の中途段階だったから「オルタナティブ」追求の余地があった。クリエイティブな運動が可能だったというのである。特に社会・文化面で反権威、若者の突き上げが強かった。経済問題は、のちのEUの形成につながる。小熊は、日本は1945年の敗戦が画期であり、68年より衝撃は大きいとする。68年には既に植民地はなく日仏の方向性のベクトルは逆であったという認識を示す。
アメリカでは「ベビーブーマー世代」が時代の担い手であり、60年代はカウンターカルチュアが主たる思潮の時代であった。
《歴史の再審を求める三人の発言》
このあたりから鼎談は、「1968年」論議の、今日的意義という「基本的な問題」へ収斂してゆく。「1968年とは何だったのか」という「そもそも論」である。さらに最終部では「歴史とはなにか」という問題が議論されている。三人の発言を、以下に取捨選択して並べておく。発言順序・省略または一部削除・「です・ますの変更」は、私(半澤)の判断で行った。そのことを発言者と読者にお断りしておく。
■小熊英二(おぐま・えいじ、日本歴史社会学、慶應義塾大学教授)
なぜ1968年だけが特別な対象になるのか。非常に素朴な運動だったのではないか。日大・東大全共闘の初期は万人にわかった。この時期に起きた各国、あるいは全社会的な変化というものを、どういうふうに把握するかという問題だ。
その後に起きた社会の変化を、あの時期のアイコン的な部分から説明すると見えやすい部分もある。けれど、そこで変化したものが本当は何だったのか、きちんと見ていくことが学問的に重要だと思う。
私は、基本的には歴史を書くというのは、常に現在から歴史観を構築する作業でしかありえないものだと思っている。けれども、では何を構築してもかまわないのかというと、反証可能性は担保されるべきだ。
その意味では、「68年」というのは、描き方にほとんど無限の可能性がある。いま流通している「68年」のイメージが、史料による批判に耐えられないものであると考えられるなら、それは神話としてきちんと批判していくということが必要になってくる。
歴史というものは、永遠に続く未完の対話作業だからである。
■井関正久(いぜき・ただひさ、ドイツ現代史、中央大学教授)
ドイツではハーバーマスやマルクーゼが読まれたが、学生はナイーブで毛沢東やチェ・ゲバラに傾倒する側面があった。
ひとは「68年」にあらゆる出来事を「詰め込み」すぎているのではないか。68年は、当事者によって神話化され過大評価されている。10年前から新右翼が「68年に対する宣戦布告」といって、68年の文化革命を逆方向からすべきだと運動している。反68運動の政党「AfD」は、さきの選挙で第三党になった。「68年という枠組みで果たしていいのか」という議論をすべきではないか。
東ドイツでは民主化運動がありベルリンの壁が崩れ、当初は誰も予想しなかった東西ドイツ統一が、1年も経たないうちに実現する。今では、ドイツ統一記念の催しがあると、ベルリンの壁崩壊はドイツ統一のための出来事のように描かれている。まず結果があって、それに繋がるものを歴史記述として残し、それ以外のものは本来ならば大切であったものでもそぎ落としてしまう。だから同時代史研究においては、メインの歴史記述から漏れてしまうものを拾い上げる作業がいっそう必要なのではないか。小熊氏の〈提起〉を読んでそれを痛感した。
■梅崎 透(うめざき・とおる、アメリカ史、フェリス女学院大学教授)
知識人は、学生運動は行き過ぎた反権威主義で、アナーキズムであり、反知性主義だと言っていた。しかし「68年世代」が大人になり権威をまとうと、若い世代との乖離が生じる。第二波フェミニスト世代の成功例ヒラリー・クリントンは、若い世代の支持を得られなかった。「68年の遺産」をどう語るのか、語る主体によって大きく異なってくる。二〇世紀、もしくはより大きく近代の政治思潮のなかで、より実証的に「68年」を位置づけることが必要ではないか。アメリカ現代史における「ニューディール・オーダー」という時代区分はそうした枠組みの一つと思う。しかし、よりミクロな実証研究をふくめて、すべて「68年」でくくる必要はない。
「68年」後のフェミニズムの展開をどう記述するかは大変興味深い。現在のアメリカでは、一方で第二波の後の第三波を主張する人々がいて、他方でポスト・フェミニズムの時代を主張する人々がいる。第二波の世代に、新自由主義を誘発する傾向への可能性を反省する当事者がいる一方で、そもそもウーマンリブは新自由主義だったという論者もいる。記述から漏れるものに加えて、歴史を語る立場性を意識することが重要だ。
前回予告も拘わらず今回も内容紹介で紙数が尽きた。私の「1968論」は次回となる。(2018/06/26)
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