前二回で「提起と鼎談」(以下「鼎談」)の紹介をした。
今回は、その評価と「私にとっての1968年」について述べたい。
《違和感の理由を挙げると》
鼎談を読んで、研究者3名の分析と発言に大いに啓発された。
客観的で俯瞰的な分析である。多面的で国際的な分析である。納得することが沢山あった。しかし、一方で私は、「これはちがう」という違和感を強くもった。
その理由を考えてみる。私は、「1968年」を闘争、異議申立だと思っていた。だから、違和感をもったのである。
三点に絞って鼎談の問題点を考えたい。
第一に、「闘争」という見方の持主からみると、3名の研究者の発言は極めて「冷静」である。「冷酷」とすらいえる。冷静さは、小熊が「1968」を近代化の進展の一過程とみる視点に起因すると思う。小熊は「1968年」はメディアの影響もあり過大評価されているという。そして「1968年」を思想史的事象として考察している。
私のみるところ「1968年」は、「近代への抵抗」であり「近代的思考への異議申立」であった。思想の問題は、具体的に様々な「闘争」として表現された。
学問の「客観性」が、実はイデオロギーに冒されていることへの抵抗であった。あるいは近代の指標である「自由」や「人権」が欺瞞的な存在であることへの反発であった。闘争は、情念や狂熱をともなう。爆発した心情は、半世紀を経て冷たい「歴史叙述」のなかに閉ざされた。鼎談が同時代の当事者より若い世代によって行われたのも「冷たさ」につながったかもしれない。それでも3名は、私の指摘した点も自覚しているようだ。最後部の歴史観論義は、その問題意識の表現と感じられる。
第二に、「闘争」という見方の持主からみると、闘争の当事者の扱いに不満がある。
当事者とは誰か。それは戦った者たちとその敵側の者たちである。後者はどこへ行ったのか。あるいは、勝負はどっちが勝ったのかという問題である。「反乱軍」の言動分析はあるが、「権力側」は出てこない。「1968年」を近代化の一過程とする論では「勝負の論理」は出てこないのであろう。
かつて西川長夫の『パリ五月革命 私論』を読んで、私が痛感したのは、五月革命の優れた報告に「支配権力」の記述がないことであった。「五月革命」後の6月総選挙でドゴール派が勝利した理由が不明なのである。鼎談者にはこの点を語ってもらいたかった。
本誌の個別論文に一つの例外がある。安藤丈将(政治社会学)による論文「警察とニューレフトの『1968年』」である。警察庁や公安調査庁の文書を駆使して、警察「権力」の対応を具体的に分析している。我々が欲しいのは、こういう権力の奥の院の分析である。
《今日的意義なるもの》
第三に、鼎談は「1968年」の、「2018年」における今日的意義をもっと鮮明に論じてもらいたかった。安倍内閣の反知性主義は極まった。政治学者の杉田敦はこう発言している。(■から■、『マスコミ市民』、2018年7月号のインタビューより)
■今の日本の政治は、刑事法上の疑いで起訴されるか、あるいは有罪になる以外は問題ないといって、責任の範囲を非常に狭く考えるようになりました。どんな組織であっても、刑事法的な問題になれば責任問題が起きるのは当然ですが、従来、刑事責任が生じた時しか政治が責任を取らなかったかといえば、そんなことはありません。(略)ところが、いつの間にか政治責任という概念が否定され、あたかもこの世の中には刑事責任しか存在しないかのようになりました。直接証拠がない限り、いかにおかしくても問題ないということで、この世の中で通用するでしょうか■
このような政治的退廃が、すべて「1968」に起因するとは言わない。
しかし、戦後の「1960年(安保)」、「1968年」、「1990年(冷戦終了と日米同盟強化)」が三つの転換点であったと考えれば、「1968年」はその一つであった。鼎談は日本固有のテーマを、一般化・国際化の視点を重視するあまり、過剰な相対化を行っている。日大アメフト部問題、キャリア官僚の「劣化」状況をみるにつけ、「日大古田会頭との一万人団交」や『理性の叛乱』(山本義隆)は、どこへいったのかと思う。
《私にとっての1968年》
1958年に「企業戦士」となった私は10年目を迎えていた。
本店営業部という営業部門の旗艦店―企業により最大支店が旗艦店―にいた。
そこで「どぶ板外交」をして預金集めをやっていた。
私のいた企業は、著名な公害企業のメインバンクの一つであった。公害企業の経営者の息子X君は、同じ部署の若い同僚であった。彼の結婚披露宴に招かれた。仲人である部長の祝辞に「X君は、今のように公害のなかった綺麗な海を見ながら、あるいはその海で泳ぎながら健康に育ちました」というくだりがあった。私は参加者に合わせて拍手をした。拍手しながら「これはダメだ」と思った。高度成長を至高の目標とした企業共同体はダメだという意味である。
これが「私にとっての1968年」である。読者は「それがどうした」というであろう。しかし、これが私の原点の一つである。一体、あるテーマに対する生活者の経験や思考は、この程度のものではないだろうか。
話題の人である前川喜平が、『面従腹背』という本を書いた。
トップ官僚が「面従腹背」で生きているのに、一企業の中間管理職が、それ以上のことをどうしてできようか。と私は自己を正当化する。問題意識を持続するだけでも抵抗である。と私は自己を正当化する。さらに次のようにいう。「一人が百歩前進するよりも百人が一歩前進することが大事である」。凡庸なメッセージである。
しかし「1968年」への再訪は、生活者のこんな矮小な現実から出発しなければならない。これを結びとして「私にとっての1968論」は終わりである。(2018/07/05)
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