1985年夏・メットで観た「暫」 ―十二代市川団十郎の他界を悼む―

 1985年8月、十二代目団十郎襲名披露米国公演を観た。
私がみた演し物は、団十郎が主役を演ずる「暫」、「口上」、孝夫(現仁左衛門)・玉三郎の演ずる「色彩間苅り豆」(通称かさね)であった。団十郎の若すぎる他界を知り茫々たるそのときの記憶を書く。

会場のメトロポリタン・オペラハウスは、ほぼ満員で日本人は一、二割だった。
見巧者であるニューヨークの観客はよく反応した。イヤホンによる同時通訳も良かったのであろう。エキゾチズムへの興味が皆無ではあるまいが、「暫」の様式美、クライマックスの荒事に、彼らは歌舞伎のもつ一つのスタイルを見たのである。
前年に同じ舞台で「鷺娘」を踊った玉三郎と、団十郎とは対照的な孝夫による「かさね」は、男女の奇怪な愛情表現である。日本人の表現する微妙な心理と様式に、観客は次第に惹き引きこまれていった。私にはそれがよくわかった。
「口上」では一人一人の役者が「宜しくお願い申し上げます」と結ぶとその都度、爆笑が起こった。こういう自己宣伝への素直な驚きと、日本語のイントネーションが可笑しく聞こえたのだろうと私は思った。なぜか三味線の残響がザラザラした音で長く聞こえた。気分がそがれたことを覚えている。
観客は長時間のスタンディングオーベイションで応えた。日本では歌舞伎でカーテンコールをしないから、演者たちは新鮮な興奮を覚えたであろう。

米国公演は西海岸のUCLAで始まり、米国を横断して世界演劇のメッカに攻め上ったのである。
米国一流紙の論評は総じて肯定的であったが、初体験に近い歌舞伎への認識と評価はなかなか正確であったし指摘も鋭かった。一瞬にして変わる彼らの反応を感じながら観客の鑑識眼の高さに私も驚いた。それは、何よりも団十郎自身が強く感じたに違いないと思った。

私はその感動で「愛国者」の気分に浸った。典型的な日本人の一人となったのである。グローバリゼーションの対極にある伝統芸能が世界に通用する演劇であること、それは私に勇気と慰めを与える。私はそれから団十郎の弁慶、勘三郎の娘道成寺を何度か観ることができた。その体験は「日本人に生まれて良かった」と思わせるほどである。
メットの団十郎。それは忘れられない「一期一会」であった。

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