2つの議論から (1)日本浪漫派の復活とファシズムの源流(演歌・メロドラマの涙にぬれる日本翼賛文化) (2)ニュークリア・リプラス:英国流「原子力再興」と「核の後始末」

この土日で目を通した2つの議論をご紹介申し上げます。いずれも注目すべき興味深い内容の議論です。

 

1.日本浪漫派の復活とファシズムの源流(辺見庸・佐高信 『絶望という抵抗』の第4章)

http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000033189828&Action_id=121&Sza_id=GG

 

この対談記録本は作家の辺見庸氏と評論家の佐高信氏の時事問題対談を掲載しています。1~3章が、少し前に『週刊金曜日』に掲載されたもので、残り第4章から第8章が、この本のためになされた「語りおろし」です。今回ご紹介申し上げるのは第4章「日本浪漫派の復活とファシズムの源流」です。

 

佐高信氏が「かつては夜がありましたよね。いまは夜がなくなった。コンビニやファストフード店の明かりが二四時間煌煌(こうこう)として、まるで夜をなくそうとしているみたいでしょう。闇がなくなるということは、お化けの住む場所がなくなるということです。妄想の自由がなくなり、自分たちと異なる存在を光によって消してしまう。光が差異を消し去って、全部を平均化するんです。戦後、光というのは希望の代名詞でしたが、本当はそうではなかった。ここにも戦後的な価値の倒錯がある。」と切り込めば、

 

辺見庸氏が「自然の闇には奥行きがありました。佐高さんもぼくも東北の出身ですが、東北の夜に底知れない魅力がありました。闇には、いわばメタファーや寓意というものがいくらでもあったと思うんですよ。見えないものを見る目を養ってくれました。ぼくらはそれを難解なこととして学んだわけではない。夜の深さのなかに人間の深さ、手に負えないなにかを読みとっていたんです。ところが、闇はただ暗いだけの忌むべきものとして現在の都市社会は成り立っている。闇はいまやそれだけで犯罪です。戦後70年間で、社会はメタファーや潜在する不可視のうごめきを感じとる能力を払い去ってしまった。」と切り返す。

 

そしてさらに辺見庸氏が「ただちょっと気をつけなくてはいけないのは、かつての闇に美を見出すような論調は日本的思想風土にうまく回収されてしまうということです。日本の戦後思想史、あるいは精神史における闇を、誰が掌握してきたか。ぼくが特に最近気にしているのは、保田興重郎に代表される日本浪漫派の思想の流れです。」と問題提起をすると、

 

佐高信氏が「いまは涙が鍵になっていますね。泣ける小説、泣ける映画、とにかく「泣ける」ものが流行る。百田の小説にしても安っぽい涙を流させるわけです。これは日本浪漫派から繋がっているもので、湿っぽく扇情的な涙をうまく使うんです。しかし本来、闇はそんなに湿っぽいものではない。東北の闇は乾いていたし、笑いもあった。涙に笑いを対置してこなかったことで、いま足をすくわれている気がします」と受けて立っています。

 

そのあと、故竹内好氏の1950年ころの日本浪漫派批判のこと、故久野収氏の日本文化批判のこと、アララギ派の詩人の多くが(たとえば高村光太郎(戦後は自分の戦中の行為を深く反省)や斎藤茂吉(戦後も反省しない))戦争協力を目的とした軍歌の詩を多く書いたこと、そしてそれが非常に下手な作詞だったこと、更にこの日本浪漫派の基底に流れるセンチメントが、そのままメロドラマや演歌につながり、日本の頑固な翼賛的社会体質、ないしはファシズム親和的文化を支えていることなどが語られています。非常に興味深い対談です。

 

一部引用しておきますと

 

辺見庸氏「よく点検してみると、軍歌の作詞者にアララギ派の作家たちが名をつらねている。保田(興重郎:田中付記)の周辺には、亀井勝一郎もいたし、太宰治も三島由紀夫もいた。百田や長谷川たちがもっているもののなかにも、あの日本的な美意識がある。イラショナルな、言語化が難しい美意識です。その空気は死滅していないどころか、いま風に活性化している。それにたいして我々は甘かった」

 

佐高信氏「日本の思想風土というのは濡れた雑巾みたいな感じがする。絞ると涙が出てくる。その涙を見事に権力に利用されていると感じます。」

辺見庸氏「戦時中、「大東亜共栄圏」や「内鮮一体」を唱えた政治家、軍人らが、中国人、朝鮮人を一般にどのようにとらえ、どのように遇してきたか。これについてもわれわれの知識と大きな開きがある。一国の首相が歴史的に重大なメルクマールについて、アジア主要国や欧米諸国と共通認識をなんらもっていない。これは恐ろしいことですよ」

 

(ところで、私が今すぐ歌える好きな歌をいくつか挙げてみろと言われると、石原裕次郎・北の旅人・恋の町札幌、坂本冬美・夜桜お七・祝い船、都はるみ・二人の大阪・北の宿から、北島三郎・北の猟場・風雪流れ旅、森昌子・越冬ツバメ、日野美歌・氷雨。テレサテン・空港・愛人、八代亜紀・舟歌・愛の終着駅・・・・・・、つまり私もまた右翼・ファシストのはしくれということなのでしょうか、しかと「自覚」しようと思います。

ちなみに私は「日本浪漫派」ではありません。あえて申し上げれば「日本ロマンチスト派」です。)

 

 

2.ニュークリア・リプラス:英国流「原子力再興」と「核の後始末」(鈴木真奈美『世界 2015.2』)

イギリスのことだからと見逃してはならないと思います。少し前は、日本の原発が生み出した使用済み核燃料の再処理委託先であり、また、英セラフィールドの再処理工場が閉鎖と決まって以降では、日立と東芝という、バカで愚かな一部の経営陣に引きづられて原子力ビジネスに固執するこの2社(*)が、英国内の原発発電会社を買収してまで、英国での原発再スタートに乗り込んでいこうとしていることなどがレポートされています。

 

(*)(日立の方はよくわかりませんが)但し、少し前に東芝特集を載せた日経新聞の記事によれば、東芝の事業ポートフォリオは、買収したWH(ウェスチングハウス)を含めても、原子力部門は1~2兆円と、全体約10兆円のせいぜい1~2割程度にすぎず、他の事業部門=たとえば再生可能エネルギー設備などの部門の方が、原子力部門よりも収入が大きいという状態にあるようです。つまり東芝は、原子力・原発一辺倒ではなく、いろいろな部門にまたがっていて、原発がこけても会社経営は揺るがないような、したたかな事業ポートフォリオになっているように見えます。

 

このイギリスの原発回帰=原子力ムラの広宣流布用語では「ニュークリア・ルネサンス」、批判的にみる立場からは「ニュークリア・リプラス」(「リラプス」とは回復しつつあった病や依存症がぶり返すことを指す。すなわち「核依存のぶり返し」)と名付けられたこの動きは、2005~06年のトニー・ブレア、及びそのあとのゴードン・ブラウンの労働党政権下で本格化しました。民主党や労働党などという似非リベラルがロクでもないのは、内外共通のようです。

 

ともあれ、英国の原子力政策をコンパクトに振り返りながら、原子力復活が政治的に強引に引率されて実現されていく様子がよくまとまって説明されています。しかし、ことは「核分裂エネルギー」のことですから、核の後始末を含めて簡単なことではありません。政治権力がもっぱら主導する軍事力としての「核」はともかくも、発電という民間ビジネスの「核」が、はたして今の保守政権や、かつての労働党政権の思惑通りに復活していくかどうかは、まだはっきりしません。日本の近未来を予測するうえでも、この英国の核・原子力・原発を巡る動きには目が離せないと思われます。(そして、愚かの上塗りとして、日本の経済産業省は、日本国内の原発と原子力産業温存のため、英国で原発に導入され始めている「FIT-CfD](「差額決済型の固定価格買取契約」)を日本でも取り入れようとしています。とんでもない話です)

 

(一部抜粋)

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2016年からの電力小売り全面白由化を前に、日本政府は原発優遇措置の制度化を検討している。その制麿設計にあたって経済産業省が参考にしているのが、英国政府が新たに編み出した「差額決済型の固定価格買取契約」(FIT-CfD)と呼ばれるシステムだ。英国は世界に先駆けて1989年に電力自由化に着手し、現在に至る。その過程で明確になったのは、原子力は価格競争力に劣り、国の政策的・財政的支援がなければ存続困難、という事実である。自由化先行国の英国では、原子力はどのような軌跡をたどり、現状はどうなっているのだろうか。政府による原子力救済策を含め、この四半世紀の英国原子力事情を振り返ってみたい。

 

(中略)

世界に先駆けて核エネルギー利用に着手した英国は、事故と汚染でも先行した。NDA(田中注)によると、そうした経験から得た知見を世界と共有していくのだという。そのひとつが福島原発事故処理にあたる東電社内分社「福島第一廃炉推進カンパニー」とセラフィールド社との連携だ。両者は2014年5月、技術協力で合意。調印式には安倍晋三首相も同席した。いずれにせよNDAの作業は緒についたばかり。その前途には高レベル廃棄物の最終処分をはじめ、数多の超難題が横たわっている。

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注:「NDA」=2005年4月に正式に発足した原子力廃止措置機関のこと

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0102:150127〕