今年も3.11がやってきて、東北の津波の被害からの復興の現状や、福島第1原発による地元民避難生活や除染作業の進捗・問題など、メディアではそれこそ判で押したような報道であふれている。しかし、それがあの東日本大震災という巨大な災害の全体像を捉えているかというと、いささかの違和感を持たざるを得ない。もっと被害が水平的にも垂直的にも広がっているというのももっともな視点も当然提起されてよいだろうが、一人ひとりの生きた経験が語られてきていないのではないか、という思いをずっと筆者は抱いてきた。
以下は、ちょうどその時東北に出張していて、まさに真っただ中で3.11を潜り抜けた、筆者自身のささやかな体験の記憶。
当時まだ私は、最初に勤めた企業を早期退職して、転職先の中小企業で第2の人生をスタートしてほどないころだった。3月11日は金曜日。青森県のとある地方都市にある傘下の工場での月次会議を前日に終えて、新青森から新幹線で東京目指しての帰路にあった。始発新青森に同僚数名と乗り込み出発したのは、午後2時20分過ぎだったろうか。私はどういうものか、飛行機だろうが列車だろうが、乗り物が動き出すとすぐ眠りに落ちる習性があって、その時もご多分にもれず、ものの五分もししないうちにうつらうつらしていた。眠りながらも大体どれくらい時間が経過したのは何となく分かるもので、30分もたたないうちに、列車はなんの前触れもなくしかも前のめる感じも揺れもなく、何事もなかったように停車。停車してその時点ではっきり目が覚めた次第。同僚が地震で止まったみたいだとつぶやいているさなかでまた揺れが襲ってきて、ようやく状況が掴めてきたが、窓の外は真っ暗で、これはトンネルの中で停止しているのだ、と理解できたところで、これはちょっとえらい状態かなと不安が少々頭をもたげてきた。そこへ社内放送で激しい震度を感知して緊急停止ていますとのアナウンス。
ただそれ以上の情報はない。
どうなってんだろうねと、同僚と言葉を交わしたり、ちょうど真後ろの座列に座ったおばあちゃん3人組のおしゃべりを何となく聞いているうちに、宮城県東部で震度7の地震がありました、という言ってみれば第一報がまた告げられた。「震度7??そんな馬鹿な、そんなだったら仙台壊滅だろう、マグニチュード7の間違いではないか!?」と訝しんでいると、ややしてまた第二報があって東北沿岸に高さ10メートの津波が押し寄せて、沿岸地域は直撃を受けた云々。
ここに来て、これはエライことだ、おそらく東北沿岸地域は津波にさらわれて、阿鼻叫喚の様だろう、新幹線でトンネルで停止している自分たちを救助している場合ではない、3日は閉じ込められるのをその時点で覚悟した。ただそのあとの車内放送は近場の駅も完全閉鎖状態で、実際の水・食糧の手当もめどがつかなくて云々。そのうち列車の予備電源も切れてきて、暖房も止まり、3月とは言え東北の山間地のトンネル内ゆえ段々日こんできて、心もとないことこの上なくなってきた。
そうだ横浜の家族に一応無事を伝えなくてはと、携帯は元々トンネル内不通なので、社内の公衆電話にたどり着いてみると、どうだろうすでに20名ほどの列。それでもテレカを買って、30分ほど並ぶと順番が来て自宅にかけるも回線繋がらず、近隣に住む義父宅には直ぐにつながって、手短に無事を伝えてくれと頼んだ。驚いたことに同僚たちは、のんきにおしゃべりに興じて家族への連絡に気を回すそぶりも見せない。気づくと後ろのおばあちゃんたちは、逆におしゃべり止めていつの間にか押し黙っている。(いよいよお迎えか?)。どうしたものか、JRから冷え切った高級海鮮弁当が差し入れられた。
途中省略するが、寒さに身を縮めながらもうとうとしていたのだろう、だいぶたってからまた社内放送で、これからバスで移動だと。時刻は日が変わって12日の朝7時。JRの職員に誘導されて、車外からトンネルを出口方向に歩くとものの200メートルほどで出口。雪道をやや行くとJRのバスが待ち受けていて、三々五々乗り込み、これから30分ほどの八戸の高校体育館に避難ですと。
そこは八戸郊外の丘陵地帯で、雪もなし、春先の日差しで暖を取れた。体育館内にはすでに100人ほどがストーブの幾つかに遠め近めに数人のグループを作って避難している。ああ、これって避難民だなあ、まさしく自分もそうなんだと、妙な納得。ちょうどその日は国公立大学の入試日で、弘前大学の入試がどうタラと、父兄と高校職員が問答もしている。しかし停電中でテレビなどの情報源なく、いったい世の中どうなっているのか皆目見当つかず。ただJR職員がやってきて、メガホンで交通機関一切途絶、タクシーもスタンドが動いていないので使えないと連れない伝言。同僚と体育館の片隅に座り込んで、どうしたものかと。SMSで工場の人間に迎えを頼むも、余震があるので海沿いを走れず無理と断られる始末。本社の人事担当役員に、無事避難していることを、SMSで伝え、明け月曜日は余震などの懸念あり、全員不出社にすべきと進言も、聞き入れられず、こんなのよく人事担当役員にしているなと、経営に非常な疑問。
ここに一週間くぎ付けかと半分覚悟を決めた、そういえばなぜか板チョコ3枚をトランクの底に忍ばせてあったがこいつは最後の最後の隠し玉だ。
そう思って、腹をくくると、ここにじっと座っていても仕方ないとばかり、付近の探索に。ちょっと歩くと町中に出たが、交通信号は停電ですべて点灯していない。それでも、車の流れはあって、交差点では譲り合いの精神(忖度?獏藁)でいささかの渋滞・衝突もなし。もっと驚いたのは、その中にあって路上検定をやらかしていること。あとで事情通に聞くと、なんでもちょうど卒業シーズンだから、就職に間に合わせて、免許取得だそうで、海の方へ一寸行ったら、大惨状が繰り広げられてるに違いないのに、こちらでは、なんとものどかに社会人準備。生死とはこれほどの紙一重なのかと、深く感じ入った。お店というお店はすべて営業しておらず、とあるスーパーの店先で、乾き物だけを並べていた。だって停電中ですから、生鮮食料品出せませんわな。それと、あれだけの揺れだったはずなのに、市内の建物に倒壊はおろか、歪み、ヒビ、瓦落ち、見た範囲では一切ない。このコントラストもすごいものだった。
そういえば同僚の一人が暫く姿を消していたが、腎臓の透析を受けに病院を探して、どうにか難を逃れたとのこと。非常電源を備えてかつ透析のある、というのを探したわけで、命に係わるとはいえ執念だなと妙な感心。
どうもこうもなく、体育館に戻って今夜はここで一晩明かすのかと少々疲弊感もこみあげていたところ、途中まで行くだけ行くというタクシーがあるというじゃないか。聞くと、三沢の近くにプロパンステーションがあってそこがやっていたら、工場のあるところまで行くという。それじゃやって下さいで同僚と共に、2台に分乗。行けども行けども、停電でどこもかしこも真っ暗の中を走り続けること、1時間ほどでくだんの薄明りのステーションに到着。無事ガスを満タンに充填して、また暗闇を走る走る。
新青森から30分足らずはしっただけなのに、工場に舞い戻るのに5時間近いドライブだった。が、なんにせよ、工場には温泉あるは宿舎はあるは天国。何より電気が通じていて明るい、暖かい。
緊急事態ということで炊き出し、ビール、アルコール、ツマミ準備万端言うことなし。電気が通じでいるのは、近くに市の病院があって、特別給電地区だそう。
ようやく人心地ついて、ふと気持ちが向いたのは「原発」。工場に残っていた部下が見入っているテレビを横見してみると、福島第1原発から白い煙。とうとうやったか、とその時は思ったがまあそのうち何とか収束するだろうと高を括っていたし、こっちはそれよりなにより、どうやって東京に戻るか、それしか頭にないしぃ~新幹線はおろか全陸路は遮断された状態では、1カ月は様子を見なくてはならないのか。まず、ゆっくり寝床で休むべし。
よく13日日曜日朝一、ダメもとで青森空港のサイト見ると当日でJALの通常便より一回り臨時便があってしかもまだ空席あり!しめたとばかり、間髪入れずに予約入れましたね。この時はほんと一安心、目の前が晴れ渡った。
たしか10時前後のフライトで、工場の人間に雪の山中の空港まで送ってもらったか。なんとか東京のベッドルームに午後3時くらいにはたどり着いた。東京もかなり揺れたと聞いていたが、こちらも平穏ないつもの日曜日。
ただ近くの横断歩道橋の根本のアスファルトにちょっとひびが入っていた程度。部屋の中も、ひっくり返っていやしまいか、愛用の巨大スピーカー無事かいな、と恐る恐る、足を忍ばせた。
しんと静まり返って、何事もなかったように迎い入れられた。荷解きを一通りすませて、ふと本棚の前の床を見やると、文庫本が一冊。手に取ってみると、小林秀雄の『様々な意匠』だった。そう、確かに様々な生と死があったし今もあり続けている。それを何かの折にいつも思い返す。津波に備えて土地をかさ上げ、防波堤を入念に巡らす、原発再稼働を厳しく規制する、あるいは阻止する、そうして暮らしの場を再建する、それはそうなんだが、しょせん人間というちっぽけな存在が浅知恵の周りを目途もつかずに彷徨しているに過ぎないのではないか。
それは虚しすぎる思いなのだろうか。
(終わる)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion9533:200311〕